仏像

時代とお国柄が見えてくる?超初期仏教徒が崇めた宝塔とその変遷

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季節が秋へと向かう中、紅葉と共に歴史ある建物を見る為、もしくは何かを悟る為、寺院巡りをする方も多いと存じます。
法隆寺などで高くそびえる五重塔を見て「歴史を感じるねえ」と感慨にふけるのもいいでしょう。
しかし、ご存知でしたか?この五重塔、元を辿るとお釈迦様の骨壷から来ているんです。仏塔とも呼ばれる宝塔(別名仏塔)が、今回のテーマになります。

お釈迦様の涅槃

それは、お釈迦様が入滅、つまり亡くなられる少し前の事。弟子のアナンダを呼び、こう言いました。「出家した僧侶には修行を続けるように言いなさい。私の葬式には出なくていいからね」「分かりました」遺言なので修行を続け、入滅後はお釈迦様の没したクシナガラの人々に葬儀を任せました。この葬儀は事前にお釈迦様が指示をしていた物で、御遺体をぐるぐる巻きにし、数日間歌ったり踊ったりしてご供養したとのこと。
入滅に間に合わなかったマハーカーシャーパ(迦葉尊者)が師匠と再会したのは七日目でした。信者は後継者による供養の後、葬式の一切を手掛けたマッラ族の聖地に当たる場所、マクダバンダナにてお釈迦様を火葬にしました。
クシナガラはお釈迦様の入滅、涅槃の場として仏教四大聖地として数えられています。ちなみに、後継者の到着まで遺体を焼かなかったのは一説によると火がつきませんでした。「薪湿ってるんじゃないの!?」とマッラ族の人々が思ったのか分かりませんが、マハーカーシャーパが師との別れを済ませた後やっと薪が燃えだしたそうです。弟子が来るまで待っていたんですね。「後は任せたぞよ」との信頼すら感じさせます。

お釈迦様も困惑?遺骨の配分で争い勃発!?

しかし、そんな師弟愛の感動も吹き飛ぶような事態が起こりました。
すでに仏教も普及していたこの時代、マガダという国の王アジャータシャトルや商業都市ヴァイシャーリーの部族、リッチャヴィ族が「お釈迦様の遺骨!?欲しい!チョーダイ!」と要求してきたのです。この時代、仏像なんてものはありませんでした。理由は簡単。「お釈迦様の像を作る!?何恐れ多いこと言ってるんだ!」と言った風潮があったためです。「観音像は?」「明王像は?」とお思いの方へ言っておきますが、そもそも観音や明王と言った概念すらありませんでした。この時代、仏様はお釈迦様のみですし、明王はずーっと後に生まれる密教の出身です。
そして、そのお釈迦様亡き今、人々が縋れるのはもはや物言わぬ遺骨のみ。「俺らが葬式全部やったんだ!だからマッラ族が全部引き受ける!」「俺らだって経典作ったぞ!」と聖人の遺骨を巡って争いが起きかける本末転倒な事態が起こりかけたのです。戦争が起きる一歩手前で、お釈迦様も困惑されたはず。しかしそこはバラモン(聖職者)が諫めました。「皆で仲良く分けよう。そうした方が、お釈迦様も喜んで下さるよ」こう言って怒れる信徒たちを納得させたのが、ドローナという人物。この舎利八分と呼ばれる出来事は、レリーフなどで残っています(「舎利」とはお釈迦様の遺骨です)。
一騒動ありましたが、遺骨のみならず、灰に至るまで、信徒たちに分けられた物が石塔(ストゥーパ)に入れられました。これが世界初、仏教の崇拝対象となります。

インドの宝塔

インドの石塔は巨大なドーム状を成しており、表面に石塔を参拝する人物を刻んだりしているのが大部分です。
最も有名なのが、サーンチーの塔と呼ばれる物。これはインドを統一し、「仏教はいいよー」と奨励したアショーカ王が建てた物です。アショーカ王は「仏舎利を頂いたけど、皆もお釈迦様を拝みたいんじゃないかな。申し訳ありませんが、さらに細かくさせていただきます」と、一旦収められた仏舎利を掘り出し、細かく砕いて、84000ものストゥーパを建てたとされます。
この数はさすがにホラと言ってもいい物ですが、アショーカ王が仏教保護に勤めたのは事実です。
やがて仏教があちこちに広まると、さすがのお釈迦様でも遺骨がなくなっていきます。「じゃ、何か代わりになる物を」ということで、「この人お釈迦様波に凄いから」とされた高僧の遺骨や経文、仏像などを内部に収めるようになりました。インドの宝塔、ストゥーパはドーム状を成し、てっぺんに仏舎利を入れた平頭を置いて、高貴で尊い人物の証である傘蓋をかざすのが一般的でした。
その後時代が下りグプタ朝になると、一転してドーム状ではなくスレンダーなストゥーパが作られるようになりました。そこからクシャーナ朝ともなるとさらに凝った彫刻を施すことになります。

中国の宝塔

起源二世紀、漢の時代中国に仏教が渡り、宝塔もまた伝わりました。
四千年者歴史というキャッチコピーで知られる中国のこと、基本的に宝塔は申し訳程度に傘蓋がつくのみで、あとは如何にもなチャイニーズ様式の建築です。といって、「他の国の影響は受けないアルよ」と意固地だったわけではなく、時代時代によってネパールやガンダーラ、チベットなどの宝塔を手本にしていました。
中国の宝塔は仏舎利を収める為だけの物ではなく、仏様を祀る本殿の性格が強く、後々仏像を祀るお堂、仏殿と仏舎利を分けるようになります。

日本の墓地にもあるストゥーパ、その形状の意味

ちなみにストゥーパですが、日本の墓地でも見ることができます。墓標ではありません。卒塔婆です。墓標の近くにある木の板のことです。
元々ストゥーパを漢字にした物で、あのデコボコしたような形状にも意味がありました。
同じく日本の墓地で五輪塔という石の塔をご覧になったことがあるでしょうか?あれもストゥーパの一種であり、卒塔婆とは実質同じ物なのです。上から順に空(先端の尖った球)、風(半球体)、火(屋根のような形状)、水(球体)、地(六面の土台)という古代インドにおける自然の要素を表しています。卒塔婆もよく見れば五輪塔をスリムにしたような形状をしているので、お墓参りの際にちょっと確認するのも面白いかもしれません。
もちろん、供養もきちんと行いましょう。日本で卒塔婆が作られるようになったのは平安末期頃。
しかし仏教を伝えた中国などでは卒塔婆や五輪塔はありません。というか、お釈迦様以外で骨壷として使っているのはどうやら日本だけです。意外な所でオリジナル性を発揮しています。
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