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仁王像の秘密! 実は意外と下っ端? 阿吽像の左右の配置の決まりは?

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仁王像は仏像の中では、かなり有名な存在です。
そして、そのネームバリューの多くは、稀代の名作との呼び声が高い、東大寺は南大門の仁王像から来ていることも、まぎれもない事実でしょう。
東大寺南大門にある仁王像は、金剛力士立像とも呼ばれていますが、その造形の見事さにおいて、日本有数の仏像であると言われています。
しかし、東大寺南大門の仁王像が非常によく知られている一方で、そもそも仁王とはどのような存在であるのかについては、よくご存じない方も多いのではないでしょうか。
この記事では、仁王や仁王像に関する情報をご紹介していきますので、ぜひ、ご参考になさってください。


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二体一組の仁王像、その配置やお姿の特徴とは?

仁王像には、大きな特徴があります。
一般的に仁王像は、二体一組で配置されています。仏像は二体ありますが、どちらも仁王像なのです。
ただし、左右それぞれの仁王像に、別々の名前がついています。向かって右側の仁王像が阿形(あぎょう)像、向かって左側の仁王像が吽形(うんぎょう)像という名前です。これは、「阿吽(あうん)の呼吸」の阿吽から来ています。
ちなみに、「阿」には「物事の始まり」、「吽」には「物事の終わり」という意味があります。そのため、阿形像は口を開けて「物事の始まり」を表現しており、吽形像は口を閉じて「物事の終わり」を表現しています。
ただし、この左右の配置は絶対的なものではありません。阿形像と吽形像が左右どちらに配置されるかについては、時代によって違いがあります。ですから、向かって右側が吽形像で、向かって左側が阿形像というケースもあるのです。その上、作品によっては、あえて、造られた時代よりも前の時代の配置に従っているものもありますから、なおさら、ややこしくなっています。
このような事情がありますので、阿形像と吽形像を見分けるには、お口の形を元に確認される方が、より確実です。
なお、仁王像には上半身むき出しのマッチョなお姿のものが多いのですが、これも絶対ではありません。古い時代の仁王像には、上半身裸ではなく、甲冑を身に着けていらっしゃる仁王像もあります。

仁王像、狛犬、シーサーが、門のところにある理由とは

二体一組となっている仁王像は、お寺の門のところに配置されていることが多いです。有名な東大寺南大門の金剛力士立像も同様です。
これは、仁王像が仏法の守護者として、仏教を害するものを締め出すという大切な役割があるからです。
仁王像の持つ金剛杵や、そのたくましいお姿は迫力十分で、仏敵に対して文字通り、にらみを利かせています。
仁王像には、このように門番としての働きがあります。そういう意味では、魔よけの意味があるとされている神社の狛犬と似た役割ということもできます。
ちなみに狛犬には、思わぬところで仏像との縁があります。
実は狛犬は、元々は二体一組で仏像の前に配置されるものだったのです。これは、仏教が日本に入ってくるよりも前からのことです。
ただし、この時には、まだ今のような狛犬という形ではなく、獅子の形をしていました。それがのちに形が変わり、今では神社の前に置かれるようになったというわけです。
また、狛犬と似た存在として沖縄のシーサーがありますが、こちらは元々、災難を防いでくれる守り神としての役割があったとされています。

有名だけど、実は意外と下っ端……?

仁王像は迫力十分なお姿で、そのインパクトは絶大なのですが、実は仁王自体は、仏教の中ではそれほど高位の存在ではありません。
そもそも密教では仏様がランク分けされており、いちばん高位のランクが、大日如来や阿弥陀如来などで有名な「如来」とされています。しかし、ここには仁王は含まれておりません。
如来のひとつ下が、観音菩薩や地蔵菩薩などで有名な「菩薩」です。しかし、仁王はここにも含まれておりません。
菩薩のさらに下が、不動明王や愛染明王などで有名な「明王」です。ですが仁王は、ここにも含まれていないのです。
では一体どこに含まれているのかといいますと、明王のさらに下の「天部」です。ですから仁王は、毘沙門天や弁財天などと同じランクに属していることになります。

仁王像が親しまれている理由とは?

前項でご紹介しましたように、仁王は仏様のランク的には上から4番目に当たります。
しかし、このことは、庶民からの人気とは、あまり関係がありません。
実は仁王が属している天部は、願望成就・現世利益などの点から言いますと、かなり人気の存在と言えるのです。
これは、ランクの高い低いとは別に、天部には天部としてのお役目があるからです。
大日如来に代表される如来などは非常に高位であり、そのお力も絶大なのですが、ある意味、大所高所に立って全体を統括するような役割を負っています。
また、お役目自体も衆生の救済といった大きなものですので、日常に関係のある現世利益的なことは、主たるお役目とは言いにくいところがあります。
それに対しまして天部は、現世利益をもたらす福徳神としての性格も持ち合わせています。そのため、より市井の庶民の願いが届きやすいと考えられているのです。
つまり、「高いところにいらっしゃる高位のお方は、確かに素晴らしいが、日常のことは、それ専門の身近な方にお願いしたいよね」、ということです。
高位な方には高位な方の、位が低めな方には低めな方の、それぞれ得意分野や担当があるというわけです。

仁王像の具体的なご利益とは?

仁王が属している天部は、現世利益とのかかわりが大きいとされています。
では、仁王をかたどった仁王像の具体的なご利益とは、どのようなものがあるのでしょうか。
すでに触れましたように、仁王像の大きな役割としましては、仏法の守護というものがあります。
でも、これは、一般の方にはさほど切実な問題ではないケースが多いですよね?
一般の方に関係のある仁王像の主なご利益は、身体の健康に関するものです。
もちろん、普通に健康をお願いするのもよいのですが、仁王像は体のある部位に関して、特にご利益があるとされています。
その部位とは、足です。
仁王像が配置されている門には草鞋(わらじ)が奉納してあるケースが多く、その様子からも足の健康へのご利益が期待されていることが分かります。
昔は、足に履くものといえば草鞋が主でしたから、草鞋を奉納したり、門のところに掲げたりすることで、足へのご利益(いわゆる健脚)をお願いしていた、ということです。

仁王みたいだけど仁王じゃない!?執金剛神って、何だ……?

仁王について取り上げる時、絶対に忘れてはならないのが執金剛神です(しつこんごうしん、しゅこんごうしん、など複数の読み方があります)。
この執金剛神は天部に属する御仏なのですが、仁王と大変、縁が深い存在なのです。
実は、仁王と執金剛神とは、ルーツが同じだと考えられています。そのルーツとは、古くはバラモン教の神々であり、それがやがて仏教を守護する存在へと変貌していった、ということです。
そして、仏教を守護する存在へと変貌したさらに後の、過去のある時点で分岐して、片方は仁王となり、もう片方は執金剛神と呼ばれるようになった、というわけです。
執金剛神は、このように仁王と非常に近しい存在なのですが、その反面、大きな違いもあります。
執金剛神と仁王の最も大きな違いは、その数です。
仁王が二体一組なのに対し、執金剛神は単体で配置されるのが一般的です。つまり、元々は同じ存在だったのですが、時の流れの中で、一体のみの執金剛神と、二体一組の仁王とに分かれた、ということです。
ちなみに、執金剛神像の外見上の特徴としましては、甲冑姿や金剛杵などがあります。
また、日本国内で有名な執金剛神像には、東大寺法華堂の執金剛神立像などがあります。

国内の著名な仁王像とは?

仁王が門番になったのは力比べが原因だった?

仁王様が寺院の門番になったのには、経緯があります。何事にも経緯、原因はあるものです。そこから結果が生まれるというのは、仏教の根源的な教えですね。
では、何故仁王様は門番になったのでしょうか。それははるか昔、唐の時代までさかのぼります。
仁王様はあまりに怪力なので、少し調子に乗っていた時期がありました。「唐に我慢とかいう強者がいるっていうじゃないか。ちょっくら力試しに行こうかね」と図に乗った若者の典型のような理由で出かけます。生憎、我慢さんは留守でした。
仁王様は「あの子(我慢)が帰るまでお待ちくださいね」と、我慢の老いた母親からもてなしを受けましたが、この老婆が尋常ではない強さでした。
「婆様でこの強さ?我慢はどれだけ強いんだ?」とさしもの仁王様も恐れをなし、我慢が帰ってくる足音を聞くや縮み上がって逃げ出します。
しかし、我慢も老婆から力比べの話を聞いたようで、「逃げるな!」と追ってきました。海に逃げ込もうがお構いなしです。丈夫な鎖を投げるなど、かなりの問答無用ぶり。
「戦おう」と言ったのは仁王様の方なので仕方のないことではありますが、無茶と勇気は違います。仁王様は神様に助けを求めました。
「助けて下さったら門番となります!」と祈ったのが通じ、どうにか逃げ切ることに成功。
我慢の方は地域によって井戸に閉じ込められたなど諸説ありますが、元々は仁王様の過信から来る無茶な決闘でした。
しかし、実際仁王様に自分を過信するほどの力があったのは事実ですし、実際門番の役目は務まっています。何がきっかけで天職に就くか分かりませんね。

国宝の仁王様はたったの3組

仁王様を祀る寺院は数あれど、国宝に指定される仁王様は、全国で3組しか存在しません。それも無理からぬことでした。門番として寺院の外で吹き曝しが常なので、保存状態が良くないのがデフォルトです。色ははげ落ち、歴史的価値や芸術的価値こそ高くても、国宝には及ばず。
そんなややブラック企業的な状況に身を置く仁王様の中において、国宝とされるのは東大寺南大門、東大寺三月堂、興福寺国宝館に安置されています。

【東大寺南大門】
仁王様といったらこちらを思い浮かべる方も多いでしょう。運慶、快慶らによる慶派の仏師たちがたったの2カ月で仕上げた超傑作です。今更語るまでもない力強さ、頼もしさで、入り口の段階から圧倒されます。
ややディフォルメされていますが、このディフォルメも迫力が出るようにと計算づくのものでした。

【東大寺三月堂】
正式名称法華堂に安置される仁王様は、色々と南大門のものと違いがあります。まず、服装。上半身裸でいかにもパワフルな南大門の仁王様とは違い、こちらは武装をしています。
仁王様と言えばその佇まいに圧倒されてあまり頭部に目が行かない物です。三月堂の阿形像は逆立った髪をしているのが特徴で、珍しいことづくし。
振り上げた手も相まって3mと小ぶりながらも、その迫力は南大門の阿形像に引けを取りません。
吽形像は髪を結っており、動きも比較的静かな印象。それでも内から強いエネルギーを感じさせます。
配置としては、お堂に入り向かって左側に位置します。さらに左にいるのは四天王の一人、増長天(両手で矛を持つ姿)です。吽形像はご本尊の不空検索観音像を挟み、向かって右側に位置します。吽形像の右にいるのは、持国天です。
お堂の中でご本尊を守る四天王と共に、仏敵ににらみを利かせて信者やご本尊を守護しています。

【興福寺国宝館】
上半身裸、という点でいえば東大寺南大門の仁王様と似た面がありますが、金剛杵や天衣(羽衣のような布)もつけていません。下半身を覆う裳(も)だけです。
余計なものを取り払い、訴えたい必要なものだけを残した。そんな印象を与える仁王像と言えます。筋肉質の足がしっかりと足場を捕らえており、仏敵排除の任をこなしているとのイメージが強いです。

薬叉神、守護神を経て護法神へ

護法神は大抵波乱万丈、意外な経歴を持っています。仁王様もその例に漏れませんでした。
インドにいた頃、仁王様は薬叉(やくしゃ)神のひとりでした。薬叉というのは、夜叉とも呼ばれる鬼神の一種です。
仏教の天部と呼ばれる存在は半分くらいが元鬼神なので、そこは別に驚くに当たりません。阿修羅を含む八部衆も元をたどれば大部分が鬼神でした。
仏教に取り入れられた後、仁王様は重要な任に就きます。門番ではありません。お釈迦様の?生神(ぐしょうしん)です。
?生神というのは、二人一組の神で、人が生まれると同時に誕生し、休むことなくその人が行ったこと(主に善悪)を記録します。その人が死んだら閻魔様に「この人はこういう人でしたよ」と報告するのが?生神の務めです。
地獄絵などで、閻魔様のもとにある生首のような存在が?生神で、「この人はこんなことをしましたよ」と言ったことを報告するわけです。
「報告しただけか」とお思いでしょうが、?生神には、ついている人を守護するという役目もありました。ただ肩に乗って「はい、悪いことした、減点」とか言っているわけではないのです。
仁王様は常に金剛杵を手にお釈迦様を仏敵から守っていました。?生神自体が煩悩を意味するとの見方もありますが、お釈迦様は煩悩も何もかも超越した方です。おのずと、見張り役ともいえる?生神を自分を守る神に変えたとも言えるでしょう。
そんな実績も相まってか、仏教が盛んになると門番として寺院を守るようになります。役目は仏敵を寺院に入れないことです。

ポージングのモデルは中国の版画

日本で一番有名な仁王様、と言えばやはり東大寺南大門の二体でしょう。大きさや躍動感は群を抜いています。
ところで、東大寺南大門の仁王様には「一般的な仁王様配置が逆」との指摘が度々あります。
向かって左に阿形像があり、向かって右に吽形像があるのは異例です。これに関し、宋の時代の仏教美術をモデルにしているのではないか、との見方があります。
南大門の仁王様はポージング、配置、金剛杵の持ち方が、中国宋の時代に作られた版画に酷似しているというのです。南大門事態にも宋時代の影響があるとされており、ある種のリスペクトが伺えます。
ここで思い浮かぶのが、「偉大なものは模倣から生まれる」との言葉です。素晴らしいものを見て、感嘆する。それを手本にする。手本にしながら、自分なりの何かが生まれて、更に素晴らしいものが生まれることも少なくありません。
先人をに敬意を表してその技を研究することで、新たな宝が生まれていくのです。

神仏習合で神社にも置かれた仁王様

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