日本史

誇らしい日本文化・茶道と堺商人たち

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「応仁の乱」にて破壊された公家と武家の上下関係を含め、日本の行政的根幹が大混乱したまま、次に来る時代のルールを担うのは誰かを決めるために、野心に滾る人間たちによる血なまぐさい覇権争いが続いていたのが、戦国時代です。

腹の底で何を考えているかわからないような味方や敵に取り囲まれた領地を支配しながら、世の流れである下克上に警戒しつつ、城内の上司や部下すらも信用できない戦国時代では、確証ある鮮度の高い情報を得ることは死活問題でした。

そこに登場したのが、「わび茶」です。
信じるものは自分自身しか存在しない戦国武将が、自ら刀を置き、頭を下げてくぐるしか方法のないにじり口を通ってくる価値が、茶室にはありました。
その茶室には、後の日本人が誇らしいと感じてやまない美学が詰まっていたのです。
今回は、海外の人々が夢中になる日本文化の粋である茶道と、それを文化に昇華した堺商人たちをご紹介します。

茶道の始まりは、遣唐使由来の茶の種

茶を日本に伝来させたのは、遣唐使として唐に渡った最澄と言われています。彼らが唐からお茶の種を持ち帰り、日本に植えたという記録が残っており、中国伝来の茶の味利き勝負(使用茶葉の産地や水の種類を当てるもの)が鎌倉時代に「闘茶」として広がりました。

いかにも場が盛り上がりそうな「闘茶」は華やかな書院にて行われ、使用される茶器は高価な唐物の輸入品でした。現在に伝わる「茶道」とは趣が違いますね。

今に伝わる「茶道」の基礎を形成したのは、安土桃山時代の堺商人たちでした。

1469年に遣明船が堺の港に着岸したことから、国際貿易都市として注目されるようになると、堺の商人たちは薩摩から種子島を経由して琉球まで船を渡らせ、利ざやの高い商売をしていたのです。

その機動力と情報ネットワークの精度の高さで、鉄砲の製造技術もいち早く持ち帰り、堺にとって鉄砲は有力産業となりました。

そんな誇り高き豪商たちは自治意識が強く、選ばれたエリートたちが「会合衆」となり、堺の海側を除外した三方向に堀を巡らせ、荒々しい戦国武士が攻め込みづらい市街を作り上げ、合議で堺の地を独自に運営しました。

そのエリートの中に、武野紹?、千利休、今井宗久、津田宗及らが名を連ねていました。
彼らにとって茶道とは、互いの権勢をあからさまに比べあう場ではありませんでした。
品性や平常心が損なわれた戦国時代だからこそ、平民の身分である豪商たちは、自分たちの才知と努力で築いた富を誇らしいと思っていたことでしょう。
だからこそ、お互いが理性的に穏やかに会話し、堺を守るために会議する茶の時間を大切に思っていたのではないでしょうか。
そんな彼らの理念は、当時最先端の知識でありハイセンスな教えであった禅宗からの影響を大きく受けていました。
巨大な富と権力から離れ、茶の湯を誰もが平等に楽しむためのルールが形成されていったのです。

戦国武将はなぜ堺商人ルールの茶道に傾倒した?

会合衆によって経営された自治都市・堺は、織田信長よって方向転換を余儀なくされました。1568年に軍用金二万貫を要求された堺は抵抗したのですが、織田軍の武力を前に屈し、自治権を奪われてしまいました。
しかし、堺商人たちの心は屈しませんでした。
彼らの武器は富だけではありません。禅の教養と美学、そして商売人ならではのエンターティンメント性です。

堺商人が形成する貿易・情報ネットワークの前線基地として、茶室が使用されるようになりました。

安土桃山時代の戦国武将の美学は、人々に自分が持つ権威と財力を一目で理解させるような絢爛豪華さが主流でした。

表ではそうですが、その裏側に隠していた本心はどうだったでしょう?

戦国武将は、名もなき地方の郷士や農民から才覚のみで出世した成り上がりが多かったのも事実です。

郷里を彷彿とさせる質素で小さな茶室を、あえて豪華絢爛な装飾が施された城や住まいの一角に作ることで、心が安らぐ場として利用していたのではないでしょうか。

質素な佇まいの狭い茶室で、郷里を思い出させる古びた茶器を抱くと、茶の温かさと優しい茶葉の香りに包まれます。殺伐とした戦国時代にあって、心癒される瞬間だったことでしょう。

お茶のセラピーを受けながら、膝を突き合わせて語る茶人や武将とも自然に和やかな間柄となるに違いありません。
これが、特に千利休が得意とした「茶室外交」の本質なのです。

戦国の世に「茶室」という、乱世のルールから除外されたエリアを形成し、普段は口が避けても言えないような極秘情報や外交政策から、気楽な噂話まで、段差なく話したくなってしまう環境を作りました。

織田信長や豊臣秀吉ら、当代一の戦国大名はこのサロンづくりに長けていて、ここに参加するために戦国武将は千利休ら堺の茶人に教えを乞い、堺の茶人は招かれた先でその地の政治や軍事の秘密情報を知り、それをうまく自分たちの貿易交渉に繋げながら、茶室から発信される情報を、パトロンの戦国大名たちに有利なようにコントロールしていたのです。

千利休の愛した茶室のレプリカがある

千利休は茶人というアーティストとはいえ、人の心を感じ取って商売して名を上げたプロデューサーでもありましたから、豊臣秀吉の派手好みに合わせた「黄金の茶室」をプロデュースすることで、「茶道はルールが厳しくて気が利かない」という思い込みを排除し、民衆のエンターテインメントともなり得ることを広めました。

作法は「わび茶」のまま、黄金のみで作られた茶室は茶道具まで徹底して黄金でした。

お茶だけではなく、茶請けの和菓子にも羊羹を用意するなど、禅の教養のない民衆でも理解できる茶道の楽しさを伝えることで、一部の特権階級のブームに留まらず、文化として根付くよう意識していたようです。

とはいえ、千利休が考える茶室とは、国宝「待庵(たいあん)」の質素なつくりが本質です。

堺の商人たちが磨き上げた誇らしい日本文化の粋である「待庵」の様子を気軽に楽しめる施設があります。
『さかい利晶の杜』で、創建当初の姿で復元された「さかい待庵」です。
大阪府堺市にあるこの施設は、誇らしい日本の茶室文化と気軽に楽しめる総合施設ですので、ぜひ足を運んでみてください。
★ さかい利晶の杜:大阪府堺市堺区宿院町西2丁1-1

まとめ

いかがでしたか?
自分の権勢を対外に激しくアピールすることで、芸術によって自分の権力を防御していた戦国大名の美意識を、どんな人の心にも潜む平穏さへの望みを思い出させる「わび茶」を代表とする茶道文化によって、少しずつ平和へと足並みをそろえさせる堺商人たちのプロデュース力に感心します。

茶室に入れば、誰でも一人の人間として平等となり、同じお茶をひとつの茶碗ですする博愛の心は、誇らしい日本文化のエッセンスとして、現在まで続いています。
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