仏像

仏教世界は変化が当たり前

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「何か変わった?」と言った意味合いで使われる変化(へんか)。仏教では変化(へんげ)と言います。

変化とは

仏教における変化(へんげ)とは、変化身とも称されます。
これは仏が衆生の力量や理解度により、その衆生に応じた姿をとることで救済や教化(教え諭すこと)に当たると言う意味です。この世界は諸行無常、移り変わる物とするのが仏教の根幹の教えとされます。
お釈迦様は人としての生を終える時、「この世は移ろうけど、自分と真理を頼りにして、修行を続けなさい」と言いました。
色々と移ろい変わる世界ですが、真理だけは変わりません。その変わらない真理を、様々な姿に変化して教えると言うちょっとひねりの利いた教えです。

変化する観音様

変化において、一般人にも関わりと馴染みのあるのが観音菩薩です。
三十三もの姿に変化をし、衆生の救済や布教活動に励みます。実は、この変化の姿も相手に合わせているのです。「この人にはこのアプローチ」「この人はこの姿で言った方が話を聞くだろう」といった具合に合わせます。観音菩薩が他の姿に化けて奇跡を起こしたり仏心を見い出させるのは古典文学に数多く書かれています。
しかし基本的に観音菩薩が取る変化の姿は身近にいそうな人間です。子供だったり仏教僧侶だったり、物まね芸人も真っ青の変化ぶり。「観音菩薩」としての姿も実は変化した後の物です。馬頭観音、千手観音、十一面観音、いずれも同一人物であり、一人三十三役をこなしていると言えます。
これはどんな相手にも応じた姿で衆生を救うという慈悲の体現なのです。ある時は無数の腕で救い、ある時は怒りを見せ、ある時は360度ぐるりと見回すようにして、隙のない救済性を表します。

明王も変化した姿

如来、菩薩の下に位置し、密教で生まれて仏法を守る明王も、実は変化後の姿です。
密教ではあらゆる仏は大日如来の化身であるとされます。比較的信心深く、真面目に仏道に励む人物には如来や菩薩の姿で語り掛けますが、「ホトケ?ナンボのモンだよ」という輩に対しては強く出るのです。明王への変化は教令輪身(きょうりょうりんじん)と言います。明王は手加減をしません。大体明王が教化する相手は異教の神です。「いや、インドの神様まで引き入れなくても」と思う所ですが、宗教というのは往々にして、他教の神を引き入れることもあります。
仏教とて例外ではありません。それに明王には仏法守護の性格もあり、その点は頼もしい存在です。

まとめ

変化(へんげ)の言葉は今や変化(変化)として使われます。
お釈迦様の言った通り、移ろい変わったわけです。しかし、言葉の変化などは気にはしていないでしょう。変わらない真理を悟り、救われることを望んでいるはずです。気持ちは変わることもありますが、お釈迦様のように大きな悟りを得た方は根本が揺らぐことはありません。
お釈迦様の為というより自分の為にも、真理を探ることをしてみるのもいいでしょう。

監修:えどのゆうき
日光山輪王寺の三仏堂、三十三間堂などであまたの仏像に圧倒、魅了されました。寺社仏閣は、最も身近な異界です。神仏神秘の世界が私を含め、人を惹きつけるのかもしれません。
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