同僚から朋友へ!石田三成との友情に殉じた大谷吉継
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天下の覇者ではないものの、歴史好きに絶大な人気を誇る人物の一人に、大谷吉継がいます。
豊臣秀吉の元で仕えていた大谷吉継は、仕えてすぐに頭角を現し始め、側近のポジションである馬廻役となります。
同じ頃に秀吉に仕え故郷も近かったという石田三成とは同僚であり朋友でした。共に秀吉の政策の下で若きリーダー格として活躍していきます。賤ヶ岳の戦いや紀州征伐、九州征伐、小田原征伐などで武功を上げ、また、太閤検地の出羽での実施を担当したり、秀吉の有馬温泉湯治に同行するなど、秀吉からの信頼も厚かったことが伺えます。
刑部少将という司法を管轄する役職についていたので、大谷刑部(おおたにぎょうぶ)とも呼ばれていました。
豊臣秀吉の元で仕えていた大谷吉継は、仕えてすぐに頭角を現し始め、側近のポジションである馬廻役となります。
同じ頃に秀吉に仕え故郷も近かったという石田三成とは同僚であり朋友でした。共に秀吉の政策の下で若きリーダー格として活躍していきます。賤ヶ岳の戦いや紀州征伐、九州征伐、小田原征伐などで武功を上げ、また、太閤検地の出羽での実施を担当したり、秀吉の有馬温泉湯治に同行するなど、秀吉からの信頼も厚かったことが伺えます。
刑部少将という司法を管轄する役職についていたので、大谷刑部(おおたにぎょうぶ)とも呼ばれていました。
しかし、そんな前途洋々の大谷吉継は、病に倒れてしまいます。(ハンセン病・梅毒など諸説あります)そんなとき、支えてくれたのが朋友・石田三成でした。
有名なエピソードを1つご紹介しましょう。
それはある茶会の席でのことです。当時の茶会の作法では数人で1つの茶碗を回し飲みするのが通例ですが、大谷吉継の後は、病気の感染を恐れたため、誰も口をつけませんでした。そんな中、石田三成だけは茶を飲み干し、さらに、あまりおいしいのでお代わりを所望したい、と言ったという伝説が伝わっています。
大谷吉継の茶碗の中には、病による膿が落ちたとも、鼻水が落ちたとも説があります。それでも、何の戸惑いもなく飲み干してくれた石田三成の態度に感激した大谷吉継は、三成との生涯の友情を心に誓ったと言います。
有名なエピソードを1つご紹介しましょう。
それはある茶会の席でのことです。当時の茶会の作法では数人で1つの茶碗を回し飲みするのが通例ですが、大谷吉継の後は、病気の感染を恐れたため、誰も口をつけませんでした。そんな中、石田三成だけは茶を飲み干し、さらに、あまりおいしいのでお代わりを所望したい、と言ったという伝説が伝わっています。
大谷吉継の茶碗の中には、病による膿が落ちたとも、鼻水が落ちたとも説があります。それでも、何の戸惑いもなく飲み干してくれた石田三成の態度に感激した大谷吉継は、三成との生涯の友情を心に誓ったと言います。
豊臣秀吉の亡き後、天下をめぐって再び世の中が混とんとしてきます。
秀吉の遺児である秀頼を盛り立て豊臣家が再び天下を取るためには、家康を討つことに決めた石田三成は、大谷刑部にそのことを打ち明けます。家康と敵対をしているわけではない大谷吉継は、三成を止めます。家康との力の差は歴然、勝ち目はない!と思い直すように諭しますが、三成の決意は変わりません。大谷吉継は、三成と運命を共にすることを決意しました。こうして天下分け目の関ヶ原ははじまります。その頃にはもう、大谷吉継の病状はかなり悪化していて、目はほとんど見えず後ろの方で輿に乗って指揮を出していたと言います。三成のいる西軍から家康の東軍へ寝返った小早川秀秋の軍勢を迎え撃った大谷吉継は善戦するも切腹して果てました。
荒くれ者の多い戦国武者の中で、石田三成との友情を重んじたその姿は後世の人々の心を打ち続けています。
秀吉の遺児である秀頼を盛り立て豊臣家が再び天下を取るためには、家康を討つことに決めた石田三成は、大谷刑部にそのことを打ち明けます。家康と敵対をしているわけではない大谷吉継は、三成を止めます。家康との力の差は歴然、勝ち目はない!と思い直すように諭しますが、三成の決意は変わりません。大谷吉継は、三成と運命を共にすることを決意しました。こうして天下分け目の関ヶ原ははじまります。その頃にはもう、大谷吉継の病状はかなり悪化していて、目はほとんど見えず後ろの方で輿に乗って指揮を出していたと言います。三成のいる西軍から家康の東軍へ寝返った小早川秀秋の軍勢を迎え撃った大谷吉継は善戦するも切腹して果てました。
荒くれ者の多い戦国武者の中で、石田三成との友情を重んじたその姿は後世の人々の心を打ち続けています。