日本史

機関銃で蜂の巣にされるも奇跡の生還。桜井忠温の戦争ルポ『肉弾』が世界的ベストセラーに!

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戦争文学で知られる作品といえば、日中戦争の体験を描いた火野葦平の『麦と兵隊』、あるいは太平洋戦争の体験を書いた吉田満の『戦艦大和ノ最期』などが有名です。
ですが、それよりも昔に、世界的ベストセラーとなった戦争文学があったことをご存知でしょうか。
日露戦争での凄惨な体験をもとに書いた『肉弾』という作品です。
これは戦争に従軍した桜井忠温(さくらい ただよし)という人物によって書かれました。
桜井忠温は陸軍士官として日露戦争に参戦し、旅順で機関銃に蜂の巣にされたにもかかわらず、一命を取り留めました。
彼が体験したことをまとめた『肉弾』は、新渡戸稲造の『武士道』に続き世界の要人に知られる作品となります。

日露戦争前夜の世界情勢

日清戦争に勝利した日本は、清国から台湾と遼東半島を獲得しましたが、ロシアを中心とする三国干渉により、遼東半島を清国に返還します。
ロシアはこの時期、不凍湾を獲得するための南下政策を行っており、日本が遼東半島を返還すると直ちに半島内の旅順と大連を清国から租借し、アジア第二の不凍湾を獲得します。
ロシアけん制を目論むイギリスは、明治35年(1902年)に日本と同盟を結びます(日英同盟)。
この同盟を後ろ盾に、日本はロシアに遼東半島からの撤退を強く要求しますが、ロシアは取り合おうとしませんでした。
結果日本が1904年に戦線布告し、日露戦争開戦にいたります。

桜井忠温の経歴

桜井忠温は、明治12年(1879年)に、松山市小唐人町に、旧松山藩士桜井信之の三男として生を受けます。
幼少期は腕白な少年でしたが、明治25年(1892年)、桜井が14歳のときに四条派の絵師松浦巌暉に師事し、絵の道を一時は目指します。
しかし、明治32年(1899年)に松山中学校を卒業すると、陸軍士官学校へ進学したため、松浦門からは破門されてしまいます。
明治35年(1902年)には桜井忠温は少尉になり、その二年後、松山歩兵22連隊の旗手として日露戦争に参戦、乃木第三軍の一兵として旅順要塞へ行くことになります。

日露戦争で最も熾烈を極めた戦場、旅順要塞とは

旅順要塞は日露戦争の中でも最も死傷者を多く出した場所の一つです。
旅順はコンクリートで固められた要塞となっており、日本軍は瞬く間に機関銃の餌食となります。
この戦場で出た死傷者は一万五千人以上といわれています。

戦争体験を書いた本が世界的ベストセラーに!

乃木第三軍に所属していた桜井忠温も機関銃の餌食となります。
右手は吹き飛び、体には8つの穴が開くほどの重体です。
医師からは全身蜂の巣銃創と診断され、あわや火葬場へ移動されようとしたそのとき、桜井は息を吹き返します。
病院に収容され、療養している間、桜井は不自由な左手を使い、日露戦争の体験を執筆し始めました。
そうして完成したのが『肉弾』です。
旅順要塞における激戦の様子を克明に伝え、極限状態にありながらも兵士の安否や家族を思う人間模様を感動的に描きました。
桜井の実体験をもとに書かれた作品の迫力はすさまじく、『肉弾』が明治39年(1906年)に出版されると、瞬く間に反響が起こりました。
その影響は国内だけではなく、世界15ヶ国語に翻訳され、海外へ広がっていきます。
『肉弾』を読んだアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトは感動して子どもにも読み聞かせたという賞賛の書簡を桜井に寄せます。
また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は全ドイツ軍将兵に読ませたほどでした。
『肉弾』は千数百版を重ねて世界的な記録となり、明治天皇への単独拝謁も許可されるほどのベストセラーとなりました。桜井の『肉弾』は、近代戦争文学の先駆者として評価されることになります。

陸軍から執筆禁止令が!

このように国内外で賞賛を浴びた『肉弾』ですが、陸軍上層部から思わぬ圧力がかかります。
『肉弾』は、「惨雨血風の残酷に泣けり」という序文から始まります。
日露戦争に勝利したという栄誉ある戦功を「残酷さに泣いてしまった」と書いたことに陸軍省から非難の声が上がったのです。
桜井は陸軍から出頭命令を受け、上層部から執筆活動をやめるように圧力をかけられたのでした。
「執筆を続けるようなら、こちらも用意がある」と脅された桜井は、筆を置くことをやむなくされます。

田中義一大将の一言で再び執筆活動へ

陸軍上層部からの圧力により、執筆活動をやめていた桜井ですが、ある日再び陸軍から出頭命令が出されます。
桜井を呼び出したのは、田中義一(たなかぎいち:第26代内閣総理大臣となる陸軍大将)でした。
桜井忠温が執筆活動をしていないことを不思議に思った田中義一が、桜井を呼び出したのです。
事情を知った田中義一は、「いつまでも戦勝に陶酔している者の覚ましてやれ」と、桜井忠温に気兼ねなく執筆活動に戻るように薦めました。
こうして再び筆を執った桜井は、陸軍に所属しながらも執筆活動を再開。
勢力的に活動を行っていきます。
『銃後』、『煙幕』、『草に祈る』、『将軍乃木』、『大将白川』などいくつもの作品を執筆、刊行しました。

まとめ

日本が日露戦争に勝利したことは、海外にとっても驚くことでした。
明治維新により近代化を遂げたとはいえ、日本はまだまだ新興国の一国という認識が強かったのです。
そこに桜井忠温が書いた『肉弾』は、日本軍の勇猛果敢さを世界に知らしめる作品となりました。
タイトルに掲げられた「肉弾」という言葉は、弾丸のように敵地に切り込む行為のことをさして桜井が口癖としてつかっていたものです。
奇しくもこの言葉が、その後の太平洋戦争において、物資不足や技術が低いことを精神力と肉体で補う合言葉として使われるようになるとは桜井忠温も予想はしていなかったのではないでしょうか。
桜井忠温の書いた『肉弾』に一貫しているのはあくまでも温かくも哀しい人間愛と徹底した平和への希求だったのですから。
昭和5年に陸軍を退役した桜井は、その後も悠々自適に執筆活動を続け、昭和40年(1965年)、故郷の松山で87歳で永眠しました。
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