日本史

キリスト教宣教師「ザビエル」ミイラになって奇跡を連発? その知られざる偉業

関連キーワード

古今東西の中学生をざわつかせる衝撃的な髪型。あのスタイルが「あえて」のものと知って、2度驚く人も多いかもしれない。今回は、一度日本史で習ったらそうそう忘れ得ないだろう外国人「フランシスコ・ザビエル」について、彼の軌跡と起こした奇跡を追ってみたいと思う。

ザビエルの生い立ちと宣教師としての旅立ち、そして日本へ

フランシスコ・ザビエルは、1506年スペインはナバラ王国に生まれ、19歳でパリに留学、哲学を学ぶ。28歳の時師やともに学んだ仲間モンマルトルの聖堂で生涯を神に捧げるという誓願を立て聖職者への道を歩み始める。これがかの有名な「イエズス会」の創設である。のちベネチアで司祭の階級を得た。

1541年、教皇の意を受けイエズス会宣教師としてインドへ向かったザビエルは約1年の歳月をかけてインドのゴアへ到着、布教活動を開始した。そんな中、ゴアの聖パウロ学院で鹿児島出身の日本人ヤジロウと出会う(マラッカで出会ったという説もある)。洗礼を受けたヤジロウは、故郷日本について、ザビエルに語って聞かせたという。

ヤジロウの話を聞き「日本にもキリストの教えを広げたい」という使命にかられたザビエルは、インドを出て、ヤジロウら仲間と共に日本に向かう決意をした。

宣教師による布教とは、単純にキリストの教えを広げるという目的のみにあらず、いずれスペインが植民地支配した時に統治しやすいようにするための布石と言っても良い。為政者としては、信じる神が同一なほど、人々の統治は簡単だからだ。

とはいえ、当の宣教師たちは無心に布教に励んでいたのであろう。

一行がインドを出立したのは1549年、ザビエル43歳の春のことであった。

初めまして日本

・薩摩に上陸
インド出立から4か月、ザビエルは日本の鹿児島に上陸し、薩摩の守護大名・島津貴久に謁見を求めた。1549年と言えば、武田信玄や今川義元などの武将がしのぎを削る戦国時代。
島津貴久により、布教を許されたザビエルは薩摩での宣教を開始、この地で1年ほどを過ごすうち約100人の日本人がキリスト教徒となったという。

しかし、島津貴久は仏教の僧たちからの進言により、キリスト教を禁止にするような動きを見せ始めたため、ザビエルはヤジロウに後を託し、上洛を理由に薩摩を去ることとなった。

・平戸での宣教
京を目指すザビエルは途中、肥前・平戸に立ち寄り宣教を行っている。わずか20日程度の滞在であったが、多くの信者を得ることとなった。

・山口での宣教
京へ向かう一行は山口へ入る。周防の守護大名・大内義隆に謁見が叶うも、キリスト教は男色を禁止しているため、男色家であった義隆の機嫌を損ねてしまう。追い出されるように一行は山口を後にした。

・いよいよ京へ
ザビエルが京へ向かったのは天皇に謁見し日本全国での布教活動の許可を得るためである。インド総督とゴア司教の親書をたずさえ、当時の天皇であった後奈良天皇と将軍の足利義輝に謁見を願ったが、情勢の混乱などを原因としそれは叶えられることはなかった。なすすべもなく京を去る失意のザビエルには、京の町は荒廃して見えたであろう。

・再び平戸~山口へ
意気消沈して京を離れ、再び再び平戸に戻ったザビエルは、再度山口へ向かう。一行の着ているものを美しく整え、天皇に献上するために用意していた親書や、望遠鏡やギヤマンの水差し、眼鏡や小銃などさまざまな献上品を持参すると、珍しい品々に満足したのか、義隆は山口での宣教の許可と信仰の自由を認めた。山口では空き寺を与えられ、そこを拠点としての宣教を開始した。山口では半年間で500人以上の信者を獲得したと言われている。
ザビエルがはじめに教会とした空き寺のあとは、現在ザビエル記念公園として、人々に親しまれている。

・ポルトガル船からの情報を求め豊後へ
山口での布教が進む中、豊後(大分)にポルトガル船が寄港したことを知る。インドで布教をしているイエズス会からの連絡がないことを気にしていたザビエルは、ポルトガル船からの情報を求め、豊後に向かった。
そして、豊後でポルトガル船から話を聞いたザビエルは「日本よりも、インドの方が私を必要としているようだ」とばかりにそのままポルトガル船に乗り込み、インドへの帰還の途に付いた。
ザビエルが日本にいた期間は1549年から1551年の2年余り。ザビエルはキリスト教のほかに、眼鏡も日本に初めて伝えた人物だと言われている。

中国を目指したザビエル

日本での布教がなかなか浸透しないことに焦りを感じていたザビエルは、このように考えた。

『日本人が信仰する仏教は中国から伝わっている。古くから日本は、そのように中国を模範としているようである。日本にキリスト教を広げるためには、まずは中国に対して宣教することを優先すべきではないか』

・・・たしかに仏教は中国から伝来した。大化の改新よりも100年以上も前、538年のことである。ザビエルが来日するまでの約千年の間、仏教も、そして仏教と共に中国から伝わったさまざまな文化や技術も、時間をかけて日本独自のものに進化していることを、ザビエルは失念していたのかもしれない。

ともあれ、そのような理由からインドに帰ったザビエルは、1552年、中国に渡る前に志半ばで亡くなってしまった。その時ザビエル46歳。中国を目前にしたサンシャン島で、急ごしらえの小屋の中で息を引き取ったという。

ミイラになったザビエル、数々の奇跡とは

ザビエルの亡骸は、イエズス会の皆が待つインドのゴアに運ぼうとしたが、骨の状態でなくては許可が下りなかった。ザビエルを看取った中国人のキリスト教信徒アントニーは、遺体の腐敗を進め早く骨の状態にしようと簡単な葬儀の後棺に石灰を詰めて埋葬した。

3か月後掘り出しようすを見てみると、全く状態が変わっていないではないか。その後マラッカへの移送が決まり、マラッカでは岩に墓穴を掘り棺の中にさらに土を満たして埋葬した。さらにその5か月後ザビエルの友人がようすを見るために棺を開けてみると、未だ変わらぬ状態を保っていたという。このことは「奇跡」として解釈され、やがてその噂を聞いたインドのゴアはザビエルの遺体を呼び寄せることに。1554年ゴアに到着したザビエルの遺体は聖パウロ学院にて3日間展示された。ザビエルの遺体からは腐臭はせず、良い香りがし、内臓を抜くなどの処理をせずともキレイな状態を保ったままだったとの、記録が残っている。

それから60年後の1614年、イエズス会総長の命により遺体の右腕を切断した。その時ザビエルの遺体からは血液が滴ったという。切断された右腕はローマのボン・ジーザス教会に保存され、ザビエル伝導400年記念(1949年)と450年記念(1999年)には日本での展示が行われた。

数々の奇跡を起こしているザビエルは、いまもゴアのボン・ジーザス教会の霊廟で銀の棺の中で、キリスト教徒の熱心な信仰を集めながらも永遠の眠りにつく。
そして10年に一度の公開時には、透明の棺に移し替えられて人々に奇跡を伝えているという。
ザビエルは、本当にスゴイ人なのだ。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ