達磨さんから雲竜図が覗ける凝った演出も

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達磨さんから雲竜図が覗ける凝った演出も

天龍寺のシンボルと言えば、達磨大師の絵と雲竜図。禅宗の祖である達磨と雲龍図は天龍寺の二大シンボルと言っても過言ではありません。この二つを同時に楽しめる仕掛けが施されていました。
と言っても、庫裡の達磨図と本物の雲竜図ではありません。達磨大師の絵は達磨大師の絵で、雲龍図は雲龍図でそれぞれの良さを堪能しましょう。
開祖の達磨さんは、天龍寺のお土産コーナーにもおわします。このお土産の達磨さんの中に、天龍寺の二大シンボルを楽しめる凝った仕掛け付きのものがあるのです。
それが、500円で購入できる達磨の御守り。ストラップとしても使えます。傾けると目玉が飛びえるユーモラスな御守りです。雲龍図は、と言われればなんと、頭に空いた穴から覗くというからくりでした。達磨さんの中に龍を置き、その姿を拝むという驚きの発想です。
御守りなのでご利益という特典まであるので、天竜寺を訪れた際は是非ご購入下さい。
この御守りのご利益は、目が飛び出ることから「素晴らしい芽(目)が出る」「運が開ける」です。ユニークながら、ちゃんとご利益もありますし、ミニ雲龍図も見られる一粒で三度おいしく、有難い御守りです。

映画のロケ地になるほど美しい天龍寺

庭園だけでなく、建物の風格も魅力的な天龍寺ですが、一時期は参拝客が来ず、財政難に陥ったことがあります。金策として、映画のロケ地としての場を提供していました。
今では撮影の許可は下りませんが、白黒の活動写真と呼ばれていた明治の頃から、銀幕を通してその美しさで人々を魅了してきたのです。
特に大手映画会社の日活も、ほぼ毎年冬に『忠臣蔵』の撮影を行っていたとされます。それも、討ち入りという見せ場も見せ場、最大のクライマックスシーンの撮影です。
寺院で仇討の場面を取るというのは少々不謹慎ではありますが、武家屋敷にも似た重厚な造りが映画のロケ地として求められていました。
ところが、時代が変わって第二次大戦期になると、事情が変わってきました。神国日本を謳い、戦意高揚を掲げるようになった日本では、寺院よりも日本古来の神様を祭る神社へと関心を移していきます。
出征の際も神社に祈願、戦没者の霊も寺院ではなく靖国神社に祀られることを望むようになったのです。
そうなると、寺院の方は商売あがったり。そこで仕方なく、撮影の申請を、天龍寺側がしたとされています。
主に稲垣浩監督の『柳生武芸帖』や伊藤大輔監督の『大岡政談完結篇』が有名です。
今ではロケ地にならずとも、四季折々の美を見せてくれる庭園や、厳格ながら堅苦しいばかりではない建物などが参拝者を呼んでいます。

食べることも修行の一環・直営の精進料理店

禅宗では日常生活のあらゆることが修行と言われます。食べることも修行です。眠ることだって修行になります。滝に打たれたり、棒で叩かれたりするばかりが仏道の修行ではありません。
食べることに始まる生活すべてが修行というのは、悟りを得るに当たり、何よりも大事な心を整理するための準備なのです。その為には、まず目に見える生活を整理整頓、きちんと行おうという考えになります。
外側がきれいになるよう心がければ、いつしか心も悟るのにふさわしい方向へと整えられる、それが禅の修行の根幹にある考えです。
寺院の食事は精進料理と呼ばれるものが有名ですね。野菜料理が多いとのイメージですが、これは単に僧侶が肉食を禁じられているだけではないのです。
野菜には収穫時期というものがあります。全ては移ろうとの諸行無常が当たり前の仏教において、四季によって変わる旬の食べ物はまさに日常生活の中で変化を感じるもの。こうした所から、徐々に悟りへの道を開いていくのでしょう。
精進料理が食べられるお店がありました。それも天龍寺直営のお店です。名前は「篩月(しげつ)」。
営業時間は午前11時から午後の2時までと短めですが、味やボリュームは中々に満足度が大きいです。定休日はありません。
料理はと言えば、いずれもどこか高級な印象で、精進料理という非日常性があります。
日常の中にこそ修行がある、というのが禅宗の基本ですが、時にはこうした非日常的な中から悟りのヒント、仏の道について考えることもあるでしょう。
お坊さんたちは日々何を想っているのだろうか。そんなことを考えながら味わうのも一興です。

天井画にも負けない魅力・ふすま龍

発砲にらみという仕掛けも相まって迫力満点の天井画の雲龍図ですが、負けず劣らずの迫力を持った龍の絵はまだありました。
それが、大方丈という建物の襖絵です。曽我蕭白(そが・しょうはく)という絵師による作ですが、本物はボストン美術館にあります。天龍寺のものは模造品ですが、本物に劣らぬ迫力です。
白と黒のメリハリがはっきりしており、龍や絵自体の大きさも相まって存在感は抜群。白地のふすまにくっきりと浮かぶ龍の姿はまさに圧巻の一言です。どこから見ても目が合う天井画とは違い、見る者と目線が合うことはありません。
見ようによっては丸い目と口元がかわいらしくもあり、鋭い牙や爪を持ちながらも親近感さえ湧いてくるのが不思議な絵です。
天井画の雲龍図が発砲にらみという形で存在感と実在感の錯覚をもたらすのなら、この襖絵の雲龍図がもたらすのは、ただただ龍そのものが持つ迫力とユーモラスな風貌でしょう。龍は架空の存在ですが、仏教においては煩悩或いは偉大なる神とされます。神という遠くて尊い存在でいながら、煩悩の辛抱という近さをも併せ持つ。迫力と愛くるしさを持つ襖絵と、天井に入ながらどこから見ても目が合う天井の雲龍図は二つの側面を表しているのかもしれません。

天皇と将軍がバックについた京都五山第一位

お寺にも格が存在します。通称は寺格。臨済宗において、五山と呼ばれる寺格が作られました。よく「偉いお寺とそうでないお寺」と解釈されますが、実際には権力者の好みで選ばれるので、「下の方だから大したお寺じゃないな」と決めつけるのも早計というもの。
下位に制定されていても立派なお寺は多いです。
天龍寺は京都五山と呼ばれる寺格の第一位に相当します。これは、京都五山の中でもトップ、ということです。
もちろん天龍寺自体が素晴らしいわけですが、時の権力者がバックについていました。
元々は足利尊氏がかつて敵対関係にあった後醍醐天皇を弔うために建てられましたが、造営資金調達のため、元との貿易を再開。この貿易に使われた船が天龍寺船です。ちなみに、寺を建てたり天龍寺船で貿易をしようと言ったのは夢窓疎石でした。
当時頻発していた海賊から船を守るなどしたこの貿易は成功し、天龍寺は完成しました。当初は年号から名前を取る予定でしたが、尊氏の弟が「何か龍が舞う夢を見た」ということで、天龍寺の名前になっています。

当初は五山二位からの出発でした。1345年、光厳上皇並びに光明天皇が落慶供養に行幸してくる予定がありましたが、延暦寺の僧侶がこれに嫉妬。寺を破却しろと無茶ぶりをしてきます。上皇と天皇は翌日に行幸をし、疎石の話を聞くのでした。
その後天龍寺は朝廷からあらゆるものを下賜されており、室町幕府からも「ずっと天龍寺に帰依するからね」と誓いを建てられています。その後一位の座につきました。
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