城を飾る守護神「鯱」の細工と種類をご紹介!
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1 鯱とは
大きな建物の屋根の両端に取り付けて守護するものとしたものです。もともとは寺などに設置されていたものを、城に設置するという風習は織田信長が安土城に備えたことで広がったとされています。
主に城郭で用いられているものの銅版張木造鯱で最大のものは松江城の天守のものとされています。木造ですので、木を組み合わせて原型を作り、その上から防水のために銅版を外側に張り付けて、そこに細工を施したものです。
この松江城は北と西を山稜に囲まれ、南は宍道湖に守られ、周囲は低湿地という要害です。
松江城は関ヶ原の戦いの戦功により出雲に所領を与えられた堀尾吉晴が1607年から5年の歳月をかけて築城していきました。その後、徳川家康の孫の松平直政が入城したのを機に、同家10代にわたる居城となりました。
そしてその最大の注目ポイントは、山陰地方で唯一現存する天守(国宝)であるということです。四重五層の望楼型複合式天守で、平面規模は姫路城の次に広くなっています。外壁は古い様式の黒塗りの下見板に覆われた黒色になっています。
天守の正面中央にある入母屋破風の華やかさのさらに上部、屋根の上には銅版張木造の鯱がそびえています。
主に城郭で用いられているものの銅版張木造鯱で最大のものは松江城の天守のものとされています。木造ですので、木を組み合わせて原型を作り、その上から防水のために銅版を外側に張り付けて、そこに細工を施したものです。
この松江城は北と西を山稜に囲まれ、南は宍道湖に守られ、周囲は低湿地という要害です。
松江城は関ヶ原の戦いの戦功により出雲に所領を与えられた堀尾吉晴が1607年から5年の歳月をかけて築城していきました。その後、徳川家康の孫の松平直政が入城したのを機に、同家10代にわたる居城となりました。
そしてその最大の注目ポイントは、山陰地方で唯一現存する天守(国宝)であるということです。四重五層の望楼型複合式天守で、平面規模は姫路城の次に広くなっています。外壁は古い様式の黒塗りの下見板に覆われた黒色になっています。
天守の正面中央にある入母屋破風の華やかさのさらに上部、屋根の上には銅版張木造の鯱がそびえています。
2 青銅鯱
青銅製の鯱としては高知城の天守のものがあります。高知城は南北朝時代に南朝方の大高坂松王丸がここに城を築いたと伝えています。戦国時代には長宗我部氏が一時居を構えましたが、洪水によって浦戸へ移りました。
築城は遠江から土佐に移った山内一豊によって行われました。一豊は領内各地から石材・木材を集め、穴太の石垣師や多くの職人を招きいれ、家臣を各部署に配し、一日1300人といわれる人夫を動員して工事を推進しました。本丸・二の丸が完成したのは二年後の1603年(慶長8年)のことでした。
城は高知平野の中央に位置する標高42mの大高坂山に築かれました。縄張は連郭氏に輪郭式を複合したような形です。
本丸は山頂におかれ、その北方空堀をへだてて一段低く二の丸をおきます。さらに東へ一段低く三の丸を築き、山麓には西の丸が設けられました。
本丸には天守と本丸書院・櫓などがあります。天守は18世紀半ばの再建だが、四層六階、高さは18mで、下層の入母屋屋根の上に二層の櫓を乗せる望楼型天守の様式です。内部も通し柱が用いられず、二階を三つ重ねたような作り方をしています。しかし、外壁は白漆喰の総塗りごめで、後世の手法を採用しています。
また本丸御殿も注目に値します。本丸御殿の現存例は四城しかなく、天守と本丸御殿が両方ともに現存しているのは高知城だけです。凛とした天守と格調高い大名の居住空間がどちらも見ることができるのは大きな魅力です。
そして天守には石落し・矢狭間が設けられ、鉄製の忍び返しもあります。南北にのびる矢狭間塀には多くの銃眼が備わっています。そしてその天守の最上部に青銅製の鯱が設置されているのです。美観を整えるものでもあり、戦闘用に作られた城の守護を担っているのです。
城には多くの遺構も残っています。枡形の大手門と黒鉄門、懐徳館と名づけられた本丸書院なども見逃せない建物です。
築城は遠江から土佐に移った山内一豊によって行われました。一豊は領内各地から石材・木材を集め、穴太の石垣師や多くの職人を招きいれ、家臣を各部署に配し、一日1300人といわれる人夫を動員して工事を推進しました。本丸・二の丸が完成したのは二年後の1603年(慶長8年)のことでした。
城は高知平野の中央に位置する標高42mの大高坂山に築かれました。縄張は連郭氏に輪郭式を複合したような形です。
本丸は山頂におかれ、その北方空堀をへだてて一段低く二の丸をおきます。さらに東へ一段低く三の丸を築き、山麓には西の丸が設けられました。
本丸には天守と本丸書院・櫓などがあります。天守は18世紀半ばの再建だが、四層六階、高さは18mで、下層の入母屋屋根の上に二層の櫓を乗せる望楼型天守の様式です。内部も通し柱が用いられず、二階を三つ重ねたような作り方をしています。しかし、外壁は白漆喰の総塗りごめで、後世の手法を採用しています。
また本丸御殿も注目に値します。本丸御殿の現存例は四城しかなく、天守と本丸御殿が両方ともに現存しているのは高知城だけです。凛とした天守と格調高い大名の居住空間がどちらも見ることができるのは大きな魅力です。
そして天守には石落し・矢狭間が設けられ、鉄製の忍び返しもあります。南北にのびる矢狭間塀には多くの銃眼が備わっています。そしてその天守の最上部に青銅製の鯱が設置されているのです。美観を整えるものでもあり、戦闘用に作られた城の守護を担っているのです。
城には多くの遺構も残っています。枡形の大手門と黒鉄門、懐徳館と名づけられた本丸書院なども見逃せない建物です。
3 金鯱
金の鯱には二種類あります。金箔押鯱瓦と金板張木造鯱です。前者には広島城の大天守、岡山城天守、松本城大天守などがあります。後者には名古屋城大天守、江戸城、大坂城などに同規模のものがあります。
この金箔の鯱がある城にはある共通点があります。それは「豊臣秀吉の影響」を何かしらで受けたものが多いということです。
例えば、一見関係なさそうな広島城ですが、毛利輝元が本拠地であった山間の吉田郡山城を捨て、領国の中央、水陸両用の交通の要衝である瀬戸内の広島湾岸に城郭を築き、城下町の形成を企図したものです。
輝元は豊臣秀吉の招きに応じて上洛した際に聚楽第や大坂城を見てその支配の在り方に触れ、おのが領国再編の核として新しい城と城下町形成を決意したと伝えられています。
天正17年に築城に取り掛かりました。もともとこの広島は中国山地から流れ下りる太田川河口に開けたデルタで、毛利元就時代から瀬戸内海への出口として領有されていたのです。太田川河口は幾条にも分流し、その間に中州が発達し、五箇の庄と呼ばれました。ここに城を築き城下町形成をするために、いわゆる「島普請」と呼ばれる土地造成が、大規模に行われたのです。百万の総力を投入し、五つの中洲を汐留めの堤防で囲み、土盛りをなし、堀を穿ち、まったくの平地に大城郭を築き、二つの小天守をつなぐ連理比翼の五層の大天守を仰ぎ、45棟の櫓を連ねる壮大な城郭へと発展したのです。
天正19年には早くも天守は完成し、輝元は早速入城し、家臣団も続々地割りされた地に屋敷を構え、商人を呼び寄せ、城下町は見る見る形成されていきました。この天守には豊臣秀吉も、その建築の結構は聚楽第にも劣らない、と感嘆したといいます。
しかし、その天守は原爆で崩れ内堀と本丸、二の丸の石垣を残すのみとなっていましたが、天守閣は戦後復興され、そこに鯱が設置されました。その後、2009年に調査団が金鯱瓦を一対発見し、もともとが金鯱瓦であったことがわかったのです。
この金箔の鯱がある城にはある共通点があります。それは「豊臣秀吉の影響」を何かしらで受けたものが多いということです。
例えば、一見関係なさそうな広島城ですが、毛利輝元が本拠地であった山間の吉田郡山城を捨て、領国の中央、水陸両用の交通の要衝である瀬戸内の広島湾岸に城郭を築き、城下町の形成を企図したものです。
輝元は豊臣秀吉の招きに応じて上洛した際に聚楽第や大坂城を見てその支配の在り方に触れ、おのが領国再編の核として新しい城と城下町形成を決意したと伝えられています。
天正17年に築城に取り掛かりました。もともとこの広島は中国山地から流れ下りる太田川河口に開けたデルタで、毛利元就時代から瀬戸内海への出口として領有されていたのです。太田川河口は幾条にも分流し、その間に中州が発達し、五箇の庄と呼ばれました。ここに城を築き城下町形成をするために、いわゆる「島普請」と呼ばれる土地造成が、大規模に行われたのです。百万の総力を投入し、五つの中洲を汐留めの堤防で囲み、土盛りをなし、堀を穿ち、まったくの平地に大城郭を築き、二つの小天守をつなぐ連理比翼の五層の大天守を仰ぎ、45棟の櫓を連ねる壮大な城郭へと発展したのです。
天正19年には早くも天守は完成し、輝元は早速入城し、家臣団も続々地割りされた地に屋敷を構え、商人を呼び寄せ、城下町は見る見る形成されていきました。この天守には豊臣秀吉も、その建築の結構は聚楽第にも劣らない、と感嘆したといいます。
しかし、その天守は原爆で崩れ内堀と本丸、二の丸の石垣を残すのみとなっていましたが、天守閣は戦後復興され、そこに鯱が設置されました。その後、2009年に調査団が金鯱瓦を一対発見し、もともとが金鯱瓦であったことがわかったのです。