【宇都宮城】大名・浅野長政、蒲生秀行、大河内久綱が引き継いだ城

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1 宇都宮城

宇都宮城は亀ヶ岡城、唐糸城とも呼ばれる栃木県宇都宮氏の城で、天守のない、中世以来の平城です。

藤原道長の兄である道兼の曾孫の藤原宗円が下野国の守護職に任命され、ここに土着したときに宇都宮城は築城されました。ときは前九年の役のあと、十一世紀後半です。その後、城主を頻繁に代えてはいるものの、宇都宮城は八百年近くにも及び下野国を守ってきました。

そもそも宇都宮とは天皇に従わない者を「討つ」ための、その戦勝を願う「宮」であり、「討つの宮」が転じて「宇都宮」と名づけられたといわれています。この当初からの意義を藤原宗円以下、藤原氏の城主は代々守ってきたと見受けられ、京との関係をしっかりと維持し、京文化を下野に定着させることに努めたといいます。  

また、三代朝綱のときには、藤原姓を宇都宮と改め、関東の名門である鎌倉御家人のエリートとして勢力を振るいました。宇都宮城は由緒正しき城郭だったのです。

その宇都宮氏は十六世紀末に行われた太閤検地の際、申告していた石高が大幅に違っていたことが発覚し、第二十二代城主の国綱は備前に流され、以来宇都宮氏は歴史の表舞台から姿を消してしまいます。

その後、宇都宮城は浅野長政、蒲生秀行、大河内久綱などといった大名に引き継がれました。1629年に下総小山から入封してきた本多正純の時代には、城下に近代的な町の基礎が築かれ、繁栄しました。宇都宮の地は日光街道と奥州街道の交わる交通の要衝であり、城主は代々日光を守護する役目を負うことになり、将軍の東照宮参拝の際には宇都宮城に将軍が宿泊するという伝統がありました。そのため、もともと堅固な城であったこの城が、さらに防御力を高めた構造に改築されたのです。

宇都宮城は、本丸を二の丸と三の丸が囲い、さらに四重の堀がそのまわりを巡るという縄張をしています。本丸には北櫓、東櫓、辰巳櫓、富士見櫓、清明台櫓といった五基の櫓が建てられて、将軍の宿泊用の御成御殿もその中心に建造されていました。

二の丸には南北にそれぞれ一つずつ門があり、その内側にはさらに三基の櫓と、藩主の居館に当たる二の丸御殿がありました。角馬出しと丸馬出しという馬出しも二ヶ所に設けられ、外からの備えは万全という堅牢な城郭でした。

1622年、宇都宮城で大事件が起こります。「宇都宮釣天井事件」です。これは城の天井に釣天井を仕掛け、ときの将軍徳川秀忠の暗殺を謀ったといわれる事件ですが、その真相は闇の中です。というよりも史実ではないとされています。そもそも謀反のために、そのような面倒なことはしません。普通に宿泊させ、兵で襲えばいいだけのことです。しかし、このときに本多正純は失脚、家は改易となり正純本人は出羽国横手に配流されました。

実際に後日の城内調査で不審な点はなかったことを秀忠本人までもが確認しているといいます。正純に謀反の意思はなく、私怨のあった他大名の陰謀であるなど諸説あり、特に福島正則の改易処分に正純が不満を持っていたことや、当時城郭を大幅に増改築したことなどが秀忠の不信を買ったのではないかと考えられています。

正純のあとに入封したのは徳川家と縁のある奥平忠昌で、奥平家が治める時代に大手門も築かれ、宇都宮城は関東にはめずらしい近世城郭として完成します。その後は城主が比較的頻繁に入れ替わりましたが、1774年に戸田氏が就いてからは100年、幕末に戊辰戦争で焼かれるまで安定して統治が行われました。

現在は一部が公園となっているだけの宇都宮城。本多正純時代の名残は、旧三の丸跡に残る樹齢四百年の大銀杏だけです。現在は復元が進められ、本丸土塁の一部と土塁上に建つ富士見櫓、清明台櫓や土塀が復元され、公開されています。
今後は本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門などの復元が予定されています。

2 川越城

「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われた川越は江戸時代には常に老中格の親藩・譜代大名の入る、まさに江戸鎮護の城でした。北条氏時代には小田原城を中心とするネットワークの重要な支城として繁栄し、江戸時代に入ってからも江戸とは川越街道や新河岸川の舟運で結ばれ、大いに栄えました。

川越城は扇谷上杉氏の家老である太田道真、道灌親子により、当時対峙していた古河公方足利氏との境界を守る要害として築城されました。当初の規模は本丸と二の丸程度で、江戸期に完成した姿と比較した場合、三分の一程度の大きさだと推定されます。道灌といえば江戸城築城で名高い人物ですが、この川越城だけではなく岩槻城も築き、縄張の名人として知られた武将です。

扇谷上杉氏の勢威が衰え、関東を北条家が席巻すると、川越城もまた北条家の支配下に入ります。北条家は支城ネットワークを構築して関東を経営していたが、川越は武蔵を支配するための最も重要な支城として整備されたのです。しかし1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、前田利家の軍勢に攻められ、あっさりと落城しています。

江戸時代に入ると江戸の西北三十五キロという立地から、江戸防衛の要の城として位置づけられ、老中などの要職に就いた譜代大名を城主に置き、関東では水戸を別格とすれば、小田原城、佐倉城とともに江戸城の次に格の高い城として扱われました。当然ながら、その整備には力が入り、道灌時代の城と比較すると、まったく別の城と思えるほどに城域も拡張されました。武蔵野台地の北東端、新河岸川の右岸に接し、入間川、赤間川、伊佐沼に周囲を守られた平山城はまさに天然の要害でした。関東七名城にも数えられ、その規模もまさに江戸の鎮守城でした。

縄張は河川と湖沼を利用し、本丸を中心として連郭式に郭を配置し、戦闘正面となる可能性のある虎口には、丸馬出しと三日月濠が設置されています。

小江戸と呼ばれるほどの城下町は1639年に城主となった松平伊豆守信綱が、前年の大火事後に城下の再建整備をおこなったあとのことです。

最終的には本丸、二の丸、三の丸、田曲輪、外曲輪、新曲輪が整備され、外曲輪のさらに外に侍屋敷の曲輪があり、丸馬出しのある虎口が大手門となります。石垣はほとんど用いられていません。天守はなく、天守代わりの富士見三重櫓が本丸の南隅に設置され、さらに虎櫓、菱櫓と合計で三つの櫓が建てられています。
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