イスパニア使節も絶賛!「青葉城」の魅力

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1 青葉城(仙台城)

かなり以前に「青葉城恋歌」という歌が流行ったことがありますが、最近では若い歴史ファンの「伊達詣」に賑わっているのが青葉城こと仙台城です。

伊達家の居城であった仙台城は、仙台市の青葉山に建っていることから「青葉城」とも呼ばれています。この地に城を築いたのは東北の独眼竜とも称された伊達政宗です。

もともとは米沢を本拠としていた政宗でしたが、1591年に豊臣秀吉の命によって岩出山に移り、岩出山城を居城としていました。しかし続く関が原の戦いでは東軍に加わったことから家康より加増を受け、領土が南に広がりました。そこで政宗は新たな所領にふさわしい本拠として仙台を選び、青葉山に新城を築いたのです。

仙台は、もとは「千代」という名でしたが、唐代の詩「同題仙遊観」の中にある「仙台所見五城楼」という句にちなんで政宗が改名したといわれています。

築城は1601年に開始され、政宗は二年後の1603年に築城途中で入城しています。政宗は自分の代で築いたのは本丸部分だけです。政宗は天守こそ築きませんでしたが、本丸建築には梅村彦左衛門、彦作の大工棟梁親子や、紀州の工匠である刑部左衛門国次、山城国の狩野派絵師佐久間左京など、各分野で名人、匠と呼ばれる人材が投入されました。中でも大広間は千畳敷とうたわれる広大で豪華なつくりでした。

仙台城の本丸御殿を築いたこれらの名人たちは後に瑞巌寺や大崎八幡神社などの国宝を築いたことでも知られています。

1601年に政宗が築城とともに広瀬川をまたぐために仙台橋をつくりました。その橋の擬宝珠の銘文に「藤原政宗」の言として「仙台橋 仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与尭天」と刻まれています。意味は、「仙台橋は、仙人様が橋の下にいる。だから川の水が千年も絶えることなく流れている。民安く、国泰く。尭の世と比較してどちらがよい世であろうか」というものです。仙台藩とその民が永遠に平和に安らかに栄えるようにとの祈りを込めて、仙台城と城下町の建設にあたったことがわかります。

また、築城と同時に城下町の整備も進められ、城の東側にある森林や湿地を開拓して家臣や町人たちが住むための土地を用意しました。そして政宗は1601年に岩出山に住む武士や町人に対して仙台への移住を命じています。

築城にあたっては近在の農家一戸につき一人の男手を出すことが義務付けられ、1610年ごろには本丸はほぼ完成したといいます。翌1611年に仙台を訪れたイスパニアの使節セバスティアン=ビスカイノは、仙台城を「日本でもっとも優れ、もっとも堅固な城の一つである」と評しています。各分野の名人を率いて政宗が築いた仙台城は、奥州の覇者にふさわしい威容を誇っていたようです。

いまだ徳川方と豊臣方が争っていた時代に築かれただけあって、仙台城は青葉山の地形を生かした実戦的な構造となっています。青葉山の東では高さ60mの断崖が敵を寄せ付けず、さらに北から東に流れる広瀬川が保護していました。また、南にも深さ40mの谷が待ち構え、西には厚い原生林が人の足を阻みました。仙台城で待ち受ける政宗にしてみれば北からの攻撃にのみ備えればよいのです。攻め手の攻撃ルートが限定されていれば守備側としては非常に有利になります。火線をそちらに集中して一点防御で守れるからです。

本丸において天守に相当する建造物として、本丸の北東方位に丑寅櫓がありました。また、本丸の南側には谷にせり出した眺望亭が築かれ、政宗はそこから眼下の兵を一望したといいます。ただし、堅固な仙台城は日常生活には不便だったようで、政宗は1628年に別邸として若林城を築いています。

堅固な居城を完成させた政宗ですが、本丸完成後は自らの城の建設に集中することは許されませんでした。1615年ごろからは大坂の役に出兵したり、江戸城の建設、修復などを命じられたりといった事情で仙台を離れることが多かったのです。そのため仙台城の二の丸が完成したのは1639年、二代忠宗の代になってからでした。

ちなみに二の丸築城の際に政宗の別邸若林城は廃城となり、その城門や書院は二の丸に移築されています。

政宗は青葉山の山上を削って平地化した土地に仙台城を築きましたが、忠宗は二の丸を青葉山の山下に築きました。そして藩政のほとんどは二の丸で行われるようになっていきました。天下泰平の徳川の世にあっては、山上に位置する本丸にこだわる必要がなかったのです。むしろ戦いを放棄する姿勢を幕府に見せることで、幕府からの疑いを回避するべく、意図的に城から軍事的色彩を消していたともいえます。天守を築いていないのも同様の意味合いからです。

仙台城は江戸時代を通じて伊達家の居城であり続けましたが、明治時代になると本丸の建造物が取り壊されました。二の丸は壊されずに残っていましたが、1881年に火災によって多くの建造物が焼失してしまいます。そして残された大手門と大手門脇の隅櫓が国宝に指定されていましたが、1945年の空襲で焼失しています。
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