「のぼうの城」の舞台『忍城』と『名胡桃城』

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1 名胡桃城

名胡桃城は沼田氏の一族、名胡桃景冬が築城した城です。その後、沼田氏の内紛に乗じて北条一門から沼田氏に養子を入れ、この地への足がかりをつくります。しかし、直後に上杉謙信が関東に出兵し、上野は北条と上杉とで利根川を境に分け合う形で安定します。

謙信が死に、上杉内部が分裂すると北条家は当主氏政の弟である上杉景虎を支援し、上杉家の当主にしようと画策します。当初は武田家もこれに賛同し、このまま収まるかに見えましたが武田勝頼は急遽、上杉景勝を推すことになり、同時に武田は北条との同盟を破って上野へ進出を果たします。北条・上杉の同盟が強固になれば、武田がその下風に置かれるのは間違いないことであり、地勢的にも織田からの強い圧力をうけながら、背後にも強力な敵対勢力があるのは厳しかったのです。

このとき北条氏政は武田の猛攻撃に滅亡を覚悟したとも伝わっています。ここで沼田が武田に奪われますが、このとき武田勢として沼田を奪ったのが真田昌幸であり、拠点となったのが名胡桃城でした。

沼田氏が築城したとされる名胡桃城ですが、歴史にその存在を記し始めるのは実はこのときからです。おそらく廃城同然だった名胡桃城を昌幸が整備したと考えられます。

武田家で信玄のそば近くに仕えた昌幸がつくる以上、当然ながら武田流の城になります。尾根状になった河岸段丘の縁を利用しており、谷が南に切り込んでいる舌状台地を利用し、堀切によっていくつかの曲輪を設置、段階的に防御・戦闘ができる構造にしています。山城の典型の一つです。

連郭式の縄張となり、戦闘正面は尾根方向の一面となります。守城側はこちら側に防御能力を集中させますが、名胡桃城では西方が予定戦闘正面となっています。西の戦闘正面より、三の曲輪、二の曲輪、本曲輪、笹曲輪、物見櫓と続き、北方二の曲輪に並行するように般若曲輪があるという形になっています。
三の曲輪の前面には、武田流の丸馬出しが設置されていました。般若曲輪は、戦時には放棄される可能性もありますが、むしろ強襲部隊を配置し、同時に側面からの火力支援を行わせたと考えられています。ただし、般若曲輪はいつまでも保持できる位置と構造にはないので、ある時点で撤収させることが想定されていたと思われます。

発掘調査の結果からは、建物は掘っ立て小屋レベルの粗末なもので、恒久的に使用するための城ではなく、戦時においてのみ使用する砦的存在であったようです。

現在は、空堀と土塁が残されていて、往時を偲ぶことができます。また、虎口・通路・門礎石址などの重要な遺構が多数確認されています。廃城となった後、ほとんど改変を受けていないため、築城当時の遺構が比較的良好に残されています。本曲輪からは沼田市が一望でき、沼田城も肉眼で確認できるほどの距離です。

2 忍城

豊臣秀吉の小田原征伐で、秀吉配下の石田三成が水攻めをして失敗したことで知られているのが忍城です。「のぼうの城」という小説や映画の舞台としても有名になりました。

忍城は関東七名城に選ばれているだけにそれだけの防御力を備えていたと考えられます。

なお、関東七名城とは群馬県の金山城、栃木県の唐沢山城、茨城県の太田城、群馬県の前橋城、栃木県の宇都宮城、埼玉県の川越城とこの忍城です。金山城、唐沢山城、太田城は山城であったために江戸時代に廃城となりましたが、残る四城は江戸城を中心とする徳川の関東支配権の衛星的支城として、明治までその機能を保っていました。

忍城は山内上杉氏配下の豪族、藤原氏の流れをくむ成田親泰、またはその祖父の正等が築城したとされています。成田氏は太田道灌の縁戚にあたる児玉大丞の舘を襲い、これを滅ぼし、1490年から築城をはじめ、翌年に完成します。城地は利根川、荒川に近く、この付近特有の沼地・湿地帯を埋め立てすることなく利用し、そこに浮かぶ島を曲輪とするという珍しい築城方法がとられています。沼地に浮かんでいるようなそのシルエットから「忍の浮城」という異名をもちます。

この忍城を拠点とし、成田氏は着々とその勢力を拡大しました。1553年には北条氏康がこれを攻めましたが、成田親泰はこれを撃退しています。上杉謙信が関東に出陣すると長泰は抵抗の姿勢を見せますが、謙信が城下に放火すると領民のためにこれに帰順しています。

謙信が小田原を攻め、関東管領就任式を鶴岡八幡宮でおこなったとき、長泰は馬上から謙信に挨拶しました。謙信はその無礼を咎め、鞭で長泰の顔を叩いたといいます。実は成田氏は源氏の棟梁である源頼朝より馬上からの挨拶を特に許された家柄であり、むしろ意図してこの吉例で謙信を頼朝になぞらえていたのですが、謙信のこの古礼を知らない無礼に怒り、成田氏はこれ以降謙信と敵対することになります。謙信が関東を制圧できなかった理由の一つにこの成田氏の離反があります。再び北条氏に帰順した長泰は、1574年に謙信から攻められた際も忍城に籠もり、これを撃退して名を上げています。

そして秀吉の小田原攻めのときには石田三成により水攻めとされるも、わずかな兵と農民のあわせて三千で持ちこたえ、忍城の名を天下に知らしめました。

秀吉発案のこの水攻めですが、実は城兵からの降伏の申し入れがあったにも関わらずこれを受けずに強行したようです。秀吉からすると豊臣家の財力と武力を関東の民に誇示するための水攻めであって、大土木工事を短期間で行い、城を湖に孤立するという事実があればよかったのでしょう。しかし、突貫工事で短期間に堤を築いたため、その強度は著しく弱いもので、土質のもろさもあり、後にこの堤は崩れてしまうことになります。

三成は円墳としては日本最大の丸墓山を基点に城を囲むようにして土塁を築き、大正時代の実測ではその長さは28kmにも及んだといいます。地形的にそもそも湿地帯の島のような城である忍城は水攻めをされたとしてもさほど状況に変化はなく、あまり意味のあるものではなかったのでしょう。

現在は、実質的に天守としての機能の御三階櫓が復元され、行田市郷土博物館の展示スペースなどとして用いられています。また、忍城の外堀跡を利用した水城公園も近くにあり、往時を偲ぶことができます。
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