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ケベックの歴史とノートルダム大聖堂

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北米大陸に位置しながら、どこかヨーロッパの古都を思わせるケベック。その石畳の小道、歴史的な建造物、そして住民から聞こえるフランス語は、この地がたどってきた数奇な運命を物語っています。
そして、その歴史の中心にそびえ立つのが、荘厳なノートルダム大聖堂。単なる宗教施設としてだけでなく、ケベックの人々の喜びと悲しみ、そして不屈の精神を見守り続けてきた歴史の証人なのです。
ケベックの壮大な歴史を辿りながら、ノートルダム大聖堂がいかにしてその歴史と深く結びついてきたのかを一緒に見ていきましょう。

フランス統治下の勃興と苦難

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ケベックの歴史は、17世紀初頭にフランス人探検家サミュエル・ド・シャンプランが、この地をフランス植民地としたことから始まります。毛皮を産業の柱とする計画を考えていたものの、先住民イロコイとの対立があり思うように進みません。しかし他の部族と同盟を組むなど問題を解決していき、ヌーベルフランス(新フランス)の首都として、ケベックはフランス文化の北米における牙城として発展を遂げます。しかし、その後イギリスとの衝突があり、1759年のエイブラハム平原の戦いではイギリス軍が勝利。ケベックは、フランスの支配下からイギリスの統治へと移行します。

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英国王室の統治下にあっても、ケベックの住民は自分たちの文化を継承し続けました。そして1774年には、イギリス側が住民たちの権利を認める「ケベック法」を制定。フランス語とカトリック信仰の保持を保障し、現在のカナダにおける多文化主義の礎を築くことになります。そしてそのおよそ100年後の1867年7月1、英領北アメリカ法によって、形式上は「カナダ」のケベック・シティが誕生しました。

ケベックの魂を映すノートルダム大聖堂

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イギリス統治下になるとイギリス側はプロテスタント、ケベックの住民はカトリックと信仰が分かれてしまいました。つまり統治される前の1647年に建てられたノートルダム大聖堂はカトリックの教会であり、その存続と信仰の実践は危ぶまれる状況にあったのです。

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しかし、イギリスの現実的な統治政策と「ケベック法」の制定により、ノートルダム大聖堂は信仰の中心地として、そしてケベックの人々の精神的なよりどころとして役割を継続することができました。現在、ケベック旧市街はユネスコ世界遺産に登録されており、歴史的な町並みとともにノートルダム大聖堂は世界中で愛される存在施設となりました。聖堂内部には、ケベックの豊かな歴史を物語る貴重な装飾品や美しいステンドグラスが残っており、ヌーベルフランスの時代に思いを馳せることが出来ます。

ヌーベルフランスが生んだ街の観光

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ヌーベルフランスの歴史を色濃く反映したケベックのお祭りは、街の代表的な観光産業となりました。その1つが8月に行われる「ヌーベルフランス祭り」。開拓時代の格好で、街を練り歩く変わったお祭りです。当時の衣装を身につけた人々が街中を闊歩しており、まるで17世紀までタイムスリップしたかのような雰囲気に包まれます。そして、もう1つが「ケベック・ウィンター・カーニバル」です。こちらは開拓時代に厳しい寒さから活動できない期間、みなで集まって演奏や踊りを踊ったことが由来とされています。現在では、さっぽろ雪まつりと並ぶ「世界三大雪まつり」に数えられ、氷のオブジェやウィンタースポーツなど、多彩なエンタメで国内外から集まる観光客を魅了しています。

歴史と信仰が織りなすケベックの歴史

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数百年の時が経ってもフランスの影響を色濃く残すケベック。その複雑な歴史を見続けてきたのが街の中心になるノートルダム大聖堂です。そしてその伝統や歴史は、観光という新たな価値を生み出しケベックの街を明るく照らしています。ぜひ一度、この歴史と文化が息づくケベックを訪れてみてはいかがでしょうか。
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