日本史

兼好法師こと吉田兼好の『徒然草』から読み解く人生のアドバイス

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「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなごとを」という冒頭が印象的な吉田兼好の『徒然草』。物語テイストの章があれば、人生観について述べた章もあり、文字通り「よしなごと」のような章もあるカラフルな『徒然草』のなかから、現代人へのアドバイスともなるような兼好法師のことばを選りぬきました。

「世の中、定めがないからおもしろい」兼好法師の無常論 第7段

『徒然草』第7段は、兼好法師の人生観、「何歳まで生きるか」という問題がテーマです。
兼好は、「セミやカゲロウに比べれば、長命である人間はのどかなもので、反面、たとえ命を惜しんだところで、千年がたった一夜のように過ぎ去るかのように感じるだろう」と言い、命を惜しむことを諌めます。また、「長生きして老醜をさらして何になろうか、『命長ければ恥多し』だ。
せいぜい40に足らないぐらいで死ぬのが無難だろう」と達観し、さらには「40を過ぎれば厚かましくなって、世の中への執着心ばかりが強まり、物の情趣がわからなくなるとは、あきれたものだ」、と随分刺激的な発言までかぶせています。
出家僧らしい、無常観のよくでた意見ですが、どこかサバサバした感じが小気味のよい、兼好法師の人生観でした。

「まめやかの心の友」兼好法師の人づきあい論 第12段

どんな人が友達にふさわしいのか、兼好法師は第12段で語っています。
「感性を共にするような人と、しんみりと話しをして、おもしろいことでも、世間のつまらぬことでも、隔てなく話し合うとしたら、きっと嬉しいだろう。しかし、そういう話相手もあるまいから、相手にたてつかないように話すことになるだろうが、それでは会話の興がなく、かえってひとりぼっちでいるように思えるだろう。」
つまり、お互い心を打ち明けて、うらなく話すことがよいのであって、相手に遠慮したうわべだけの会話はつまらぬ、というわけです。さらに、不平に関して共有できないような人とは、通り一遍の他愛のない話はできようが、ほんとうの意味での友達(「まめやかの心の友」)からは遠く隔たっているように感じる、とも述べています。

兼好法師にとって、意見の食い違いもためらわず、心を正直に打ち明けるような人間こそが、友人として好ましかったのでしょう。

「夏をむねとすべし」兼好法師の住居論 第55段

世捨て人の兼好ですが、意外と住居に関しては好みのうるさい人だったようで、『徒然草』にも住居の有り様について述べた文章が散見されます。
この第55段も住居について述べたもので、かなり実用的な住居論が展開されています。
兼好は「家の造り方は、夏向きにするべきだ。冬はどんなところにも住もうと思えば住める。ただ暑い時分、まずい住まいではどうもやりきれない。」と述懐するように、兼好は住居に対して夏場の住み心地を優先したようです。
また、遣水(庭に流す小さい川)は浅いほうが涼しげがあるだとか、天井の高い住まいは冬に寒く、暗いだとか、かなり細かく批評しています。
現代とは住環境は随分違うでしょうが、意外に実用的でちょっとうるさい兼好法師の一面がうかがえる部分です。

4.「この一矢に定むべし」兼好法師の稽古論 第92段

兼好法師は稽古、習い事における上達についても書いています。
兼好はある弓道の先生のことばを紹介しています。そのことばが次のことばです。 「初心者は、二本の矢をもってはいけない。後の矢をあてにして、先の矢に対していい加減になる。常に、矢が当たったらどうとか、外れたらどうとかを考えずに、その一本の矢で決めるのだ(この一矢に定めべし)と心得よ。」

弓道の先生のこの箴言に感心した兼好は、「道を学ぶ人は夕べには明日があるさ、と思い、朝になれば夕べがあるさ、と思うもので、それでは己の怠慢に気づかない。目の前の一瞬に集中し実行することはかくも難しいことか」と嘆息します。
このエピソードは弓道についてのアドバイスですが、仕事やダイエットまで、万事に適応できる、普遍的な価値のあることばではないでしょうか。

5.「負けじと打つべき」兼好法師の勝負術 第110段

先ほどは弓矢でしたが、今度はボードゲームの世界から。
ある日、兼好法師は双六の名人に秘訣を問います。
すると次のような答えが返ってきました。「勝とうと思って打ってはならん。負けまいとして打たねばならんのだ。どんな手だと負けてしまうかを考え、できるだけ負けを遅らせような手を打たねばならん。」このアドバイスを聞いた兼好法師は一言。「このアドバイスは修身にも政治にもあてはまるものじゃ。」

6.「始は不堪の聞こえもあり」兼好法師の上達術 第150段

前二つは、兼好法師が他人のアドバイスを紹介した段でしたが、翻って兼好法師のアドバイスが述べられているのが第150段。
「芸能を身につけようとする人は、うまくなってから人に披露して奥ゆかしく思われたがるが、そんな心構えでは一芸だって習得できまい。」と兼好法師は語ります。ではどうしたら芸は身につくのでしょうか。続きを見てみましょう。
「てんで未熟なうちから、上手な人にまじり、悪口をいわれたり笑われたりしながら、でもくじけず励むのなら、才能はなくても、かえってなまじっか才能がある怠け人よりは大成し名声を得るだろう」といっています。また、「天下に名高い芸能の達人だって、初めのうちは下手くそだと言われることもあれば、ひどい欠点もあったのであり、結局どの道においても、規則を重んじ、コツコツと積み重ねることで大家になるのだ」と述べています。
どんな名人も初めは初心者だった、下手でも恥じずに精進せよ、現代にも通用する格言ではないでしょうか。

以上、多岐にわたる兼好法師による人生相談でした。『徒然草』は矛盾が多い作品としても知られていますが、その分様々な教訓が含まれています。何かに行き詰ったら、サバサバした老僧、吉田兼好先生に相談してみてはいかが?

兼好法師と言えばコレ。吉田兼好が織りなす書道の世界を紐ときます

兼好法師と呼ばれた吉田兼好は代表的な作品として『徒然草』を残しています。
ですが、彼の作品はその徒然草だけではありません。

兼好法師の能筆家としての姿を、彼の作品を交えてご紹介します。

兼好法師の生涯

兼好法師は、吉田兼好として知られていますが、この吉田という姓は「吉田神社」の神職をしていた彼の生家から来ていますが、30歳頃に出家する以前の俗名を『卜部兼好(うらべかねよし)』と言います。

  出家より前には正安3年(1301年)に後二条天皇が即位したことを機に出仕しています。この時、兼好法師が家司となった堀川家の出身である天皇の生母・基子(西華門院)であったため、六位の蔵人として宮仕えすることになります。

その後左兵衛佐(さひょうえのすけ)まで位を上げることになりますが、延慶1年(1308年)に天皇が崩御したことにより宮廷を退きます。

正和2年(1313年)9月以前に理由は不明とされていますが出家をしています。

史実を元に彼の人柄を文化人として表する言葉を選ぶとすれば、園太暦(えんたいりゃく)に書かれているように「和歌数寄者(わかすきもの=風流人)、そして太平記では「能書(達筆)、遁世者(出家者)」であったとされています。

兼好法師は、法師と呼ばれてはいますが、僧侶としての地位としては沙弥という特定の寺院に属さない僧侶でした。

それを表す証拠として、自由な隠遁生活を送っていたということも大徳寺所蔵の関連書物に明記されています。

その自由な隠遁生活においても様々な地に足を運んだとされています。『徒然草』においても言及されていますが、兼好法師は東国通だったということがわかります。 

『兼好家集』の中においても兼好法師は武蔵野金沢を「ふるさと」と呼び、しばしの間その地に在住していたことが明記されています。

歌人として兼好法師が活躍したのは、出家後の長い隠遁生活の後の40歳前後のころでした。

その一端と言われているものとして、時の天皇・後醍醐帝による勅命により兼好法師の師・二条為世が勅撰集撰進の任を受け、後に兼好法師が一首を入集することになる『続千載和歌集』が元応2年(1320年)に完成します。

これを機に二条為世の門下において和歌四天王となったそうです。

人間としての成熟と呼ばれる40代以降には歌人として意欲的になります。

正中1年(1324年)には師より『古今和歌集』の関係家説を伝授されたこともあり、その精進ぶりは目に見えて明らかでした。

代表作・徒然草から読み解く

この徒然草は清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』に並ぶ日本三大随筆の一つです。
内容としては、兼好法師が居を構えた双が丘(ならびがおか)にある仁和寺に関する逸話が多く記されています。

実はこの『徒然草』という作品は、兼好法師が書いた後100年は注目されることがなかったのですが、室町時代の中期になって正徹という僧侶が取り上げたことから注目され、写本が作られるようになりました。

徒然草の内容については、「つれづれなるままに・・・」という出だしで始まることからもわかるように、日常ふとなんとなく思っていることや世俗における出来事や人物に関する逸話を織り交ぜて語っています。

書体として内容を見ると、現在の日本語の元になる文体『和漢混淆文』が使われています。

能書家としても知られていた兼好法師ですが、書家として支持していた人物がいたという文献はなく、傾向としては当時師事していた二条為世の書や生家である吉田神社の神職という背景から養われていったと推察されます。

書家として・・

能書家としても知られていた兼好法師ですが、それを記すものとしては「北朝時代高師直の恋文の代筆をした」という史実のみで、このほかに特記されていることはありません。

ですが、どなたかの代筆をしていたということはその時代においても兼好法師の手が他と比べて突出したものがあったからこそと言えるのではないでしょうか。

なお、この時の代筆としてしたためた恋は贈られた相手である塩治高貞の夫人によって開かれもせずに捨てられてしまったそうです。

これには理由があり、兼好法師が当時屈指の歌人であったことからその名声に着眼して彼に代筆を頼んだ高師直ですが、実は兼好法師が女性を嫌悪していたこともあり恋文の代筆を頼む相手としては間違っていたという見解もあります。

しかしながら、この逸話においても太平記のみにしか記されておらず、史実ではない可能性もあるそうです。

時代の風潮を表した書風

上で少し触れた『和漢混淆文』(わかんこんこうぶん)に関して言及してみましょう。
この『和漢混淆文』とは、『和漢混交文』とも言い、平安時代の後期に創造されたものです。

特徴としては、平安時代に女性が好んで用いていた平仮名による和文と漢文の書き下し文である漢文訓読体とが混ざり合って生まれた文体です。

これにより、中国由来の漢字を有しながらも和文の持つ独特な柔らかく自在な表現力を持った文章が完成させられることになりました。

筆記方法も、かっちりとした漢字の楷書体ではなく、行書や草書という比較的流れを生み出せる書体を用いて表記されています。

このことにより、固いイメージを持った漢字も崩され、平仮名に馴染みやすくなりました。  兼好法師の出生より以前に完成されていたこの文体は、特に鎌倉時代以降の軍記物語などに用いられました。

【意外な共通点!?】吉田兼好とマックス・ウェーバー「兼好のお金談義」"

 吉田兼好の『徒然草』は、多種多様な話題を自由自在に語ることで有名です。他愛のない日々の出来事をのびのびと書き流したと思ったら、次のページでは仏教思想についての洞察が披露され、時には筆が走り過ぎ、章段間で矛盾することを書くことも珍しくありません。全244段の自由奔放で色彩豊かな随筆は、江戸時代以降の人々の心をつかみ、『枕草子』や『方丈記』と並ぶ日本三大随筆の一つとして、その名を不朽のものとしました。

 『徒然草』が書かれたのは、鎌倉時代も終わりが見えてきたのは14世紀のはじめ。鎌倉時代は、日本に貨幣経済が本格的に浸透し始めた時代であるといわれています。鎌倉時代の終盤を生きた吉田兼好も、お金とは無縁ではありませんでした。『徒然草』にもお金に関して兼好が意見を述べている部分もあります。そういった部分のなかでも最も注目を集めてきた章段が「ある大黒長者」の話に取材した217段です。217段に披瀝されている「お金観」について、19~20世紀ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864-1920)が有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで述べた「資本主義の精神」と比較しながら紹介していきます。
(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の引用は、大塚久雄訳 岩波文庫 1989年改訳 に依りました。)

1.『徒然草』の時代とお金

 『徒然草』の書かれた鎌時代、お金は生活に欠かせないものとなりました。とはいえ、鎌倉時代になってはじめてお金が日本史の舞台に登場したわけではありません。鎌倉時代以前にも和同開珎や皇朝十二銭といった貨幣が存在し、711年の蓄銭叙位令など、貨幣経済を定着させる試みがなされました。しかし、貨幣の使用の多くは都に集中し、貨幣に対する信頼が社会全体に浸透したとはいい難く、貨幣経済を定着させるには至りませんでした。

 ではなぜ鎌倉時代になってようやく貨幣経済が浸透したのでしょうか。要因の一つに農業技術・農業生産性の進歩が挙げられます。農業技術が進歩するにともないエゴマといった商品作物が生産されるようになると、三斎市といった市場が登場しました。宋銭の輸入も一つの要因です。それまでの貨幣の場合、流通量がそれほど多くなく、悪銭が跋扈するなどして貨幣への信頼が下がることが往々にしてあり、そのことが貨幣経済の定着のひとつの妨げになっていました。しかし、平安時代の末期から宋銭が大量に流入すると、貨幣に対する信頼も公家や武家から次第に民衆に広がり、貨幣経済が定着していきました。

 貨幣経済が定着すると社会も変化しました。農業では年貢として米などの現物の代わりに宋銭を納める代銭納が現れ、金融業も盛んとなり、為替も登場します。市場の発達にあわせては、商品の輸送、委託販売をおこなう問丸も登場します。

 吉田兼好もまた、貨幣経済の世の中に揉まれて生きる一人でした。吉田兼好は、当時和歌四天王とよばれた頓阿にとある一首を送ります。

夜もすずし 寝覚めのかりほ 手まくらも 真袖の秋に 隔て無き風

一見、秋の寝覚めの涼しさを詠んだ普通の和歌に見えますが、からくりが隠されています。この歌には「沓冠」(くつかぶり)という技法が盛り込まれているのです。どういうことかというと、句ごとの頭文字と、最後の文字をたどると意味のある言葉が浮かび上がってくるのです。先ほどの歌をひらがな書きで見てみます。

よもすずし ねざめのかりほ たまくらも まそでのあきに へだてなきかぜ

頭文字をたどると、「よねたまへ」、すなわち「米給え」(米をくれ)というメッセージが浮かび上がります。一方、逆から同じことをすると、「ぜにもほし」、すなわち「銭も欲し」(金も欲しい)というメッセージが浮かび上がります。この歌のメッセージから、吉田兼好も生活にお金が必要だったことがわかります。ちなみに、この歌を贈られた頓阿は、和歌の達人だけあって兼好の遊び心を見抜き、次のように返しています。

夜も憂し ねたく我が背子 果ては来ず なほざりにだに しばし訪ひませ

兼好よ、うちに来ないか、というのが表の意味。しかし、先ほどと同じように頭文字に注目すると、「よねはなし、せにずこし」、すなわち、「米は無いよ、お金ならちょっと」というメッセージが浮かび上がります。兼好と頓阿の洒落た文通でした。

2.『徒然草』第217段「ある大黒長者のいわく」

 兼好のお金に対する考え方が現れた章段が第217段です。この段では、兼好が「ある大黒長者」(お金持ち)の語ったお金哲学を紹介し、「俺はそうは思わん」と反対する、という構成になっています。「ある大黒長者」の話はだいたい以下のようなもの。

ある大黒長者:
「人間の生きがいは財産を築くことだ。財産を築くコツは心構えにある。その心構えとは、

1. 人間いつまでも生きられるのだと思うこと、そして無常観などは持たないこと。
2. 欲望を抑えること。欲望には限りがないが、財産には限りがある。際限のない欲望は悪と心得て、ささいなことにもお金を使ってはならない。
3. お金を神や主君と心得て大切にすること。くれぐれも、お金を家来のように自由に使えるものだと思ってはならない。
4. 恥ずかしい目にあっても怒ったり、恨んだりしない。
5. 正直で約束を守ること。

 これらの心構えを持てば、あたかも火が乾いているものに就き、水が低い方に流れていくように(自然と)お金が貯まるだろう。お金が貯まれば欲望を満たさなくても心はつだって愉しいものだ。」

   欲望をおさえ、お金を使わないようにする、こういった大黒長者の考えに対し、兼好は大反対。兼好の言い分は以下の通り。

兼好:
「そもそも人間は欲望を成し遂げようとして財産を求める。お金が大事なのは、それが欲望を満たすたづき・手段となるからだ。欲望があっても我慢し、お金があっても使わないのは、まったく貧乏人に等しい。大黒長者の教えは、むしろ世間的な欲望を捨て、貧乏を託ってはならない、と言っているように聞こえる。こう考えると、貧乏と金持ちの区別なぞあったものではない。悟りは迷いに等しい。大欲は無欲に似ている。」

 最後は筆が走ったのか、仏教的な教訓めいたことを述べている兼好ですが、彼の意見は、「使わないなら、お金があってもしょうがない」というもの。

 兼好の言い分は普通の考えに思われますし、実際、兼好がわざわざ大黒長者の話を『徒然草』に載せているわけですから、大黒長者のお金観は一風変わったものとして提示されているように思えます。しかし、この大黒長者のお金観に似たような話が別の本にも出てきます。その本とは、『徒然草』とは似ても似つかぬドイツの社会学者マックス・ウェーバーによる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。

3.マックス・ウェーバーの「資本主義の精神」

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、禁欲的という言葉に代表されるプロテスタントの生活倫理と「資本主義の精神」との関連を扱った論考です。この論考の画期的な点は、およそ営利欲からは程遠い「プロテスタンティズムの倫理」が、営利欲に結びつけられがちな「資本主義」の精神の成立に関与した、という一見逆説的な指摘をしたことにあります。

「資本主義の精神」とは何か、その精神の一つの表現としてウェーバーは、「時は金なり」に代表されるベンジャミン・フランクリンのお金観を例示します。「時は金なり」とは、時間を労働による対価で換算する考えです。たとえば、1時間映画を見たとしましょう。この1時間のコストは、チケット代1000円だけではなく、その時間働いていた場合に得られた賃金、たとえば1000円、を機会費用として勘定した2000円となります。「時は金なり」のほかにも、「信用は金なり」、「貨幣は繁殖する」などの言葉にフランクリンの考えは代表されます。ウェーバーは、フランクリンのお金観には「自己の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想」(p.43)があり、「営利は人生の目的と考えられ、人間が物質的生活の要求を満たすための手段とは考えられていない」(p.48)と指摘します。

 このフランクリンの考えに現れる「資本主義の精神」の形成に貢献したのが「プロテスタンティズムの倫理」だった、とウェーバーは主張するのです。お金の増殖を自己目的とするような「資本主義の精神」と聞くと、その形成には旺盛な金銭欲が必要だ、と考えがちですが、ウェーバーは「貨幣を渇望する「衝動」の強弱といったものに資本主義とそれ以前の差異があるわけではない。」(p.54)と否定します。では、いったいなにが「資本主義の精神」の形成に貢献したのか。ウェーバーによれば、それは新しい「倫理」、具体的にはプロテスタントにみられる「世俗的禁欲」および「天職義務」(Berufspflicht )でした。

4.「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」

 一見すると貨幣欲を思わせる「資本主義の精神」が、禁欲的な「プロテスタンティズムの倫理」とどう関連するのでしょうか。

 ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理」の大きな一画を占める思想として、先に挙げた「天職義務」を挙げます。「天職義務」とは、世俗において自己の職業に専心務めることが神の使命にかなうのだ、という思想です。その天職義務の背景となったのがカルヴィニズムに見られる「予定説」でした。予定説とは神の救済を受ける者とそうでないものが、神によって「あらかじめ」決められている、という考えを言います。予定説の立場では、現世におけるいかなる信心・努力も、神による「予定」を変えることはできません。神の定めを人間の行いによって変えられると考えることは不遜であり、不可能だとされたのです。この客観的な、それゆえ仮借なき予定説の支配下に置かれた信者たちに残された道は、「自分が救われているか、否か」を確かめることでした。この歴史的展開のなかで、「善行は、救いをうるための手段としてはどこまでも無力なものだが、…選びを見分ける印しとしては必要不可欠なもの」(p.185)という認識が生まれてきます。そして、救いの確信に至るための「善行」として、神の召命(Beruf)によって定められた「天職」に励む、という思想が生まれました。これが「天職義務」です。天職義務によれば、労働は神の栄誉を確認するためになされ、したがって労働は富への手段であることをやめ、自己目的化します。また、天職の考えは、世俗において労働することが神の御心にかなう、という考えを内包しますから、それまでの修道院での「祈れ、かつ働け」といった世俗を離れた禁欲生活は、世俗化の道をたどります。こうした「世俗内禁欲」は、自己目的化した労働を合理化し、富やそれによる快楽のための労働を否定します。

 このように、「世俗的禁欲」、「天職義務」を基礎とする「プロテスタンティズムの倫理」は、労働を自己目的化および合理化し、富は付随的に集積するものの、欲望を満たす手段としては否定されます。こうした「プロテスタンティズムの倫理」はやがて世俗化し、フランクリンに見られるような営利を自己目的とするような「資本主義の精神」へと至るのです。

5. 兼好と大黒長者、ふたたび。

 長々とウェーバーの説を述べてきましたが、『徒然草』第217段との関係はもうおわかりだろうと思います。つまり、大黒長者の資本獲得を自己目的とした禁欲的なお金観には、「資本主義の精神」の端緒が見られるのです。もちろん、大黒長者のお金観に西洋の宗教的背景もなければ、日本の近代的資本主義に貢献したというわけでもありません。しかし、時代も場所もまったく異なる著作と思わぬ形でつながりをもつこと、その普遍性こそ『徒然草』に古典作品に値する深みを与えているのです。

 兼好にしてみれば、すさびごととして書いた『徒然草』が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という長~い題名のドイツの論文と比べられるとはゆめゆめ思ってはいなかったでしょうが。

徒然草の歴史は古く、鎌倉時代の末期に吉田兼好が執筆したとされる随筆で現在で言えばエッセイのようなものです。

平安時代中期の清少納言が執筆した「枕草子」、平安時代末期の鴨長明が執筆した「方丈記」と並んで日本三大随筆の一つに数えられています。

徒然草の作者 吉田兼好とは

吉田兼好は弘安6年(1283年)頃に卜部兼顕の子として誕生し、初め「卜部兼好」と名乗っていましたが「吉田」に姓を改め「吉田兼好」と名乗ることになります。

公家である堀川家の家司となり、従五位下の左兵衛左(さひょうえのすけ)まで出世しましたが30歳になったある日、突如として出家し遁世してしまいました。

遁世後の生活は定かではありませんが、仏道の修行に励みつつ、和歌をも学び、現在にも兼好作の和歌が18首残されています。

兼好が徒然草を執筆したのは兼好47歳の時と伝わっていますが定かではなく、天平7年(1352年)以降、名前が見られなくなったことからそれ以降に亡くなったものと推測されています。

徒然草の内容とは

全部で244段からなり、一段一段がエッセイで一行で終わる段から長々と続く段まで様々であり、序段の「つれづれなるままに」と始まる文章から徒然草と名付けられました。

実際徒然草とはどういった内容であったのか、その中の上位100段を現代風に解釈し一言で表して行きたいと思います。

序段 これから思い浮かぶことを書くという決意表明。

1段目 理想の生き方について

2段目 質素こそ美しい

3段目 恋愛を好まない男はつまらない

4段目 来世の事を心に忘れず

5段目 生きているかどうかすら分からず引きこもれるのが理想

6段目 子供は作らないほうが良い

7段目 40歳前に死ぬのが理想

8段目 色欲について

9段目 女性への迷い

10段目 こんな家に住むのが理想

11段目 感心から興ざめへ

12段目 真の友は貴重である

13段目 良い書物について

14段目 今と昔の和歌の価値観の違い

15段目 旅は素晴らしい

16段目 神楽はいい

17段目 山寺に籠る効能

18段目 清貧は素晴らしい

19段目 四季折々の風情

20段目 世捨て人の一言

21段目 自然は素晴らしい

22段目 昔の人は昔の方が素晴らしいと考える

23段目 内裏とは

24段目 おすすめの神社

25段目 栄枯盛衰

26段目 男女の別れについて

27段目 皇位の移譲の儚さ

28段目 天皇の服喪について

29段目 過去は懐かしい

30段目 死んでも後には忘れられる

31段目 手紙の返答

32段目 気になった女性

33段目 内裏を造り直す

34段目 貝を方言で呼んだら?

35段目 代筆よりは手書きが大事

36段目 気遣いのできる女性は素晴らしい

37段目 良い人とは

38段目 名誉と利に惑わされるな

39段目 法然上人の返答について

40段目 美人でも見るには親の許可が必要

41段目 漁夫の利

42段目 世にも不思議な病について

43段目 ストーキング行為

44段目 ある日の情景

45段目 行為が呼び名を変えて行く

46段目 かわいそうな僧侶のあだ名

47段目 世にも珍しい行為

48段目 昔のしきたりを再現する

49段目 出家するならお早めに

50段目 鬼の噂

51段目 専門家に任せるべき

52段目 ちゃんと調べよう

53段目 悪ふざけの代償

54段目 気を引こうとした結果

55段目 いい家の造りとは

56段目 おしゃべりは良くない

57段目 知ったかぶりは良くない

58段目 出家の薦め

59段目 心残りがあれば出家など考えない

60段目 自分に正直な僧侶の話

61段目 お産の際の風習について

62段目 皇女様の父である天皇に対する暗号文

63段目 内裏での正月明けの仏事の風習

64段目 牛車について

65段目 冠について

66段目 公卿の命に対する鷹匠の答え

67段目 上賀茂神社の末社の優越

68段目 大根の恩返し

69段目 大豆の訴え

70段目 楽器の不具合に対する機転

71段目 記憶の曖昧さとデジャヴを考える

72段目 多くあっても見苦しくないものと多いと見苦しいもの

73段目 嘘との上手な付き合い方

74段目 死についての捉え方

75段目 生きるための心のあり方

76段目 僧は世俗と距離を置いた方が良い

77段目 聞いた話を言いふらすのはいかがなものか

78段目 知らない人の前で身内しか知らない話をするな

79段目 物事に詳しい振りをして話すのは恥ずかしい

80段目 生きているうちは武術を誇ってはいけない

81段目 飾り気無くとも品質の良い物が一番だ

82段目 あえて不完全とす

83段目 昇りつめた先には凋落が待っていることを理解せよ

84段目 どんな高僧でも故郷は恋しい

85段目 優れた人を見習うべし

86段目 師匠に対する弟子の上手い言い回し

87段目 善意が仇となった話

88段目 贋物でも珍しいから逆に価値がある

89段目 猫又の話

90段目 嘘がバレバレな話

91段目 吉凶はその人の行いで決まるもの

92段目 先延ばしせず今を懸命に生きる

93段目 命の重さ

94段目 天皇に仕えるということ

95段目 箱に緒をつける際のしきたり

96段目 マムシの毒に効く草の話

97段目 人でも家でも何かに消耗させられる

98段目 尊貴な高僧が著した書物を読んだ感想

99段目 古い物には価値がある

100段目 水を飲む際の入れ物の話

なぜか深い徒然草

100段目までまとめましたが、まだ144段と続きます。

今回は一言でまとめましたが、一段一段の文章は長いものから三行もなく終わるものまで様々で、本当に徒然なるままに思ったことを書いたということが伝わってきます。

そして人の暮らしとは今も昔も、根本では変わらないということが良く分かるからこそ、現代人にも親しみやすい古典として、今もなお読まれているのでしょう。
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