実は悲しい『枕草子』清少納言の思い出

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 「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山際すこし明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」この有名な冒頭をもつ『枕草子』は、日本三大随筆の一つとして知られ、作者清少納言は、『源氏物語』の作者紫式部とともに、平安かな文学の二大頂点を築きました。

 『枕草子』といえばウイットに富んだ章段もあれば、「香炉峰の雪」の話(第284段)や、「扇の骨」(第98段)といった自慢話も多く、「清少納言のドヤ顔が鼻持ちならん!」と不快感を感じる読者も少なくないでしょう。紫式部も「したり顔にいみじう侍りける人。」(ドヤ顔して偉そうな人だ)、小賢しく漢字なんか書いちゃって、と清少納言が気に食わなかったようです。(『紫式部日記』岩波文庫 p.73。)

 しかし、『枕草子』がどのようにして書かれたのか、その事情を知ると、陽気で輝かしい『枕草子』に潜む、悲しい音調が聞こえてきます。『枕草子』をめぐる、清少納言と藤原定子の盛衰をたどります。

1. 清少納言の生い立ち

清少納言とはどのような人物だったのでしょうか。まず、清少納言というのは、女房名という通称で彼女の本当の名前ではありません。紫式部にしても、藤原孝標女にしても、当時の女性の本名は不明であることが多く、清少納言も例外ではありません。「清」は彼女の生まれた清原家に由来すると考えられています。しかし、「少納言」の由来については、彼女とゆかりのある人物に少納言がいたかどうかはわかっていません。ちなみに読み方は、「せーしょー なごん」ではなく、「せい しょうなごん」です。

 清少納言は、曽祖父に『古今和歌集』への入集を果たした清原深養父(きよはらのふかやぶ)、父に梨壺の五人の一人として『後撰集』の編集に携わった清原元輔をもつ、名高い歌人一家に生まれました。『宇治拾遺物語』には父元輔にまつわる面白いエピソードがあります。賀茂祭でのこと、元輔は見物人たちの目の前で落馬、帽子が脱げてしまいます。露わになった禿頭を見た見物人たちは大笑い。そこで元輔は弁解を始めます。

「思慮ある人さへ転ぶことは常のことじゃ。馬に思慮はない、道も石だらけ、おまけに馬は手綱で口を引かれておる。あっちこっちに引っ張られては馬も転んで当然じゃ。だから、馬は悪くない。唐鞍の鐙は足を掛けにくい、それに馬にあんなに転ばれては落馬して当然じゃ。だから、私も悪くない。帽子は道具で留めるのではなしに、髪によって留めるのじゃ。しかし、わしにはまったく髪がない。だから、落ちた帽子も悪くない。それに、落馬にはナニナニコレコレの大臣の先例がある。笑うのはかえって愚かという物ですぞ。」

 理屈をコネコネ、先例まで引き合いを出すあたり、さすが清少納言の父といった感じですが、こうした父のもと、清少納言は教養と機転、理屈っぽい性格を備えた才女として成長しました。『枕草子』第95段には、和歌を求められた清少納言が「歌人の家系に産まれて下手な歌は詠めない」と断る場面があり、高名な歌人の家系に生まれたプレッシャーを感じていたようです。

 幼いころ清少納言は、父元輔の転勤に付き添って、周防(山口県)で4年を過ごします。その後京都に戻り、天元5年(982)ごろに橘則光と結婚します。翌年長男則長が生まれますが、結婚生活は長く続かなかったようです。『枕草子』第80段には、則光との微笑ましい(?)エピソードが語られています。

 一条天皇の時代、正暦4年(993)の冬ごろから、清少納言は宮仕え生活が始まりました。清少納言が仕えたのは藤原道隆の娘で一条天皇の皇后(中宮)、藤原定子でした。清少納言は定子より10歳上でした。そして、定子に仕えた7年ばかり、輝かしい宮中時代の思い出の断章が『枕草子』なのです。

2. 中関白家 定子の栄枯盛衰

定子の父藤原道隆は、『蜻蛉日記』にも登場する藤原兼家の長男で、容姿端麗であったといいます。986年、道隆の父兼家と弟道兼は、花山天皇を賺して出家させ、一条天皇が即位させる事件が起きます。(『大鏡』)こうして兼家は一条天皇の摂政となり、990年、道隆は娘の定子を入内させ、同年中宮となります。道隆自身も993年、関白となります。道隆が栄華を極めるこの年、清少納言の宮廷生活が始まったのです。

 『枕草子』第100段には淑景舎(定子の妹、原子)の東宮入内が、一点の翳りなく華やかに描かれます。(995年1月)しかし、その2ヶ月後、藤原道隆が病死、翌年には定子の兄伊周と隆家が花山法皇に矢を射つという事件(長徳の変)によって二人は左遷され、道隆家の栄華はあえなく消え去り、代わって道隆の弟道長が実権を握りました。この事件によって定子は内裏を退出し、里邸で謹慎、一時は御髪を下ろしました。さらに不幸は重なり、里邸は全焼、定子の母も亡くなりました。そんな中、第一子となる脩子内親王が無事産まれたことは、どれだけ定子の沈んだ心を慰めたことでしょうか。一方の清少納言も、道長に通じているという疑いをかけられて長期間の里居を余儀なくされました。一説には『枕草子』が書かれたのはこの時期だといわれています。『枕草子』第138段はこのときの回想です。

 997年、定子は再び内裏に戻りますが、もはや庇護者は一条天皇だけ。一方で道長の栄耀栄華は増すばかり。999年には道長の娘彰子が入内、定子と彰子二人の皇后が並びたつ異例の事態となりました。翌1000年、出産を終えた定子はそのまま崩御します。25歳でした。定子を亡くした清少納言は宮廷を辞しました。その後の清少納言の人生は詳しくわかっていませんが、里居の際の草稿を書き継いで『枕草子』を書き上げられたと考えられています。晩年の暮らしはひっそりとしたものであり、後代には「清少納言落魄伝説」が流布しました。

3. みじかくも美しく燃え

 こうした悲しい境遇のなかで書かれた『枕草子』ですが、作品中には悲哀の影はめったに認められません。書かれるのは宮中の華やかな生活や定子との楽しい日々、我が身のうれしかったエピソードばかり。しかし、清少納言の悲しい境遇を知るや、『枕草子』の読み方も変わってくるでしょう。たとえば、第138段における清少納言と定子との知的で濃やかな文通は、もはやかつての栄耀を失った定子と清少納言の悲しみを知ってこそ、静かな美しさを湛えるのです。

『枕草子』の悲哀、それはちょうどモーツァルトの音楽に漂う「長調の哀しみ」に似ています。美しければ美しいほど、悲しい。悲しみを感じるのは、美しいものの儚さを、私たちが知っているからなのでしょうか。

清少納言 最初の夫 橘則光

清少納言は康保3年(966年)頃の生まれと言われていますが、清少納言がまだ10代の天元4年(981年)頃、一番初めに結婚した夫が、後の陸奥守・橘則光(たちばなののりみつ)です。

則光は康保2年(966年)頃の生まれと言われています。

清少納言より一つ年上だった則光は、清少納言が後に仕えることになる中宮・藤原定子の夫である一条天皇の先代・花山天皇の乳母だった「右近尼」を母に持ち、自身も花山天皇の乳母子として仕えました。

清少納言との間には、結婚から一年後に嫡男・橘則長が誕生しています。

則光は武勇に優れていたようで「今昔物語集」などによると、複数の賊に襲われた則光は、まず一旦逃げると見せかけて追って来た賊の中で、初めに自分に追いついてきた賊を振り向きざまに倒します。

そこでまた逃げる則光ですが、賊に追いつかれてしまうと、今度はしゃがみこんで、相手がこけるのを見計らって二人目を倒しました。

恐怖に駆られた三人目を躊躇なく倒した則光ですが、目立つのが嫌だったため、別の人物がやったのだと、のらりくらりとかわしてしまいました。

その時の太刀捌きの見事さは伝説となり、後年子供たちに則光がこの話をばらしたことで事件の全貌が歴史に残ったのです。

武勇に優れた則光でしたが、その反面地味で歌は苦手だったためか、教養があって機知に富んだ清少納言との結婚生活は長くは続かず、結構早めに別れてしまったようです。

しかしこの2人は離婚してからの方が仲が良かったようで、宮中では妹(いもうと)・背(せのと)として兄妹のように仲がいいと思われていたようです。

清少納言が後に記すことになる「枕草子」にも則光の記述が残っています。

枕草子 八十四段 「里にまかでるたに」

これは清少納言が主である中宮・定子に仕えていたころのお話。

政争に巻き込まれた定子のように、清少納言にもあらぬ疑いがかかり、清少納言は身を隠していました。

清少納言の居場所を知っている人は少数のみでしたが、その中に則光の姿もありました。

しかしそんな清少納言の居場所に興味を持っていた男がおりました。

その男の名は藤原斉信(ふじわらのただのぶ)。

公卿であり、定子のライバルである彰子の父である藤原道長の側近でもあり、則光の上司にあたります。

清少納言の教養を認めていた斉信は、いなくなった清少納言の居場所が気に掛かり、部下である則光に居場所を問い続けました。

しかし清少納言に居場所を教えることを固く口止めされていた則光でしたので頑張って誤魔化しはしたものの、こうやって誤魔化し続ける自分に笑えてきた則光はとうとう笑いをこらえきれなくなり、近くにあった大量のワカメを口に詰め込んでしまいました。

あっけにとられた斉信でしたが、則光は何とかその場を切り抜けることに成功したのでした。

それから清少納言の元を訪れた則光は、清少納言にこの件を話しました。

清少納言はこの話に呆れながらも再度居場所を教えないようにお願いしました。

頑張る則光でしたが、さすがにかわしきれなくなると、清少納言に居場所を教えていいかどうかを問う手紙を送りました。

それに対して清少納言は、手紙の代わりにワカメの切れ端を送って返答としました。

しかしこの意味が理解できなかった則光は再度返事を要求してきました。

そのワカメを口に入れてどうか話さないでという意味を理解できない則光に清少納言は和歌をしたためて送りました。

清少納言と違って教養の無い則光は和歌が大嫌いでした。

それは二人が夫婦になった際に取り決めた一つの約束事。

二人の間で和歌を取り交わさない…。

清少納言から則光への絶縁状に他なりませんでした。

別れてからも妹(いもうと)・背(せのと)として仲のいい友達のようだった二人。

その最後はちょっと儚いものでした。

清少納言と橘則光 その後の二人

袂を分かった二人でしたが、則光の方はその後再婚し、3人の子供を儲けたようですがその後の足跡は分かっていません。

左衛門尉などの当時の警察職を経て後、能登守・陸奥守などの地方官を歴任したようですが公卿になることはできませんでした。

清少納言の方も則光と別れた後に、一回り上の藤原棟世(ふじわらのむねよ)の元に再嫁しています。

棟世も則光のように筑前守や山城守などの地方官を歴任した人物のようです。

二人の間には娘が生まれますが、この娘の名前を上東門院小馬命婦(じょうとうもんいんこまのみょうぶ)といい、皮肉にも清少納言の仕えた主である中宮・定子のライバルである中宮・彰子の側に仕えることになります。

平安時代後期から鎌倉時代中期頃に成立したと言われる「清少納言集」によると、中宮から皇后に昇った定子でしたが、産後の肥立ちが悪く、長保2年(1001年)に定子が崩御すると、悲嘆にくれた清少納言が、摂津守となっていた棟世を頼って赴任地である摂津に身を寄せたとあります。

その後は、父である清原元輔の別荘があったといわれる東山月輪の辺りに暮らしていたと言われており、万寿2年(1025年)頃に亡くなったようですが、清少納言の最後については詳しく分かっていないようです。
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