世界史

メディチ家ってどんな家? 一家のショート・ヒストリー

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ハプスブルグ家やフッガー家と並んで世界史に登場する一家のひとつが「メディチ家」です。

イタリア・ルネッサンスといえば、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチが有名ですが、彼らのパトロンとして活躍したのがメディチ家。この一家については、大物芸術家に比べると、あまり知られているとはいえないでしょう。そこで、メディチ家がいったいどのようにして、ルネッサンスにおける重要なパトロンとなったのか、ルネッサンス後はどうなったのか、メディチ家一家の興亡史を紹介します。

銀行家として ジョヴァンニ・ディ・ビッチの時代

「メディチ」という言葉は、医師や薬を意味することから、メディチ家は薬屋一家であったと推定されますが、詳しいことはわかっていません。メディチ家が勢力を得たのはジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360-1429)の時代、薬屋ではなく、銀行家としてでした。ジョバンニはのちのメディチ家の拠点となるフィレンツェに「メディチ銀行」を創設し、ローマ教皇庁のつながりを活かして銀行業を拡大しました。
また、当時、ローマとアヴィニョンの教皇庁が互いに首長権を主張しあう、「教会大分裂(大シスマ)」(1378-1417)が勃発しており、ジョバンニはこの機に乗じて、自らの擁立する教皇を即位させることに成功し、ローマ教皇庁の財政管理者の地位を獲得します。さらに、一般市民に有利な税制改革にも着手し、支持を集めました。こうしてローマ教皇庁との結びつきを強めたメディチ家は、フィレンツェ随一の有力者となりました。

芸術のパトロンとして コジモ・デ・メディチの時代

1429年、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが死去すると、息子のコジモ・デ・メディチ(1389-1464)がメディチ家の当主となります。コジモは、父の築いた財政基盤をもとに、政治的基盤をさらに拡大しました。父の時代から市民の支持を集めていたメディチ家でしたが、旧来の有力者の不満を買い、1433年にコジモはフィレンツェを追われてしまいますが、やがて市民の支持を受け、再びフィレンツェに指導的な権力をふるいました。彼の時代、銀行業も順調で、ロンドンやバルセロナ、アヴィニョンなどへ支店を拡大し、メディチ家は、フィレンツェにとどまらぬ影響力を持ちました。

コジモ・デ・メディチは芸術のパトロンとも知られています。彼が庇護した芸術家としては、画家のボッティチェリやフラ・アンジェリコ、彫刻家のドナテルロ、哲学者のピコ・デラ・ミランデラ、建築家のブルネレスキなど、多数挙げられます。また、コジモはプラトンの哲学にも興味を示し、フィッチーノにプラトンのラテン語訳を命じたほか、プラトン研究のための「プラトン・アカデミー」をフィレンツェに設けました。前述のピコ・デラ・ミランデラもここで議論をおこなった哲学者のひとりです。

このように、市民の支持をベースにフィレンツェの市政や芸術に奉仕したコジモは死後も「祖国の父」と賞賛され、ルネッサンスの中心人物としてこんにちまで記憶されています。

メディチ家の最盛期 ロレンツォ・デ・メディチの時代

コジモとその子、ピエロ(1416-1469)、ロレンツォ(1449-1492)の時代にメディチ家は最盛期を迎えます。
ピエロは「痛風もちのピエロ」とよばれ、病弱で目立たない存在ですが、コジモの体制をさらに盤石としました。ピエロの子、ロレンツォは若くしてフィレンツェの統治を任されます。ロレンツォは外交に抜群の手腕を発揮し、反メディチ派の暗殺計画(パッツィ家の陰謀)にもかかわらず、イタリア内の治安を安定させることに成功しました。また、ロレンツォは、芸術家のパトロンとしても引き続き活発な活動を見せ、自らも古典に通暁し、祖父コジモが設立した「プラトン・アカデミー」で詩作をするなど教養あふれる芸術の理解者として君臨しました。

ロレンツォの時代はルネッサンスの最盛期であり、メディチ家の黄金時代であったわけですが、メディチ家の命運に影をさす出来事もありました。
ひとつは、サヴォナローラの台頭です。サヴォナローラは、ロレンツォがフィレンツェに招いた宗教家でしたが、彼はしだいにメディチ家やルネッサンス芸術の批判をし、フィレンツェ民を煽動するようになっていきました。メディチ家の懸念のもう一つは、メディチ銀行の経営悪化です。ヨーロッパ全土に拡大したメディチ銀行は、ロレンツォの頃には経営悪化や不正が目立つようになっていました。

メディチ家の没落と復活

ロレンツォののちは、息子ピエロが家督を継ぎます。
このピエロは「痛風もちのピエロ」と区別して「不運なピエロ」あるいは「愚昧なピエロ」とよばれるとおり、彼の時代、イタリア戦争によってフィレンツェを追放され、メディチ銀行が破綻するなど、メディチ家の没落が浮き彫りになります。
しかし、メディチ家に代わってフィレンツェを治めていたサヴォナローラが異端として処刑されると、メディチ家は再びフィレンツェに返り咲きます。それも長くは続かず、1527年に神聖ローマ皇帝カール5世がイタリアを侵略すると、フィレンツェで反乱がおき、メディチ家は再び追放されますが、翌年、カール5世はフィレンツェの反乱勢力を鎮圧すると、メディチ家はまたまたフィレンツェに復活、「トスカーナ大公」としてフィレンツェとその周辺の統治権を得ます。
そしてメディチ家は以降、18世紀の断絶までトスカーナ大公として家格を守ることとなるのです。

メディチ家とイスラム世界~ヨーロッパの誇りある過去を呼び戻す一族

イスラム世界からイタリアの繁栄を引き出すフィオリーノ金貨

ヴェネツィアは7世紀末から18世紀末に至る、約1000年の歴史を持つ自治都市でした。

その永きに渡るヴェネツィアの繁栄と自治の代名詞として私たちが思い描くのは「メディチ家」という絶大な権力を誇った一族ではないでしょうか。

貴族や騎士といった旧来の支配階級ではない、メディチ家を筆頭にした商人たちによる自治はどのようなものだったのでしょう。

当時の彼らの財力をイメージするには、卓越した貴金属加工技術によって薄く精緻に彫刻が施されたフィオリーノ金貨をチェックしてみることをおすすめします。

1252年に鋳造され、国際通貨として世界を旅する貿易商に利用されたのがフィオリーノ金貨で、表にフィレンツェの百合の紋章、裏に守護聖人聖ヨハネが刻まれた、美術品としても美しいコインです。

その薄さと加工技術、金含有量の高さと重さの統一性など、それら全てが、金貨を鋳造しているフィレンツェ商人へ向けた信用の担保となっていました。

もともと「メディチ」とは「医者」という意味がありました。医者の家系であることを物語るのは名前だけではありません。メディチ家の紋章のモチーフとなっている球体は、丸薬あるいは治療に使う吸い玉を表現したものと言われています(メディチ家の財力を表すコインという一説もあります)。

イスラム世界に封じ込まれたイェルサレムを目指し、幾度となく進撃した十字軍の遠征により、イスラム世界に向かうルートは開拓されたのですが、その一方でヨーロッパ旧来の封建制度は疲弊していきました。

騎士階級は働き盛りの若者たちと財力を十字軍遠征によって消費し続け、領主としての権力を失っていきます。異教徒であるイスラム勢力に圧倒されるばかりのローマ教皇もまた、人々の求心力を失い、その支配力は徐々に各国の王に吸い取られていきました。

一方、東アジアではモンゴル帝国が着実に勢力を拡大し、史上最大規模の領土を運営するための交通網を整備する段階に差し掛かっていました。

そんな時代でしたから、西ヨーロッパの玄関口にあるイタリア半島は、海陸双方にとって貿易路の要所という地の利を活かし、世界各地から財を集めることに成功した後、商人たちが御しやすくて力のある政治家のパトロンとなることで、衰退した西ヨーロッパの旧権力の奥深くにまで、メディチ家は食い入ることができたのです。

メディチ家の財は古代ギリシア・ローマの文化をイタリアに取り戻した

イスラム世界に地中海の制海権を牛耳られ、ヨーロッパ諸国の旧権力の財は目減りするばかりでした。しかし、イタリア半島のヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ジェノヴァ他、コムーネと呼ばれる自治都市国家は、独自に10世紀後半にイスラム各国と貿易条約を締結したことで、イスラム圏内の海上貿易をメディチ家など貴族階級となった資産家たちが一手に引き受ける形で繁栄していきました。

ヨーロッパのイスラム防衛拠点かつ東方貿易の中心地であるイタリア半島のフィレンツェを拠点としたメディチ家は、1397年にメディチ銀行を興し、ローマ教皇庁の財務管理を担う一族となったことで、やがてメディチ銀行はヨーロッパ最大の商社となり、その地位は他の資産家と比較して頭一つ抜けた形となりました。その関係は15世紀後半まで持続します。

メディチ家の保護した芸術家たち

イスラム勢力とヨーロッパとの長すぎる紛争の舞台となっていた地中海沿岸からは、守りきれなかった多くの歴史遺産がイスラム世界へと流れていきました。荒廃するヨーロッパ情勢では散逸してしまったものも数多くあったのですが、文化芸術に造詣の深いメディチ家などの東方貿易商人たちが、古い遺産をイスラム世界から探し出し、ヨーロッパに取り戻すことが多くありました。古代ギリシア・ローマの芸術品や古書が買い戻したり、先進的なイスラム数学を輸入して自然学への興味を掻き立てたりした功績は、富と知性と才能がヨーロッパ中から集まってきていたイギリスにて、「ルネサンス」として花開いたのです。

メディチ家のコジモが友人の写本収集家から引き取った約800巻の蔵書で、誰もが利用できるヨーロッパ最初の図書館を作りました。

フィレンツェ市内の公共施設や教会施設を改築、新築するために豊富な財力で数多くの才能ある芸術家に仕事を与えました。建築家ミケロッツォや彫刻家ドナテッロから、ルネサンス全盛期のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、ミケランジェロに至るまで、メディチ家代々の当主が芸術家のパトロンとなり、時には国境を越えて芸術家を派遣して仕事を与えたりすることで、手厚くサポートしたのです。

財を公共に使うメディチ家はフィレンツェの街に愛された

権力を金で買い叩く悪徳資産家、というイメージを、メディチ家に持っている人も多いかもしれません。しかし、メディチ家本来の家風は、蓄財にのみ邁進するのではなく、商いで得た財産を公共の利益に回して、誠実に働く人間が得をし、才能あるものを育成し、社会に還元していく徳と審美眼を身につけることにありました。

ルネサンス文化の花開いたフィレンツェの街には世界レベルの美術館がひしめいていますが、そのほとんどがメディチ家所有のコレクションを基にしたものです。

文化芸術を愛するメディチ家の富の美学は、フィオリーノ金貨の美しさが時を超えて伝えています。
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