日本史

学者であり医師。ドイツ人シーボルトの人生とは?

関連キーワード

17世紀前半、江戸幕府は鎖国政策をとり、キリスト教の布教を禁止し、同時にイギリスなどのヨーロッパの国との貿易を停止しました。
しかし日本は完全に海外に向けて閉ざされていたわけではなく、アジアやヨーロッパの国との一定の交流は保たれていました。そして、その玄関口の中心となったのが長崎の出島でした。
長崎には、来日中国人のための唐人屋敷や、出島にあるオランダ商館があり、日本はそれらを通じて海外の国々との貿易を行なっていたのです。
もちろん物品の交流にとどまらず、西洋から日本へやってくる人々もいました。

その中のひとりが、ドイツに生まれ、オランダ船に乗って日本にやってきたシーボルトです。日本史の教科書では鳴滝塾を開き、やがて地図の持ち出しの嫌疑をかけられ、国外追放となった人物として紹介されていますが、実際のところ、彼はいったい何のために日本に上陸し、どんな活動をしたのでしょうか。

シーボルトの生い立ち

1796年、ドイツのヴュルツブルクに生まれたシーボルトは、ヴュルツブルク大学で医学を筆頭に植物学、薬学、物理学などを学びました。
大学卒業後は開業医となります。
しかしまもなく、オランダの軍医となることを勧められると、植物学や東洋に興味のあったシーボルトは勧めを受け入れ、1822年、故郷からハーグへ向けて出航、翌年にはオランダの植民地バタヴィア(現在のインドネシア、ジャカルタ)に渡ります。
しかし、再びすぐに長崎の出島商館の医師に任命され、1823年8月、シーボルトは日本に上陸します。
ドイツ生まれのシーボルトはオランダ語に訛りがありましたが、上陸時にそのことを咎められた、というエピソードが伝わっています。

日本での活動

シーボルトは長崎の地を踏むや否や、西洋の医療を日本に紹介します。たとえば、失敗には終わったものの、牛痘接種を施しています。また、出島の外に鳴滝塾を設立し、そこで高野長英や伊東玄朴を弟子にとり、西洋医学や博物学を教えました。シーボルトは医者としてだけではなく、植物学者としても活躍し、出島に植物園を作り、栽培に適した種子や苗木をオランダ本国へ送る、という役割も担いました。

シーボルトが日本での活躍の場を広げるきっかけとなったのが、江戸参府でした。
4年に1回行われるオランダ商館長(カピタン)の江戸行きに、シーボルトは随行し、江戸において天文方の高橋景保に出会います。
そのほかにも最上徳内や大槻玄沢とも交流しています。長崎帰還後も、シーボルトは精力的な活動を続け、1827年には楠本滝の間に娘、楠本イネをもうけました。

シーボルト事件

1827年、シーボルトの帰国が決定します。
しかしその際、シーボルトと高橋景保の文通に加え、シーボルトが伊能忠敬の日本地図や北方図を、高橋から譲り受け、持ち出そうとしていたことも判明し、問題となります。
投獄された高橋景保は病死、シーボルトに対しては「国禁」、すなわち国外追放が言い渡され、シーボルトはオランダへの帰国を余儀なくされます。シーボルト事件では最上徳内が暗躍していた、といわれています。

『日本植物誌』などの編纂

ヨーロッパに帰国したシーボルトは、持ち帰ったコレクションをもとに、日本滞在時から計画していた『日本植物誌』の編纂に取り掛かります。
『日本植物誌』はその名のとおり、日本の植物を図版に、その生態や利用方法を載せた図鑑であり、ヨーロッパへ日本の植物を紹介する役割を果たした仕事として、評価されています。ところで、『日本植物誌』ではアジサイの学名が、 “Otakusa” となっていますが、牧野富太郎が、これはシーボルトの妻、「おたきさん」から来ているのではないか、と推測をしているのは有名な話。

『日本植物誌』に比べると知名度は劣りますが、日本の動物を分類紹介した『日本動物誌』をシーボルトは残しており、日本の動物をヨーロッパへ紹介したものとして、学術的価値の高い著作として認知されています。

忘れてはならないシーボルトの日本に関する著作として、『日本』があります。
この未完の作品は、日本の地理にはじまり、日本と朝鮮半島の交流、日本とヨーロッパの関係、自身の日本滞在記、日本の歴史、茶の製法、北方および琉球に関する記事、など、日本に関する事項を網羅した大部の資料集になっています。

日本への再渡航と死

日本への渡航が禁止されていたシーボルトでしたが、ペリーの黒船によって日本が開港して間もない1857年に来日禁止令が解除されます。
1859年、シーボルトは息子を連れ、再び長崎の地を踏みます。
日本では以前のように治療活動や、コレクションの収集を続け、イギリス公使館襲撃事件の際には事件の処理に奔走するなど、政治的にも活躍しました。しかし、この政治的行動はオランダ本国および幕府の不興を買い、1861年、シーボルトは江戸退去を命じられます。
翌年には、オランダ政府の命令で長崎をたち、バタヴィアへ、さらに翌年にはヨーロッパへ帰国することとなりました。

ヨーロッパに帰ったシーボルトは、日本から持ち帰ったコレクションの展示などを行いましたが、再び日本へ渡ることはありませんでした。シーボルトは1866年、敗血症によりミュンヘンで70年の生涯を閉じました。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ