日本仏教のはじまり『飛鳥時代』の仏教、仏像、時代背景ってどんなもの?
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「飛鳥時代」という言葉
「奈良の大仏」こと東大寺盧舎那仏の建立が成されたのがいわゆる奈良時代。仏教が伝来したのはそれより前の「飛鳥時代」と呼ばれる時代がありました。実は「飛鳥時代」という言葉、本来の時代区分ではなく一種の美術用語。美術史における仏教美術が栄えた時代を示します。
どんな時代?
西暦で言えば、推古天皇の即位した592年ころから大化の改新、もしくは平城京遷都まで。(諸説あり)聖徳太子や蘇我氏の時代ですね。百済から日本に仏教が伝わったのは、538年ころ(552年という説もあり)。「いや、時代合わないじゃん」と思われるでしょう。
それまでの信仰
それまで信仰の対象は「八百万の神々」、つまりありとあらゆる自然物に宿る「神」。信仰や葬送に関して作るものといったら、人間離れした造形のはにわと土偶程度だった日本人にとっては、人に近い姿をしたの仏像と仏教はまさに衝撃。後に政治に取り入れられることとなる仏教ですが、当初は受け入れるのにまずモメた模様。受け入れるかどうかに年月をかけ、ようやく日本最初の寺院、飛鳥寺が建てられました。着工588年・・・50年もためらった日本人。無理もありません。今までの常識を覆すような信仰がいきなり入って来たんですから。
飛鳥仏像特有の鑑賞ポイントとは?
そんな苦節を経てようやく日本に根付いた仏教ですが、「飛鳥時代」の仏像は高時代の者とは明らかに次元を異にするポイントがありました。このポイントを知っているからと言って「飛鳥時代特有の・・・」なんて得意になれるかどうかは分かりませんが。まず第一に、「アルカイックスマイル」。古代ギリシアの彫刻などで知られる技法ですが、シルクロードを通り伝わったようです。口角の上がった、「にいっ」とした笑顔が特徴。
第二に、「左右対称」。飛鳥時の釈迦三尊像など、パッと見て「うーん、綺麗な黄金比率」なんて意味も分からず呟きたくなるような左右対称形の仏像が主流でした。無論、後代にも両脇に仏を従えた仏像は現れますが、ここまで綺麗に「揃って」いないと言いますか、仏によって個性を出しているように思えます。「飛鳥時代以降の仏像の中にも、三尊像もあるし左右対象の仏像はいくらでもあるよ。それはどう説明するの」と言われれば、第三の特徴をお教えしなくてはなりません。それ即ち、「飛鳥時代の仏像は、平べったい」ということ。横から見たら一本線、というわけではないのですが、奈良時代以降の仏像はより写実的になっていきます。奈良の大仏様のようにふっくら、頼もしく。時に力強く。だからと言って飛鳥時代の仏像が劣っているというわけではありません。まだ渡って来たばかりの仏像を、何とか暗中模索しながら模作した結果出来上がったもの。ともすると、遠い所におられる仏様だからとどこか非現実的な印象を抱いたのかもしれませんね。しかし、何にでも例外はつきものです。
第二に、「左右対称」。飛鳥時の釈迦三尊像など、パッと見て「うーん、綺麗な黄金比率」なんて意味も分からず呟きたくなるような左右対称形の仏像が主流でした。無論、後代にも両脇に仏を従えた仏像は現れますが、ここまで綺麗に「揃って」いないと言いますか、仏によって個性を出しているように思えます。「飛鳥時代以降の仏像の中にも、三尊像もあるし左右対象の仏像はいくらでもあるよ。それはどう説明するの」と言われれば、第三の特徴をお教えしなくてはなりません。それ即ち、「飛鳥時代の仏像は、平べったい」ということ。横から見たら一本線、というわけではないのですが、奈良時代以降の仏像はより写実的になっていきます。奈良の大仏様のようにふっくら、頼もしく。時に力強く。だからと言って飛鳥時代の仏像が劣っているというわけではありません。まだ渡って来たばかりの仏像を、何とか暗中模索しながら模作した結果出来上がったもの。ともすると、遠い所におられる仏様だからとどこか非現実的な印象を抱いたのかもしれませんね。しかし、何にでも例外はつきものです。
ちょこっと異色の飛鳥仏像、百済観音像
その例外とされるのが、百済観音像。今でこそ法隆寺にご自身のお堂が作られていますが、長いこと「飛鳥時代の作ではない」とされていました。それもそのはず、アルカイックスマイルに割と平べったい像容に反し、第三の要素たる「左右対称」の面がない。「壺持ってるから」とかそういう理由ではなく、「何だか現実的」なんですよね。やたら細く作られた像、お釈迦様ご降誕(脇からお生まれになったという伝説をもとに作られたもの)の像など、説話を元にしてあったりディフォルメされていたり。「左右対称でいて、どこか現実感がない」のが飛鳥時代の仏像の特徴のようにも思われます。しかし、百済観音像は天衣(腕の辺りからたらっと垂れている、細長い布のこと)の翻り方と言い、しっかりと大地を踏みしめた脚と言い、他の仏像と比べ不思議な現実味を帯びているのです。つまり法隆寺にある仏像たちとは一線を画しまくっていたがため「後の時代になって別の寺から来たんじゃないか」だの、「日本製じゃないんじゃないか」だのと思われていた模様。観音菩薩ではなく、虚空蔵菩薩(お地蔵さまと対になる存在だそうです)という、宇宙のごとき広い慈悲と知恵を持った別種の仏像とも考えられていた模様。明治期この像に合うサイズの冠が見つかったことから「観音菩薩だ」ということは判明。「冠だけで、何で観音様ってことになるの」かって?その冠(宝冠といいます)に、小さな仏様があったためです。別に必須条件というわけではありませんが、観音菩薩像の冠、もしくは頭上には、阿弥陀様を表す小さな仏像が彫りこまれていることがある模様。「小さい仏様を頂くということは、観音様だな」ということらしいです。
飛鳥時代の仏像、その種類・金銅仏
最後に、飛鳥時代から始まる仏像の種類について。少なくともこの時代に作られた仏像の種類について。まず金銅仏。日本に最初にやって来た仏像もこれに属します。金属を中ずして、金のメッキを張ったもの。鋳型が作りやすい蝋などでできており、滑らかな仕上がりが期待できます。が、費用がバカ高い。おまけに技術者もそれなりの腕でなければいけないという・・・。平安時代など、後世に至るまでこの技法は使われていたようです。奈良の大仏様はこの製法で作られています。えっらいお金かかったんでしょうね・・・。人件費も含めて。
飛鳥時代の仏像、その種類・塑像
続いては「金銅仏は金かかるし、結構技術いるから、もっと簡単なのでいこう」となったのか「塑像」という粘土式の仏像製造法が確立。作りやすいのはいいんですが壊れやすいのが難点。針金などを使って作られもしましたが、完全な形で残っているのはあまりないそうな。
飛鳥時代の仏像、その種類・乾漆像
その次に現れたのが乾漆像。漆に気の粉を混ぜてペースト状にし、粘土のよう(木屎漆といいます)にして作ったそうです。木で骨組みを作って、その上から麻布、さらに漆(先の木屎漆)を貼って完成。と言葉で言えば簡単ですが、この漆が乾くのに時間がかかった模様。しかも材料は漆。金銅仏同様費用が掛かることのこの上ない製造法のようです。もっとも、割と質感等は自在に出せるようですが。
飛鳥時代の仏像、その種類・木造
最後に現れたのが、木造。飛鳥時代は奥、樟(くす)という木材を使用していました。理由は奈良、京都にたくさんあるし、丈夫で彫刻しやすいため。一本の木だけから作り出す「一本造り」のほか複数の木片で作る「寄木造り」があります。ちなみに寄木造りは日本で開発された独自のもの。ジャパンオリジナルな仏像ということです。先の百済観音像も木造、とのこと。
まとめ
突如として現れた、今までとはまるで違う信仰に信仰対象。当時大臣たちの驚きはいかばかりか。政治に利用されることもあったようですが、今現在は鑑賞と信仰の対象です。大部分の仏様と同じく、穏やかな表情、心持ちで鑑賞しましょう。