涙の数ほど俳句を作った松尾芭蕉と「おくのほそ道」

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「おくのほそ道」それは松尾芭蕉が「みちのく」という和歌に詠まれることの多い歌枕(名所)を訪れる紀行文です。時代が変わると旅に出る覚悟も旅の道中も全くと言っていいほど変わってきます。 おくのほそ道の面白さは旅の道中の芭蕉の本気と本音で旅という人生に挑戦していくところにあります。

さすが日本を誇る俳諧師・松尾芭蕉と納得させられる場面もあれば、子供のように不満を漏らしている俳句からは想像出来ない松尾芭蕉もいます。俳句やそれ以外の部分から見えてくる等身大の松尾芭蕉を感じながらおくのほそ道を楽しみましょう。

みちのくを旅した芭蕉から旅の楽しみ方や、芭蕉が見た旅の世界を江戸から最大の目的地とも言われる奥州・平泉までを俳句とともにご紹介します。

人生を歩むことと旅をすることは同じという覚悟

「月日は百代の過客にして 行きかふ年もまた旅人なり」

この芭蕉の人生感からおくのほそ道は始まります。この世の無常を感じた芭蕉が、人生を歩むことと旅をすることは同じではないかという思いに辿り着き、自分の人生を旅に捧げる覚悟をします。命をかける覚悟の重さとは裏腹にリズミカルに流れる言葉の軽快さには、松尾芭蕉のこれから始まる旅への期待や楽しみに胸が躍る様子がうまく表現されています。

覚悟を決めた松尾芭蕉と弟子の河合曾良の歌枕を巡る壮大な旅が始まります。

旅の始まりは友との別れから

「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」 (季語: 行く春/春)

過ぎ行く春と友との別れを惜しみゆく。涙を流しているのは芭蕉や友だけではなく、鳥は鳴き、魚までも涙で目を潤ませて別れを惜しんでいるようだ。

慣れ親しんだ江戸・深川の地と、親しくしていた友との別れに涙を流し、別れを惜しんでいる場面です。

この別れが今生の別れになるかもしれないという芭蕉の思いがこの十七音から伝わってきます。芭蕉を取り巻く全てのものが別れを惜しみ、涙にくれています。芭蕉の言い表すことの出来ない深い悲しみが伝わってきます。 三月二十七日(新暦:五月十六日)の晩春、春霞の向こうに見える富士の山や上野・谷中の桜をまたいつかは見たいと寂しそうに千住をあとにしました。

千住で友と別れを告げ日光街道を進んだ芭蕉と曾良。 日光街道第二の宿場・草加宿に到着しました。

■日光街道・草加宿 ■
日光街道を進み草加宿までやってきました。東京からここまで道が舗装された今でも歩くと2時間はかかります。芭蕉が歩いた時代、この辺りは沼が多く遠回りを強いられたといいます。歩いておよそ3時間、それ以上はかかったことが想像できます。

ここで芭蕉は「痩骨(そうこつ)の肩にかかれる物、まづ苦しむ」と肩にめり込んだ荷物の重さに苦しむ様子を記しています。この辛さは想像出来る辛さだけにこの先の芭蕉の身が案じられます。

■日光山 ■
旧暦3/30(新暦5/18)に日光山の麓に宿泊し、翌日4/1、日光山にて御神体である山々の陽の光に輝く青葉、若葉の尊さを前に歌を詠んでいます。

「あらたふと青葉若葉の日の光」(季語: 青葉若葉/夏)

ああなんとも尊い。日光山の陽の光に輝く青葉や若葉さえも全てが尊い。
神々しい日光山の「日の光」とこの地の「日光」を歌の中にうまく織りまぜています。「あらたふと」の「ああ、尊い。」という言葉から芭蕉がこの地でどれほどの感動を味わったのかが一瞬で伝わります。

日光と言えば東照宮が有名ですが、芭蕉は東照宮については特に触れていません。自然の尊さや古人が訪ねた夢枕の方が興味が注がれたのでしょうか。

現在、芭蕉が訪れた日光男体山の二荒山(ふたらさん)や輪王寺、東照宮は世界遺産に登録されています。荘厳な雰囲気の中、突如現れる建築物は今も訪れる観光客を圧倒させます。

■黒羽■
芭蕉と曾良は、日光から那須の黒羽の知人を訪れるため近道をするも道に迷い、出会った村人に馬を借り助けられています。なんとか黒羽の知人に会うことができ、この地を案内してもらいました。

ここは源平合戦で扇を的に射るという偉業を成し遂げた那須与一ゆかりの地です。近くには修験道のお寺があり、この先続く旅の祈願を役の行者の健脚にあやかりたいと一句詠んでいます。

「夏山に足駄を拝む 首途(かどで)かな」(季語: 夏山/夏)

黒羽地区はおくのほそ道の旅の中で最も長く芭蕉が滞在した場所です。長期で滞在したため、数多くの芭蕉の資料が残っていました。 現在、芭蕉記念館というかたちで多くの資料が展示されています。 ひっそりと佇む記念館はとても落ち着きがあり、芭蕉の歌に耳を傾けるにふさわしい空間となっています。

芭蕉の道も作られ、山の辺の小道を感じさせる風情があり、その先に広がる芭蕉の広場には芭蕉の句がもいくつか建てられています。 歩きながら芭蕉の思い出に浸れる素敵な場所です。

■蘆野の柳■
かつて西行が歌を残した柳の木があると案内されました。 西行と言えば芭蕉が敬愛する歌人です。各地の西行の足跡を辿り多くの歌を残しているほどです。

まず西行が残した歌から見てみます。

「道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ち止まりつれ」

道ばたに流れる清水とそこに立つ柳の木陰に見とれてしまい、ずいぶんここで立ち止まってしまった。

芭蕉は西行の歌に応えるかたちで詠んだ一句です。

「田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな」

早乙女にまじり田んぼ一枚を植えていこう。田んぼ一枚を植え終わったらこの柳の木を立ち去ろう。と詠んだ一句。

しばらく時が止まったようにその場にとどまったという芭蕉は西行が立ち寄った柳の下で西行の歌の世界に引き込まれていました。 柳の木の下で芭蕉は西行と何を語り合ったのでしょう。

いよいよ切ない恋の県・福島を訪ねる

■白河の関■
ようやく白河の関へ到着しました。多くの歌人・文人が憧れ歌を詠んでいる歌枕も地です。三十六歌仙の一人、能因法師もこの地で歌を残していました。

「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」

芭蕉はこの歌を思い出し、能因法師が感じた秋風が自分の耳にも聞こえて来るようだと能因の歌の世界に寄り添っています。

芭蕉が訪れた季節は卯つ木が咲く旧暦四月頃、秋風というよりはむしろ春風が心地よい季節です。しかし芭蕉という人はどういう状況でもその歌に寄り添い古人の思いに耳を傾けることが出来た素晴らしい歌人だったのです。

ここでは弟子の曽良が歌を残していました。

「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」曽良(季語: 卯の花/夏)

かつてこの白河の関を通る時に能因法師の歌に敬意を表し、衣装を晴れ着に変えた古人がいたと言います。
曾良は着替える晴れ着を持ち合わせていなかったため、せめて晴れ着の代わりにバラ科の卯の花を頭にかざし、晴れ着の代用として歌人に敬意を表したという一句です。

この白河の関では関越えを果たした武人を思い、また多くの歌人の歌に耳を傾け寄り添っていたのでしょう。この地は素晴らしすぎて歌を一句も残せなかったと芭蕉は記しています。

多くの先人が戦地に赴くために通り、多くの古人がまたその古人に憧れ歌を詠んだ歌枕の地。文人、歌人にとっても武人にとっても白河の関は神聖な場所だったということが分かります。

■須賀川■
会津磐梯山や安達太良山に囲まれた風光明媚な須賀川までやってきました。 ここでは俳人の等窮(とうきゅう)を訪ねています。 須賀川は昔は俳諧が盛んな地で、芭蕉も等窮もこの地で多くの俳句を残したようです。おくのほそ道にも記されるその中の一句です。

「風流の初めや奥の田植え歌」

「みちのくの田植え歌」を聞き、旅の目的であった風流に初めて出会えた。
喜びの中で詠まれた一句です。

日本の滝百選に選ばれている、芭蕉も訪れた阿武隈川唯一の滝「乙字ヶ滝」。この地で滝の歌を詠んだ芭蕉の句碑があり、芭蕉が見た景色にも会える場所。須賀川には芭蕉記念館があり、芭蕉ゆかりの品々があります。 ゆっくり時間をかけて芭蕉の歌の世界に思いを馳せられる一度は足を運んでおきたい歌枕の地です。

■信夫の里(福島市)■
昔、恋歌によく詠まれた「しのぶもじ摺り」の石を芭蕉もひと目見ようと信夫の里に赴くも、石はただ放置されていて古人の思いにふける事も出来ず、少しがっかりしています。

「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺り」(季語: 早苗とり/夏)

苗代から早苗を取って田植えをする少女の手元は、昔、しのぶ摺りをした人々の手つきと今見ているものと同じだったのか。
はるか昔の歌の世界を想像して詠まれた一句です。

その昔、源氏物語の光源氏のモデルとも言われた源融(みなもとのとおる)も「しのぶもじずり」の歌を残していました。

恋の歌枕として有名なしのぶの地。「しのぶ恋」と「信夫」をかけてこの信夫の地は恋の歌の名所になっていたのです。

現在、「もじ摺り石」は文字摺観音の境内にあり観光スポットとしても賑わっています。秋になると境内を真っ赤に染める紅葉が、切ないしのぶ恋を予感させているようです。 福島県に恋の歌枕が多いと言われる所以はその地名にありました。 「会津」「阿武隈」の「会う」や「しのぶ恋」の「信夫」と切ない恋を引き寄せる地名が多く、一度は福島を訪れ恋の歌を詠んでみたいと歌人や文人達の憧れの県だったのです。芭蕉もそんな思いを胸に訪れたのでしょうか。

■飯塚の里■
ここでは奥州信夫郡に勢力を張っていた武将・佐藤一家を訪れています。
かつて源義経に忠義を尽くし戦士した佐藤兄弟が有名です。佐藤一家の旧跡を訪ね、込み上げる想いに芭蕉が抑えきれず涙を流した歌枕の地です。

「笈も太刀も五月に飾れ紙幟(かみのぼり)」(季語: 紙幟/夏)

義経の太刀や弁慶の笈も紙幟と一緒に飾って欲しいものだ。
佐藤兄弟を偲び、義経・弁慶を思い詠まれた一句です。
芭蕉の二人への並々ならぬ思いが伝わる一句です。その思いからこのおくのほそ道が始まったのでしょう。

そんな思いをよそに、5/1芭蕉と曾良は飯塚の里で眠れない一夜を過ごしていました。
温泉のお湯に浸かり帰った宿でこのように漏らしています。

「土座に莚(むしろ)を敷きて、あやしき貧家なり」

この日は雨が降っており雨漏りで眠れない。さらに蚤や蚊に刺されて眠れない。疲れを癒すどころか逆に眠れず持病の腹痛まで起こし苦しみと不安の中で覚悟を決めてこんな事も言っています。

「道路に死なん これ天の命なり」

死ぬ覚悟で旅に出たのだから道ばたでのたれ死んでも仕方がない。 それほどまでに壮絶な一夜を過ごしていたのです。 長旅の疲れを癒せず、二人は仙台を目指し旅を続けます。

■笠島/武隈の松■
二人は宮城県に入りました。雨が多い梅雨の時期です。雨にぬかるむ歩きづらい道を歩きながらも五月雨の季節を楽しんでいます。 ここではかつて奥州に流された中将・藤原実方のお墓を訪ねています。 白石市の城下町でもこの藤原実方を訪ね、歌人として芭蕉には魅力的な古人だったのです。 岩沼市では歌枕で有名な武隈の松を見て目が醒めるほど素晴らしいと感動しています。

「武隈の松見せ申せ遅桜」挙白

「桜より 松は二木を 三月越し」芭蕉

芭蕉の弟子の挙白の贈答歌です。まずみちのくの遅桜に語りかけています。芭蕉がそこに着く時にはみちのくの遅い桜でももう散っていることでしょう。せめて武隈の見事な松を見せて差し上げてくださいという一句です。
その思いが通じたのか、芭蕉は見事な二木の松を見ることができ感嘆しています。

旅に出てから早、3ヶ月やっとの思いで二木の松に会えたよという思いと、二木の松が3ヶ月経っても自分を待っていてくれたという芭蕉の思いが溢れ出た一句になっています。

五月雨の中二人の旅は続きます。

名取川を越え伊達政宗ゆかりの地・仙台までやってきました。 もう五月も端午の節句の時期になりました。ここでは端午の節句にちなみ歌を詠んでいます。

「あやめ草 足に結ばん草鞋の緒」

あやめ草(菖蒲)を草鞋の緒に結び旅の健脚を守って欲しいという思いで残した一句です。

■松島■
日本三景の松島。月が美しい事で有名ですが、芭蕉もまた松島は日本一の美観の地、月がのぼり海に映るさまは昼間と違う趣があると記しています。松島を取り巻く全ての自然に共感し、最後は言葉では表すことができないとあの芭蕉でさえも言葉を失うほどの美しさだったです。

松島で過ごした宿は、部屋の窓を開けると松島の景色が一望出来るという絶景。その中で芭蕉はゆっくり旅の疲れを癒したのでしょう。

「松島や 鶴に身を借れ ほととぎす」曽良(季語: ほととぎす/夏)

壮観な松島をほととぎすが飛んでいるが、この松島には鶴がふさわしい。ほととぎすよ、鶴の身を借りてこの松島を渡ってくれ。
曾良が詠んだ一句です。 芭蕉はここでも松島のあまりのうつくしさに心を奪われ歌を作る事ができなかったと記しています。

二人は、伊達家の菩提寺「瑞巌寺」も訪ねていました。瑞巌寺では金碧障壁画や仏前の光り輝く飾りを前に芭蕉はこの世の極楽浄土だと賞賛しています。

現在も国宝瑞巌寺の山門をくぐると両脇を見事な杉の木が迎えてくれます。内装は豪華絢爛、本堂内部の金碧障壁画は長谷川一門が手がけ、仏前などは狩野派が手がけた贅の極みです。芭蕉の極楽浄土という言葉もこの光景を前にするとうなずけます。

松島をあとにし、二人はおくのほそ道最大の目的地・平泉を目指します。ところが平泉に行く途中、歌枕を求めに行った先で道に迷い石巻の港に迷い込みました。みちのくの地にこのように拓けた港町があるのかと思いがけない光景にまた感動していました。

義経終焉の地、いざ平泉へ

■平泉■
平泉こそが芭蕉がおくのほそ道の旅に出る最大の目的だったと言われています。平泉は平安時代、藤原一族が三代にわたり100年の栄華を誇った地。源義経が人生の一時を過ごした場所、それも人生の大事な時期に二度もこの地にかくまわれ過ごした場所です。最後を異母兄である源頼朝に追い詰められ、味方だったはずの藤原泰衡の裏切りに合い妻子と平泉で自害しました。

1683年には仙台藩主が義経を悼み、小高い丘の上に義経堂と呼ばれるお堂を建て、今でも義経はここに安置されています。この高館からの眺めを芭蕉も見ています。平泉随一の眺めを前にあの有名な一句が生まれました。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

いまではもう何もなくただ夏草だけが覆い茂るばかりだが、かつてこの地は藤原一族が栄華を誇った場所であり、頼朝に追い詰められた義経主従が最後までともに戦った場所である。全てが一炊の夢と消え、今はその跡地だけが残されている。 芭蕉のこの十七音からは芭蕉が見た平泉の景色が即座に想像できるまさに名句です。そしてかつて栄華を誇ったきらびやかな藤原一族の世界、義経達の激しい剣の音までも響き渡ります。

「五月雨の 降り残してや 光堂」

周りのすべての建物が五月雨により朽ち果てていく中、この光堂だけは今もなお光り輝いている。この光堂だけは五月雨も降り残しているようにさえ思える。

おくのほそ道の最大の目的地の平泉で芭蕉は千年の歴史を偲び、義経や弁慶・藤原一族の栄華を誇った歴史の世界に寄り添っていたのでしょう。

芭蕉は「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」と平泉の地を偲び、時の経つのも忘れ涙を流していました。

芭蕉が見た悲しいまでに朽ち果てた平泉の地も今では世界遺産に登録され、多くの人々が行き交う観光名所になりました。
ここを訪れた芭蕉も名俳諧師となり、義経を祀る義経堂・藤原三代の栄華を誇った絢爛豪華な建造物とともにおくのほそ道と芭蕉もともに語りつがれてきました。 芭蕉がおくのほそ道を執筆した時には想像もつかない世界が今の平泉にはあります。

江戸・深川からみちのく平泉まで芭蕉が旅したおくのほそ道を芭蕉の俳句とともに紹介しました。
旅のなか感動のあまり歌が詠めない、こみ上げる涙をおさえられない、そんな場面がいくつもありました。この先も山形から日本海沿いを北陸、敦賀、大垣を最後に数多くの歌とともに感動を残しています。

おくのほそ道には等身大の松尾芭蕉が存在し、涙の数だけ歌を残し、芭蕉の感動が読み手にも同じように感動を呼んでいます。

おくのほそ道が時代をこえて楽しめるのは、いつ死んでも幸せだという芭蕉の思いが旅の随所で感じられ、そこに松尾芭蕉の本音と命をかけて旅をした本気を感じるからでしょう。
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