仏像

京都一の荒れ寺を復興させた 楽しげに微笑む1200羅漢の石像 京都 ―愛宕念仏寺―

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「仏女」と名付けられる女性が増える昨今、仏像好きの人々が増え、一定の固定ファンを獲得しています。なぜ人気なのか?喜怒哀楽さまざまな表情や配置、組み合わせの意味など、気になる魅力は色々とあります。昔の仏像に現代の人が興味を惹かれるのは、各時代の人々の切実な思いが時を超えてきたことを感じさせるからです。歴史を重ねても残されてきたものには、それだけ多くの人の想いが詰まっています。今回は愛宕念仏寺の「1200羅漢の仏像の想い」を特集しました。

安らぎと救済を求める人々に人気の奥嵯峨野の愛宕念仏寺

京都の奥嵯峨野にある愛宕念仏寺。この寺は8世紀中頃に聖武天皇の娘の称徳天皇によって建立されました。しかし、災害などによって何度も興廃を繰り返し、1922年には現在の地に場所を移して、復興を目指しましたが叶わず、荒れ果てた状況のまま数十年の年月が過ぎていきました。

そんなときに復興のために尽力したのが“最後の仏師”と呼ばれた西村公朝という人物です。1200体もの珍しい石像をつくって寺を復興させ、海外から訪れる仏像に興味のある観光客からも注目されています。時にシンセサイザーの音が響く境内には豊かな表情の石像がズラリと並んでいます。ひとつずつゆっくりと見ていくと、あることに気づきます。恐い顔で怒っている石像はなく、どれもがニコニコと楽しそうにしています。

ここは京都の中心地からかなり離れた愛宕山参道の山麓の入口に位置しており、最近では海外のガイドブックに掲載され、交通の便が悪くても、外国人に人気のスポットになっています。

脚光を浴びることとなった弥勒菩薩半跏像の修復

愛宕念仏寺を復興させた西村公朝氏は、ある事件によって名前が知られるようになります。それは、弥勒菩薩の美しさに魅せられた大学生がキスをしようとして、誤って指を折ってしまうという出来事でした。日本の国宝第1号に指定された広隆寺・弥勒菩薩半跏像の指が折られたことは報道でも大きく取り上げられました。その修復を任されたのが公朝氏でした。そして高い技術力によって1週間で元通りにしたのです。この出来事によって公朝氏は、広く世間に知られることとなり、様々な依頼を受けるようになりました。

愛宕念仏寺は、当時、境内の至る所に雑草が生い茂っている状況で、京都一の荒れ寺と呼ばれていました。本堂に安置されているはずの仏像は、ここに住んでいた人が生活苦のために売り払っており、さらに、本尊である千手観音像は腕を切り売りされている状況で、42本あった腕は4本しかありませんでした。

そんな状況の寺を任された公朝氏は、住職になるかどうか迷ったそうですが、清水寺の当時の貫主だった大西良慶氏から「良い寺を悪くしたら怒られるが、荒れ寺なら少しでも良くしたら褒められるだろう」という激励を受け、引き受けることを決心したのです。

愛宕念仏寺復興につながった1200羅漢づくりと人々の祈り

愛宕念仏寺復興への手始めとして、公朝氏は、まず本尊の修理に取りかかりました。修理を行うにあたって仏像を新品のように真新しくするのではなく、昔の漆を使用することで現状の仏像が纏う雰囲気などを壊さずに復元するということと、経年変化にも気を配りました。「現代の材料を仏像の修理に使うと、それが何十年、何百年経ってどう変質するか分からない。そのため自分は〈こくそ漆〉など昔からのものを使う」と公朝氏は言っていたそうです。

仏師であるだけに仏像修復や仏像づくりを行うことはできますが、資金づくりと人手を集めることは困難でした。そんなときに公朝氏が辿り着いたのが「仏師でなくても祈る気持ちさえあれば、誰でも仏像を作ることができる」という考えでした。希望者が石像を彫るための直方体の石を買い取り、教えてもらいながら自身で彫ると、寺に奉納できるという仕組みを考案したのです。1981年に募集を行うと、全国から希望者が殺到しました。

現代の家系は3代も続くと先祖の名前は忘れられ、住んでいた家もなくなってしまうところが多いそうです。そんな時代に自分の彫った石像が、ずっと置いてもらえるというのは、とても魅力的な取り組みでした。

500体の制作はわずか一年間で完了。しかし、その後「彫りたい」という声がさらに全国に広がり、追加で700体が彫られ1200体の石像が境内に並べられることになったのです。

ユニークで様々な表情が見られる石像が並ぶ特別な空間

石像は酒を酌み交わしているものもあれば、動物と一緒のもの、テニスラケットを持っているものなどユニークなものも数多く見られます。一体ずつに個性があり、どの石像もそれぞれにオーラをまとっているように見えます。苔むした石像によって、お寺がアートになっている特別な空間です。しかし、奇をてらったというよりも、厳かな雰囲気を湛えています。

これらの仏像の制作を手伝われたのが、公朝氏の息子である公栄氏でした。公朝氏は、修復の仕事で全国各地に出かけることが多く、公栄氏が手助けをすることになったのです。

公栄氏は彫刻については素人だったため、指導するのも大変で、凹凸の多い構図などは難しかったそうです。それでも、丁寧に様々なアドバイスを行い、制作者は思い思いに石を削って、自分だけの石像を作っていきました。また応募者には花街の女性も多くいたそうです。様々な人々の想いがそれぞれの石像に込められているからこそ、この念仏寺は、異彩を放っています。愛宕念仏寺には、このほかにも目の不自由な人のために触ることのできる「ふれ愛観音」も設置。そして、公朝氏がデザインした「三宝の鐘」は、3つの音色が「仏、法、僧」の心を伝えており、順番に鳴らしていくと仏の心がこだましていくように感じます。

やがて、石を刻んで石像の奉納を行った人が全国から毎年定期的にお参りに訪れるようになったため、寺は活気を取り戻しました。このように仏像には時代を超え歴史を重ねた人々の「想い」がつまっています。このような歴史や背景を知ることが仏像の楽しみ方の基本ではないでしょうか。
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