世界史

チリ人ピアニスト クラウディオ・アラウの生涯

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 クラウディオ・アラウ(1903-1991)というピアニストの名をご存知でしょうか。南米チリというクラシック音楽の中心地ヨーロッパから遠く離れた地に生まれたアラウ。その天才はやがて海を越え、ドイツやアメリカを中心に年間100近いコンサートを開き、多くのすぐれた録音を後世に遺しました。しかし、二度の世界大戦、そして天才ゆえの悩みの中で歩まれたアラウのピアニストとしてのキャリアは決して苦難なきものではありませんでした。

 幼少期から類稀なる音楽的才能を開花させ、「チリのモーツァルト」と謳われた天才少年が、世界の巨匠となるまでの歴史を、彼を取り巻く社会の雰囲気とともに紹介します。(この記事はHorowitz J. (1999)Arrau on music and performance を参考にしました。文中、アラウの発言として引用されているのは、この文献からのものです。)

1. 幼少期(1903-1911)「チリのモーツァルト」クラウディオ・アラウ

 アラウが生まれたのは1903年、チリのチリャン(Chillan)という町。チリの首都サンティアゴからは南に400kmほど離れた町です。チリのスペインからの独立(1818)において中心的な役割を果たした、チリの「建国の父」ベルナルド・オイギンス(1776-1842)はこのChillanの出身です。

 クラウディオの父方の先祖がスペインからチリに渡ったのはロレンツォ・デ・アラウ(1740-1781)の時代。この時にアラウ一族はChillanの土地を与えられました。クラウディオの父カルロスは、眼科を専門に地域の医者として活躍し、町の人々からは尊敬を集め、アラウ家はChillanの名望家でした。しかし、カルロスはクラウディオが1歳のときに亡くなったため、クラウディオには父親の記憶がありませんでした。カルロスの葬儀には多くの人が参列したといいます。

 クラウディオの母方の先祖は、スペインにルーツを持ち、18世紀のはじめにチリにやってきた、とクラウディオ自身が語っています。母ルクレツィアは、アマチュアのピアノ講師でした。クラウディオの姉は、母のもとピアノを習っていました。

 アラウ少年は、早くからピアノへの情熱と天才を示しました。クラウディオは、母のピアノを聞くうちに楽譜の読み方を習得し、言葉を覚えるよりも先に音楽覚えたといいます。1909年に書かれたサンティアゴの音楽雑誌の記事『チリのモーツァルト、クラウディオ・アラウ・レオン』には、新しい楽譜を見せられると「これはリストのだ!」とその作曲家を当てたり、もらった楽譜を転調することに興じたりと、無邪気な神童アラウの姿が描かれています。彼が幼いころに示した天才的な譜読み技術はのちに、広いレパートリー、深い楽曲分析というアラウの強みの基礎となります。アラウ自身は当時を振り返って「口を開けながらピアノを弾いていたね。母がそこに食べ物を入れてくれるんだ。僕は音楽に夢中だったから、ほとんど気づかなかった。」と語っています。文字通り寝食を忘れるほど、アラウ少年はピアノにくっついて離れないのでした。

 父レオポルドに連れられて各地で演奏をおこなったアマデウス・モーツァルトのように、クラウディオ少年も母に連れられて王侯貴族を前に各地で演奏を行い、神童の名を恣しいままにしました。やがて、神童はChillanの町を飛び越え、1911年、サンティアゴでのリサイタルを皮切りに、ブエノスアイレスを経てドイツへ向かいました。

<当時の出来事>
1906 年 チリで大地震
アラウは3歳のときに被災。3800人以上が犠牲になった。日本でも津波が観測された。

2.師との出会い(1911-1918)

 アラウはピアノを独学で学んでいました。また、ピアニストになってからも、他人に影響されず、自立することを重んじました。そんなアラウが唯一師として仰いだのが、ベルリンで出会った、マルティン・クラウゼ(Martin Krause、1853-1918)でした。クラウゼはリストの弟子であり、批評家および教育者として一目おかれる存在でした。彼の門下にはエトヴィン・フィッシャーをはじめ、優れたピアニストが集まっていました。クラウゼはアラウを見込み、無償でアラウの教育を引き受けました。初めてアラウがクラウゼの前で演奏をした時、クラウゼは「この子はわが傑作となるだろう」と言ったといいます。

 アラウはクラウゼのもと、ほぼ住み込みの状態で1日7~8時間ピアノの練習に打ち込みました。父を知らないアラウにとって、クラウゼは厳しい師匠であり父のような存在でした。クラウゼは、11歳のアラウにリストの難曲『超絶技巧練習曲集』を課したり、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』を転調させて弾かせたり、コンサートのときよりも10倍の速さで弾かせたりと、独自の教育法でアラウを鍛え上げました。また、学校に通わなかったアラウが一般教育を受けたのも、この時期のことでした。

 鍛錬の甲斐あってか、アラウはクラウゼのすぐれた生徒たちの中でも頭角をあらわし、1914年にはベルリンデビューを果たします。その後のコンサートも上々の評判を得て、アラウのピアニストとしてのキャリアはバラ色かに見えました。しかし、1918年にクラウゼが死去すると、アラウは苦難の時期を迎えることとなるのです。

<当時の出来事>
1918年 スペインかぜ大流行
 マルティン・クラウゼの命を奪ったのは、当時猛威を振るっていたスペインかぜでした。スペインかぜは全世界で5億人が罹患し、5000万~1億人が命を落としたといわれています。スペインかぜで亡くなった著名人としては、マックス・ウェーバー、グスタフ・クリムト、島村抱月、辰野金吾らが挙げられます。

3. 苦難と飛躍(1919-1927)

 クラウゼの死はアラウに経済的にも、精神的にも打撃を与えました。のちにアラウはクラウゼの死は「この世の終わり」だと思ったと語っています。アラウは師クラウゼへの忠誠を通し、あらたに別の師を持つことはありませんでした。

 クラウゼのコネを失ったアラウは、コンサートの機会に恵まれなくなり、1921年にはチリ政府からの奨学金が失効、戦争とそれに続くハイパーインフレーションによって、一時はひどい貧乏生活を強いられました。1923年から翌年にかけてはアメリカでコンサートツアーをおこない、好評を得るものの、思ったほどの成功は得られず、最後はかろうじてドイツに戻るという有様でした。アラウ自身もこのアメリカツアーは “fiasco”(大コケ)だと語っています。

 アラウは1920年後半にいくつか録音を行っていますが、これも生活のためにやむをえずしたことだったとアラウは言います。当時のSP録音では収録時間に制限(4~5 min./枚)があるため、楽曲の短縮、改変、速いテンポなどを強いられましたが、アラウはそれを許せなかったのです。

 このような苦難はありましたが、1920年代のアラウは、ロンドンデビューにベルリンフィルとの初共演、各種コンクールでの入賞、初の録音活動など、表向きでは実績を詰んではいました。しかし、父とも言える存在だったクラウゼの死は、アラウに精神的な危機をももたらしました。危機を乗り越える上でアラウが頼ったのが、ユングの心理学、とくに精神分析でした。当時の状況についてアラウが端的に述べている部分がありますので、少し長いですが引用します。

師のマルティン・クラウゼが亡くなった15歳の時から、20歳になるまで、私は生涯で一番困難で不幸な年月を過ごしました。練習は続けました。リスト賞は16歳、17歳の時、連続で獲得しました。しかし、死について考えない日はほとんどありませんでした。そして、20歳か21歳のとき、初のアメリカツアーを終え、ベルリンに戻った後のことですが、私は立ちはだかる苦難の険しさに圧倒され、そこでやめてしまおうかと思いました。しかし、一人の友人が助けてくれました。その友人は、エドウィン・フィッシャーが演奏を続ける上で、いかに精神分析が役立ったかを小耳にはさんでいたのでした。[…] フィッシャーは、クラウゼのとても有名な兄弟子でしたので、私も精神分析医のところに行ってみることにしたのです。[…] (アラウの精神分析医の)教えや助けは私に新しい窓を開いてくれ、最終的には自分の夢を解釈することもできるようになりました。[…]  30年以上もの期間、精神分析は、個人的な心理のジャングルを拓き、創造力を十二分に発揮するうえで、役立ちました。
(A Performer Looks at Psychoanalysis)

 アラウ自身が書いているように、精神分析の経験は彼のピアニストとしての成長をもたらしました。アラウは精神分析による内面理解を通じて、無意識的な神童から意識的な音楽家へと飛躍を遂げたのです。

<当時の出来事>
1921-24年 ドイツのハイパーインフレ
 ドイツは1914年、第一次世界大戦の戦費を賄うために、金本位制を離脱しましました。敗戦後のヴェルサイユ条約で請求された巨額の賠償金支払いが始まると、ドイツの貨幣(マルク)の信頼は急激に落ち込み、外貨獲得のためのマルク増刷がインフレに拍車をかけました。そして1923年のフランス・ベルギーによるルール占領後の労働者ストライキが決定打となり、マルクの価値は1918年の1兆分の1、紙切れ同然となりました。インフレは、1923年11月のシュトレーゼマン内閣による通貨改革、すなわち新通貨レンテンマルクの発行によって収束に向かいました。レンテンマルクと、紙切れ同然となったパピエルマルクとの交換レートは1:1兆というものでした。1924年には別の新硬貨ライヒスマルク(Reichsmark)が発行されました。

4. 国際的ピアニストへ(1927~1989)

 クラウゼ死後の困難な時期にあっても、コンクールでの優勝をはじめ、着々とキャリアを築いていたアラウでしたが、1927年のジェノバ・コンクールでの優勝は心理面でのブレイクスルーとなりました。なお、アラウに一等を与えた審査員の一人は、大ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインでした。

 内的な危機の末、神童から音楽家へ脱皮を果たしたアラウは、1930年代以降、精力的に活動しました。1935-36年シーズンには、バッハの鍵盤曲のほとんどを網羅した、バッハ・チクルスを成功裏に弾ききっています。ほかにもモーツァルトやシューベルトの全曲演奏に取り組むなど、超人的な体力と記憶力で、幅広いレパートリーを弾きこなし、ドイツでの名声を確固たるものとしました。私生活では1937年に結婚をし、子宝にも恵まれました。 

 1940年、アラウはファシズム吹き荒れるドイツを離れ、アメリカに拠点を移します。ナチス台頭後もしばらくドイツにとどまった理由として、アラウ自身は「ナチスが上手くいくとは思わなかった」、「ドイツで満足な名声を得るまでに時間がかかった」を語っています。

 アメリカには一度痛い目にあわされたアラウでしたが、1941年のコンサートは好評を博し、アメリカの主要オーケストラとの数々の共演を実現するなど、またたくまにアメリカ楽壇の寵児となりました。その結果、アラウの演奏生活は多忙を極め、全盛期には年に100を超える数のコンサートを開くという、超過密スケジュールも珍しくありませんでした。録音活動にも積極的で、1960年代のベートーヴェンのソナタ全集や、1970~80年代のショパンやリストは、いずれも名盤として聴き継がれています。また、1976年にはアムネスティ・インターナショナルのために、バーンスタインとともに演奏しています。

 こうした活躍のなかで、アラウはいつしかチリの国民的英雄として見られるようになっていました。アラウ自身は、「ドイツ人だけがベートーヴェンを弾けるのだ」といった、ナショナリズムを嫌い、世界市民であろうとしました。チリ政府から奨学金を受給していた恩義もあって、チリ市民であり続けたアラウでしたが、1973年のクーデターによってピノチェト(1915-2006)が独裁政権を築くと、アラウはこれを嫌って1979年にアメリカ市民権を得ています。1984年にアラウはチリで凱旋コンサートを開き、チリ国民を熱狂させましたが、これはアラウにとって実に17年ぶりの帰郷でした。

<当時の出来事>
1973年 チリ軍部クーデター
チリでは1970年、アジェンデ(1908-1973)をトップとした社会主義政権が誕生しました。アジェンデ政権は、史上初の選挙による社会主義政権でした。農地改革や鉱山の国有化を進め、外交では第三世界との連携を強め、キューバとは国交を回復させました。しかし、アジェンデの社会主義政権はアメリカの反発を招き、1973年、アメリカの支援を受けて軍部がクーデターをおこしました。代わって政権を握ったのがピノチェト(1915-2006)。彼は、軍部による独裁をおこない、1988年の国民選挙に敗れるまで恐怖政治を続けました。

5.晩年(1989~1991)

 アラウには「晩年」はほとんどありませんでした。アラウは年とともに演奏を深化させ、精力的に活動を続けたからです。1989年に妻を亡くしたアラウは、翌年、50年近く暮らしたニューヨークを離れミュンヘンに移り、演奏をほとんど行わなくなりました。そして、1991年の6月9日、アラウは88年の生涯を閉じました。葬式はチリで厳かにおこなわれ、Chillanの町は悲しみに暮れたといいます。

<当時の出来事>
1990年代 巨匠ピアニストの一時代が終わる。
アラウが亡くなったのと時期を同じくして、20世紀を代表する大ピアニストもまた、この世をさりました。ウラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989)、ルドルフ・ゼルキン(1903-1991)、アラウが尊敬してやまなかったヴィルヘルム・ケンプ(1895-1991)、彼ら20世紀初頭の文化に触れた芸術家たちの相次ぐ死去は、ピアニストの一時代の終焉を象徴するものでした。指揮者の世界でも、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)とレナード・バーンスタイン(1918-1990)の二大巨星が堕ちました。21世紀は巨匠不在の時代と言われることもあり、新たな時代を迎えています。
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