仏像

宇宙と哲学の体現者、その名は梵天!ガチョウで見分ける!

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かつて、ネット上で『五億年ボタン』なる作品が発表されました。
CGで合成されたと思しきキャラクターによる漫画なんですが、その内容のインパクトから話題を呼んだものです。「ほんの一瞬、ボタンを押すだけで100万円がもらえる」という話を聞いた主人公。友人がボタンを押し、次の瞬間には100万円を手にしたことから「じゃあ・・・」と軽い気持ちでボタンを押します。しかしオイシイ話なんてそうそう転がっているものではありません。「五億年ボタン」はその名の通り、押した瞬間別次元に送り込まれて、そこで五億年間を過ごさなくてはならないのです。行けども行けども何もない真っ暗な空間で、年を取ることもなく、眠りが訪れることもなく、死ぬこともない。最初は後悔し、一人遊びをし、遂には何も考えなくなった主人公ですが、突如哲学的な思考、問題に取り掛かり始めるのでした・・・。

仏教の立役者?お釈迦様を後押しした「梵天勧請」

凡人だと最初は「早く五億年経って!」となるところですが、仏門の高僧ともなればこういった空間の方がむしろ理想なのかもしれません。

お釈迦様も苦行、瞑想の挙げ句に悟りを得られました。ある意味で仏教の立役者ともいえる神様がいます。その名は梵天(ぼんてん)。インドではブラフマーと呼ばれる神様です。司るのは宇宙の真理。どえらいスケールの大きなものを神格化したものです。そんな梵天がインドでブラフマーと呼ばれていた頃、一人の僧侶が苦労の果て悟りを開きました。お釈迦様です。

菩提樹の下で悟りを開いたことは有名ですが、これが「仏教」につながったのにはブラフマーの働きがありました。「真理を悟ることは悟った。しかしあまりにも壮大すぎる・・・このまま入滅(死ぬ)の道を選ぶもよかろう」と覚悟を決めたお釈迦様の前に現れて、語りかけます。「まだ入滅は早い。それより、お前が悟ったその真理を人々に伝えなさい。そして救いなさい」他ならぬ宇宙の真理、ブラフマーのお告げです。お釈迦様も悟りに至るまでの苦労があったため、「それはもっともだ」と立ち上がりそのお告げを受け入れます。以降は苦しんでいる人々の救済のため布教活動を始めるのでした。これが「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」と呼ばれる逸話です。

何故お釈迦様の前に現れた理由とかといえば、やはり宇宙の真理そのものであるからでしょうが、当時幅を利かせていたバラモン教で最高位だったからかもしれません。ヒンドゥー教では苦行者に恩恵を与えるともされているため、その辺りが混ざっての伝承の可能性もあります。

元宇宙の創造神。仏教では天部のトップ

何にせよ「天」という、「仏の位」としては下位に属しますが、お釈迦様の背中を押したという点では功労者ともいえます。ブラフマー、もしくはブラフマンは梵と略されますが、元は帝釈天(元インドラ)と並ぶインドの最高神でした。宇宙を作り上げた創造神でもあるのに、仏教においては天部。一番下の位になったことで何だか「格下げ感」があるかもしれませんが、実は天部のトップでもあるんです。住んでいるのも須弥山の山頂である?利天(とうりてん)。人間で言えば高層マンションの最上階と言ったところでしょうか。こちらに、インド神話時代からの仲間帝釈天共々住まい、仏法を守っているわけです。須弥山です。こちらでは帝釈天のことしか書かれてませんが、梵天もいるんですよ。

帝釈天との見分け方・初期編

インドではあまりインドラとの絡みはなかったようですが、仏教や密教では大概対として祀られます。東寺でも片や東、片や西に置かれるなど対なる存在を思わせます。「どこで見分けるの?」と言われたら、密教以前の梵天は人間と同じく顔が一つに腕も二本。服装も武装した帝釈天(阿修羅と戦う程に武勇の面では優れていたようです)と異なり中国風。元々が「宇宙の真理、哲学」という壮大なスケールの神様にしてはいかにも人間的なスタイルなためすぐわかります。それが密教以降は帝釈天同様に武装するように。

愛知県瀧山寺。観音様の脇侍。腕も顔もいっぱいですけど、向かって右が梵天。武装はしてませんね。1201年、運慶作との説あり。
興福寺。帝釈天は武装している他、手に金剛杵(こんごうしょ)という武器のようなものを持っています。梵天、帝釈天共にこの結い上げた髪型が特徴。
秋篠寺の梵天像。鎧っぽく見えますけどね・・・。

帝釈天との見分け方・ガチョウ編

「じゃあ、どうやって見分けるの」と言われたらガチョウです。
像によっては一話、或いは四羽ほどですが、とにかく武装していて(していない場合もありますが)ガチョウに乗っている仏像があったら、それは梵天です。東寺の梵天。ガチョウに乗るのは梵天様のみ。

「で、何でガチョウ?」厳密には梵天の乗るガチョウは「ハンサ」と呼ばれる白い鳥で、古代インドでは聖鳥とされてきました。純粋なる神の知恵を象徴するこの鳥が宇宙の真理を司る神の乗り物となったのもうなずける部分はあるでしょう。神聖な取りに乗ると言う伝承そのまま仏教に取り入れられたものと思われます。ただ厳密には「ガチョウ」ではなく「インドガン」という別の鳥ではないかとの説も存在。というのも、ハンサが神聖視されるのは、その羽ばたきがブラフマー(真理)へ到達するという考えから来るものらしいんですが、ご承知の通りガチョウは飛べません。サンスクリット語で「ガチョウ」を意味するのでは、とのことでガチョウに乗る像が多く作られているようなのです。

もっとも考えようによっては「飛べない鳥が飛ぼうとするくらい、真理への到達は難しい」ということかもしれませんが。「いや、インドガンて説があるから」と言われるでしょうが、そう言った解釈もアリなんじゃないでしょうか。

身近な「ぼんてん」といえば・・・

壮大なる宇宙から一転、身近な者にも「梵天」の名を持つものがありました。耳かきについているフワフワのあれですね。一見仏教と関係ないようですが、一説には修験者が着けていた梵天袈裟なる修行着が関係しているとのこと。この袈裟には耳かきのあのフワフワした飾りと同じような房がついていたそうです。一気に身近なものに感じられませんか?遠ざかったり近づいたり。それが真理というもの?

まとめ

先の五億年ボタンの話で主人公は哲学的な悟りを得ますが、五億年の経過とともに記憶はリセット。
時空感もボタンを押した直後に戻っていました。「ラクして稼ぎたい」という気持ちが根底にあるため折角の悟りもゼロになってしまったとも見られます。

何事も一側面からでは測れない。そんな気持ちを起こさせる作品でした。お釈迦様に道を示したものの、一見降格のようにも思われる「天部」の身分。これはともすれば、守護する立場となることで自分が「教えを説け」といった責任の意味もあるのかもしれません。

また別の考えをすれば、如来や菩薩の脇侍として祀られることも多いのも、天部のトップというだけではない気がします。何せ宇宙の真理、哲学の体現者。衆生を救う仏たちのそばに控えているのは、必然でもあるのです。大いなる宇宙の意思の体現者。それだけで、何だか頼もしく思えませんか?「間違わないのがいい」というのではありません。お釈迦様は悟りを得るまで何度も苦行をし、「魔」とも戦いました。

「この修行間違ってるんじゃあ」と思うこともあったでしょう。しかし悟りを開いたら真理であるブラフマーが現れた。「何事も信念を持って正しくやれば道が開けることもある」。五億年ボタンとの違いはそこにあるのかもしれません。もっとも、何が本当に正しいのかなんて、人間、特に凡人には分かりませんし、正解は一つじゃないのかもしれませんけどね。
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