<米国初代大統領>ジョージ・ワシントン 最後の挨拶
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アメリカ独立戦争の勇士にして、アメリカ合衆国初代大統領となったジョージ・ワシントン(1732-1799)。その名は「桜の樹」の伝説や、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.の名前などとともに、日本でも広く知られています。
ワシントンが大統領についた1789年という年、アメリカは依然国家としての方向付けを模索していました。また海外ではフランス革命の火花が散り、イギリスとの関係も不安定なまま。ジョージ・ワシントンは、アメリカ初代大統領として難しい舵取りを強いられました。
しかし、ワシントンは政敵たちにもめげず大統領の職を務め、周囲の要望に背中を押されながら、結局2期8年にわたってアメリカのリーダーを務めきりました。
1796年、3期目の大統領選挙を控えたワシントンは、アメリカ国民へのメッセージを残し、引退を宣言します。そのメッセージとは32ページにわたる「最後(別れの)の挨拶」(The Farewell Address)。この文書でワシントンは、彼のいないアメリカに不安を抱く国民に向けて、アメリカが国として発展するために何が必要か、そして何を避けるべきか、といった指針を示しています。ワシントンの「最後の挨拶」は当時の政治状況を反映したものでありながら、のちのアメリカ政治の羅針盤となるとともに、現代にも通ずるような普遍性を持ったメッセージを含む、アメリカ政治史の一つの重要なドキュメントです。
この貴重な歴史の記録であるワシントンの「最後の挨拶」の内容とその背景を紹介していきます。
ワシントンが大統領についた1789年という年、アメリカは依然国家としての方向付けを模索していました。また海外ではフランス革命の火花が散り、イギリスとの関係も不安定なまま。ジョージ・ワシントンは、アメリカ初代大統領として難しい舵取りを強いられました。
しかし、ワシントンは政敵たちにもめげず大統領の職を務め、周囲の要望に背中を押されながら、結局2期8年にわたってアメリカのリーダーを務めきりました。
1796年、3期目の大統領選挙を控えたワシントンは、アメリカ国民へのメッセージを残し、引退を宣言します。そのメッセージとは32ページにわたる「最後(別れの)の挨拶」(The Farewell Address)。この文書でワシントンは、彼のいないアメリカに不安を抱く国民に向けて、アメリカが国として発展するために何が必要か、そして何を避けるべきか、といった指針を示しています。ワシントンの「最後の挨拶」は当時の政治状況を反映したものでありながら、のちのアメリカ政治の羅針盤となるとともに、現代にも通ずるような普遍性を持ったメッセージを含む、アメリカ政治史の一つの重要なドキュメントです。
この貴重な歴史の記録であるワシントンの「最後の挨拶」の内容とその背景を紹介していきます。
1. ワシントンが「お別れ」を決意するまで
ワシントンは「最後の挨拶」のなかで、3期目の立候補をしないこと、すなわち引退を宣言します。もっとも、ワシントンが引退の意志を示すのはこの時が初めてではありませんでした。ワシントン自身は1期目を終えた時点で大統領職を退くことを望んでいたのです。ワシントンが初代大統領として1期目を満了する1792年、彼は、彼の側近でのちに大統領となるジェームス・マディソン(1751-1836)の協力を得て、すでに「最後の挨拶」の草稿を書いています。しかしこの草稿が世に出ることはありませんでした。というのは、当時のアメリカ政治は党派抗争が激化しており、ワシントンが大統領の職を降りることで両者の衝突が表面化することが懸念されていたためです。
こうして、さらに4年の歳月を大統領として過ごしたワシントンは、1796年、4年前の草稿をもとに、アレクサンダー・ハミルトン (1755/1757-1804) に意見を求めながら、「最後の挨拶」の原稿をまとめました。この文章はフィラデルフィアのAmerican Daily Advertiserに掲載され、さらにパンフレットの形で頒布され、広くアメリカ国民の目に触れました。
こうして、さらに4年の歳月を大統領として過ごしたワシントンは、1796年、4年前の草稿をもとに、アレクサンダー・ハミルトン (1755/1757-1804) に意見を求めながら、「最後の挨拶」の原稿をまとめました。この文章はフィラデルフィアのAmerican Daily Advertiserに掲載され、さらにパンフレットの形で頒布され、広くアメリカ国民の目に触れました。
2. ワシントンの残した2つの警鐘 その1 「党派心」
「最後の挨拶」のなかで、大統領を務めきれたのは国民のおかげだと感謝し、引退を表明したあと、ワシントンはアメリカを揺るがす二つの危険を述べています。その一つは「党派心」でした。
ワシントンは当時アメリカ政治の火種となっていた「党」の危険について、次のように書いています
われらが合衆国を動揺させうる原因を鑑みるに、深刻に懸念されるのは、北や南だの、東や西だのといった地理的違いによって党を性格付けするための理由はなんでもよかった、ということだ。それに乗じて狡猾な人間は、地域ごとの利益・意見には本当の違いがあると信じ込ませようとするかもしれない。
当時のアメリカは地理的な差異(geographical discrimination)による対立が強く、それが党派抗争の原因ともなりました。こうした地理的差異と党派抗争の結びつきは、南北戦争にも、ひいては現代のアメリカ政治にもみられることですが、ワシントンははやくも、こうした地理的差異に基づくアメリカの分裂を最大の懸念事の一つとして挙げています。ワシントンはこうした地域的差異は幻想であり、アメリカは一つであることを主張しているのです。
ワシントンの「党派心」への警戒は、歴史に学んだものでもありましたが、それだけそれが克服しがたいものであることを示しています。のちの南北戦争においても、奴隷制度や工業体制の違いによって南北が差別化され戦争に向かって行きましたし、現代でも相変わらずどこの国でも「党派」の問題は根強く残っています。2016年のアメリカ選挙によるアメリカ大分裂も記憶に新しいところ。ワシントンが現代のアメリカを見たらさぞかし憂うことでしょう。
ワシントンは当時アメリカ政治の火種となっていた「党」の危険について、次のように書いています
われらが合衆国を動揺させうる原因を鑑みるに、深刻に懸念されるのは、北や南だの、東や西だのといった地理的違いによって党を性格付けするための理由はなんでもよかった、ということだ。それに乗じて狡猾な人間は、地域ごとの利益・意見には本当の違いがあると信じ込ませようとするかもしれない。
当時のアメリカは地理的な差異(geographical discrimination)による対立が強く、それが党派抗争の原因ともなりました。こうした地理的差異と党派抗争の結びつきは、南北戦争にも、ひいては現代のアメリカ政治にもみられることですが、ワシントンははやくも、こうした地理的差異に基づくアメリカの分裂を最大の懸念事の一つとして挙げています。ワシントンはこうした地域的差異は幻想であり、アメリカは一つであることを主張しているのです。
ワシントンの「党派心」への警戒は、歴史に学んだものでもありましたが、それだけそれが克服しがたいものであることを示しています。のちの南北戦争においても、奴隷制度や工業体制の違いによって南北が差別化され戦争に向かって行きましたし、現代でも相変わらずどこの国でも「党派」の問題は根強く残っています。2016年のアメリカ選挙によるアメリカ大分裂も記憶に新しいところ。ワシントンが現代のアメリカを見たらさぞかし憂うことでしょう。
3. ワシントンの残した2つの警鐘 その2 「対外中立」
ワシントンは、道徳と宗教心、そして教育による啓蒙の重要性を訴えた後、今度は外国との付き合い方に話頭を転じます。
ワシントンは「他国に対して恒常的な敵意あるいは恒常的な好意を抱く国家は、ある程度において、奴隷である。」つまり、他国に対する特定の感情が、アメリカの自由と平和を妨げることになる、とワシントンは警鐘を鳴らしているわけです。ワシントンはさらにこうした理念を具体的な行動政策として提示します。
外国とのつきあい関する我々の大きな行動規範は、商業的関係を拡大する上で、できるかぎり政治的関係を持たないことである。
現代では驚くべきというか、不可能な政策ですが、アメリカはこの理念を守っていくこととなります。(後述)ワシントンが外国(foreign nations)というとき、おそらく念頭にあったのはヨーロッパ、とくにイギリスだったでしょう。建国期のアメリカが、イギリスの影響力を排除に躍起になっていた、という歴史的な背景もあるでしょうか。一方で、すでに結びんでしまった条約については忠実に守ることも言っており、すべての条約を破棄するとはワシントンは言っていないことに注意が必要です。また、すべての国に対して中立な立場をとるという表明であって、排外主義を訴えているわけではありません。ワシントンが先に述べた国内の党派抗争は、特定の外国との偏った関係を生む土壌を作りますから、二つの警鐘は関連しているとも言えるでしょう。
ワシントンは「他国に対して恒常的な敵意あるいは恒常的な好意を抱く国家は、ある程度において、奴隷である。」つまり、他国に対する特定の感情が、アメリカの自由と平和を妨げることになる、とワシントンは警鐘を鳴らしているわけです。ワシントンはさらにこうした理念を具体的な行動政策として提示します。
外国とのつきあい関する我々の大きな行動規範は、商業的関係を拡大する上で、できるかぎり政治的関係を持たないことである。
現代では驚くべきというか、不可能な政策ですが、アメリカはこの理念を守っていくこととなります。(後述)ワシントンが外国(foreign nations)というとき、おそらく念頭にあったのはヨーロッパ、とくにイギリスだったでしょう。建国期のアメリカが、イギリスの影響力を排除に躍起になっていた、という歴史的な背景もあるでしょうか。一方で、すでに結びんでしまった条約については忠実に守ることも言っており、すべての条約を破棄するとはワシントンは言っていないことに注意が必要です。また、すべての国に対して中立な立場をとるという表明であって、排外主義を訴えているわけではありません。ワシントンが先に述べた国内の党派抗争は、特定の外国との偏った関係を生む土壌を作りますから、二つの警鐘は関連しているとも言えるでしょう。
4. ワシントンの「最後の挨拶」のその後と現在
ワシントンが「最後の挨拶」のなかで示した引退はしかし、1799年まで待たなければなりませんでした。フランス革命に揺れるフランスを警戒し、ワシントンは請われて再び軍役に復帰したためです。(合衆国陸軍最先任United States Army Senior Officer、任期は1798年7月から1799年12月まで。)ワシントンは1799年12月12日にその波乱の生涯を終えました。
アメリカ政治の綱領を示したワシントンの「最後の挨拶」は、今日アメリカ史における一つの画期的な文書として評価されています。現在、アメリカの大統領の任期には2期8年という上限(3選禁止)が、憲法修正第22条によって定められていますが、この制定のモデルの一つとなったのが、ワシントンの引退であるとも言われています。
また、ワシントンの外交的独立の訴えは、早くは1800年のモルトフォンテーヌ条約による米仏同盟の破棄につながり、やがてはヨーロッパへの内政不干渉を掲げた有名な1823年のモンロー主義(Monroe Doctorine)へ影響を与えました。アメリカが次に新しい軍事同盟を結ぶのはNATOを築いた北大西洋条約で、1949年のことでした。
1862年、ワシントンの130回目の誕生日を記念して議会でこの「最後の挨拶」が読み上げられました。ワシントンの誕生日に「最後の挨拶」を読むという慣習は1899年には上下院で定着し1984年まで続きました。
アメリカ国内外で話題を呼んだ、リン・マニュエルミランダ演出のミュージカル『ハミルトン』(2015)では、ワシントンの「最後の挨拶」での一節が “One Last Time”で歌われています。
アメリカ政治の綱領を示したワシントンの「最後の挨拶」は、今日アメリカ史における一つの画期的な文書として評価されています。現在、アメリカの大統領の任期には2期8年という上限(3選禁止)が、憲法修正第22条によって定められていますが、この制定のモデルの一つとなったのが、ワシントンの引退であるとも言われています。
また、ワシントンの外交的独立の訴えは、早くは1800年のモルトフォンテーヌ条約による米仏同盟の破棄につながり、やがてはヨーロッパへの内政不干渉を掲げた有名な1823年のモンロー主義(Monroe Doctorine)へ影響を与えました。アメリカが次に新しい軍事同盟を結ぶのはNATOを築いた北大西洋条約で、1949年のことでした。
1862年、ワシントンの130回目の誕生日を記念して議会でこの「最後の挨拶」が読み上げられました。ワシントンの誕生日に「最後の挨拶」を読むという慣習は1899年には上下院で定着し1984年まで続きました。
アメリカ国内外で話題を呼んだ、リン・マニュエルミランダ演出のミュージカル『ハミルトン』(2015)では、ワシントンの「最後の挨拶」での一節が “One Last Time”で歌われています。