世界史

周恩来はなぜ人民から愛された?文化大革命への抵抗とは

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中華人民共和国の「建国の父」といえば毛沢東なのはご存知の方も多いかと思いますが、意外と忘れられがちなのは、「建国の母」です。

中国の「建国の母」といえば、周恩来という人物です。

中国政府が発信するオフィシャルな人物評は、それが実際どんな人物であれ、時の政権を担う実力者がその著名人の名をどのように利用するかという方針しだいで、善悪コロコロとひっくり返ってしまいがちなのですが、周恩来はその中でも安定して「好人物」の名声を得ています。

それはひとえに、中国政府内だけに留まらない関心を集める人物だからです。

周恩来は、中国人民に深く敬愛された政治家でした。

もともと顔立ちが端正で洒落男だった彼は、歳を重ねるごとに外見に年輪と風格がプラスされ、腐敗した生活を送る高級幹部が多いなかで、極めて清潔な私生活を送っていたことが、人民からの信望を集める要素でもありました。

1976年に周恩来がガンで死去した時、中国人民は茫然自失しながら涙を流し続けたそうです。

さらに中国国内だけではなく、国外からの声望も高い、名外交官でもありました。

・「周恩来は近代中国の歴史を創造した人」(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン)

・「生涯にわたって公明正大、公正無私、おこないは衆に抜きんでるも人のねたみを買わず、功績は天下に轟くもうぬぼれることなし」(明報・香港)

・「我々は中国共産党には反対だが、反対しているのは政治制度に対してであって、個人に対してではない」(台湾政府の広報)

時の政府といざこざがあった諸外国のメディアやオフィシャルな広報からも、相次いで発表された周恩来への素直な哀悼の意からも、その存在がどれほど好まれていたかわかります。

「建国の母」の名称どおり、周恩来は人と人をとりもつ最高級のクッション材として、その知略と品格を費やしたのです。

周恩来の外交で第三世界のリーダーとなった中国

周恩来は1949年に中国共産党が政権を握った後、その寿命が尽きるまでの27年間を総理として過ごしました。

民衆の力で打ちたてた共産国家といえども、2000年以上におよぶ皇帝統治を受け入れてきた民衆を取りまとめるメソッドを、他の何かに置き換える術も時間もない状況でしたから、扱い慣れた皇帝スタイルを踏襲した中央集権統治を共産主義に貼り付けようとする毛沢東強権政治には、周恩来の温和で老練な実務処理能力が不可欠だったのです。

米ソによる冷戦まっただなかで水面下で対立するヨーロッパ諸国とは距離を置き、また生まれて間もない中華人民共和国を国際的に存在感のある国として認知されるためにも、独自の国際スタンス構築を目的に、周恩来はアジア、アフリカ、ソ連、東欧の各国を歴訪しました。

周恩来の国際的評価が大いに高まったのはこの時期です。

中国からやってきた周恩来は、その人格や品性と智謀にて各国要人の信頼を勝ち得て、その評判は国から国へと伝播し、いつの間にか「第三世界のリーダーは中国」と呼ばれるようになりました。しかしその和やかな笑顔の裏には、かつて中国を蹂躙した資本主義体制のヨーロッパ各国との壁は保ち続け、アジア・アフリカ・ラテンアメリカでの革命勢力への協力を買って出つつ、それによって共産主義の旗頭たらんとしていたのです。

中国の暗躍を各国要人はもちろん注視していたのですが、周恩来その人に会うと、その誠実で柔和な人柄に魅せられて好意が勝ってしまったそうです。

こんなエピソードがあります。
1927年にニクソン大統領が中国を訪問した時、きれいな服を着た子どもが歌い踊りながら歓待したそうです。しかしその演出過剰な様子を「中国の茶番劇」と外国メディアが報じたことを知り、翌日すぐさまニクソン大統領や側近に会って謝罪し、演出担当者を叱責したことで、逆に「周恩来は信頼できる」と評価を高めたのです。
この世渡りの上手さ、ピンチをチャンスに変える度量こそ、周恩来の最大の武器でした。

文化大革命に抵抗した周恩来

周恩来が総理だったからこそたくさんの重要人物や無実の人が救われた、という声と、周恩来が総理だったからこそ毛沢東の歯止めが利かず、およそ1000万人もの犠牲者を出したという声、その賛否両論が収まらないのが、文化大革命における周恩来の立ち居振る舞いです。

1960年代後半、毛沢東による資本主義者狩りと社会主義強化を目指したプロレタリア文化大革命が起こりました。当初は3年ほどで完遂する予定だったものが、毛沢東自身の権力闘争激化にともない、彼自身が死去するまでのおよそ10年に及ぶ粛清が国内に吹き荒れた結果、その被害者は1億人に及ぶと試算される大混乱を国内に巻き起こしたのです。

荒れ狂う独裁者・毛沢東に対する周恩来の態度は、中国皇帝に対する側近のそれように当たらず触らず、自分自身が失脚しない程度に被害者を救済するけれど、文化大革命自体は否定しない、という八方美人なスタイルに終始しました。

だからこそ、毛沢東は長期にわたり有能な腹心として周恩来を必要とし、いっぽうで最大のライバルとして敵視するに至り、それを十分察知している周恩来はさらに毛沢東へと恭順の姿勢をとり、結果として文化大革命は取り返しの付かない惨劇に至りました。

毛沢東に逆らわないこと、忠誠を尽くしながら、自分に火の粉がふりかからないよう注意深く振舞うこと、しっぽをつかませないことこそ、「不倒翁」と評価されるゆえんです。
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