【前編】仏様の像容で見る時代背景、お国柄・日本編
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時代背景、お国柄でそれぞれの像容を生み出してきた海外の仏像ですが、日本の物はどうなんでしょう?
日本仏教の夜明け
仏教伝来は6世紀半ば。崇拝対象として人型に近い「像」を持っていなかった日本人にとってまさにカルチャーギャップだった仏教と仏像。これを受け入れるに至ったのには、かの聖徳太子の尽力がありました。
元々博学で優秀だった太子は「仏教、いいじゃない」と感服し、摂政時代には「大陸の仏教が今どんなものか見てきてね」と遣隋使、遣唐使を送るようになりました。最初日本に渡ったのは、「金人」と呼ばれる像。金ぴかなのが功を奏したのか、50年の議論の末仏教は日本に定着。この頃は顕教という、分かりやすい種類の仏教が主流でした。
元々博学で優秀だった太子は「仏教、いいじゃない」と感服し、摂政時代には「大陸の仏教が今どんなものか見てきてね」と遣隋使、遣唐使を送るようになりました。最初日本に渡ったのは、「金人」と呼ばれる像。金ぴかなのが功を奏したのか、50年の議論の末仏教は日本に定着。この頃は顕教という、分かりやすい種類の仏教が主流でした。
現存最古の寺・法隆寺
飛鳥時代に数多くの寺院が立てられますが、残っている中で最古は法隆寺。他は戦で焼けたり取り壊されたりの憂き目にあっています。
そんな中生き残った法隆寺、当時庶民は中に入れず。しかし、有名な五重塔がにょっきりそびえていたため「あれ何」と多少なりとも興味を抱かせることには成功。釈迦三尊像が特に有名ですが、これは金堂と呼ばれるお堂にあります。
実は、釈迦三尊像、お釈迦様と両脇を固める脇侍のみだけでなく、四天王や阿弥陀如来、薬師如来と言った主だったメンバーが集結。これは仏教の中心地、須弥山をイメージした須弥壇といい、お堂は大概須弥山を模した作りになっています。
そんな中生き残った法隆寺、当時庶民は中に入れず。しかし、有名な五重塔がにょっきりそびえていたため「あれ何」と多少なりとも興味を抱かせることには成功。釈迦三尊像が特に有名ですが、これは金堂と呼ばれるお堂にあります。
実は、釈迦三尊像、お釈迦様と両脇を固める脇侍のみだけでなく、四天王や阿弥陀如来、薬師如来と言った主だったメンバーが集結。これは仏教の中心地、須弥山をイメージした須弥壇といい、お堂は大概須弥山を模した作りになっています。
止利様式から見る飛鳥時代の仏像
飛鳥時代から白鳳時代と呼ばれる時代の仏師と言えば、鞍作止利さんが有名。仏師家系の出で渡来人の孫。
法隆寺の釈迦三尊像を作った人物でもあります。渡来人の血を引いていますが、日本で初の、本式の仏像を作ったのもこの人。その作風は止利様式と呼ばれるもので、飛鳥時代の仏像の基本となりました。
法隆寺の釈迦三尊像を作った人物でもあります。渡来人の血を引いていますが、日本で初の、本式の仏像を作ったのもこの人。その作風は止利様式と呼ばれるもので、飛鳥時代の仏像の基本となりました。
それ即ち、「真正面から見られればそれでいいんだよ!仏様にはまっすぐ向き合えばいいんだから!」と言わんばかりの平べったさ。といって、あまりぺたーっとしているのも迫力に欠ける為、服装、襟元やすそのひだなどを目立たせています。にこっとしたアルカイックスマイルや左右対称も、この時代の特徴です。一応言っておきますが、止利さんもちゃんと計算してひだなどを作っていました。
聖徳太子
飛鳥時代に法隆寺を作らせたのが聖徳太子。ある意味、日本の仏教美術を発展させた人物です。
法隆寺の五重塔には塔本塑像と呼ばれる、在家信者を表した像があります。これは「仏教は出家僧だけの物じゃないよ、皆が信じていいんだよ」という聖徳太子の考えが反映されているそうです。ちなみに作られた像は維摩居士などがモデル。維摩居士は、智慧の仏文殊菩薩と互角に論議した在家信者の星とも言える人です。
法隆寺の五重塔には塔本塑像と呼ばれる、在家信者を表した像があります。これは「仏教は出家僧だけの物じゃないよ、皆が信じていいんだよ」という聖徳太子の考えが反映されているそうです。ちなみに作られた像は維摩居士などがモデル。維摩居士は、智慧の仏文殊菩薩と互角に論議した在家信者の星とも言える人です。
白鳳時代
白鳳とは元号というよりも、仏教に関する区分け。時代で言えば大化の改新から奈良遷都にかけた頃。
この頃には「左右対称じゃなくても良くない?」「アルカイックスマイル止めない?」となり、どんどん写実的になっていきました。立体的になったのは、本堂で行事が行われるようになったため。「何か、平たいよ?」という事態を避ける意味合いもあってのことと思われます。服装が薄い頃も、線として表されるのも特徴です。といって、様式としては唐から伝わった技法や表現が多かった模様。
監修:えどのゆうき
日光山輪王寺の三仏堂、三十三間堂などであまたの仏像に圧倒、魅了されました。寺社仏閣は、最も身近な異界です。神仏神秘の世界が私を含め、人を惹きつけるのかもしれません。
この頃には「左右対称じゃなくても良くない?」「アルカイックスマイル止めない?」となり、どんどん写実的になっていきました。立体的になったのは、本堂で行事が行われるようになったため。「何か、平たいよ?」という事態を避ける意味合いもあってのことと思われます。服装が薄い頃も、線として表されるのも特徴です。といって、様式としては唐から伝わった技法や表現が多かった模様。
監修:えどのゆうき
日光山輪王寺の三仏堂、三十三間堂などであまたの仏像に圧倒、魅了されました。寺社仏閣は、最も身近な異界です。神仏神秘の世界が私を含め、人を惹きつけるのかもしれません。