レーニンはマルクスの夢見た階級のない世界にするため何をした?
関連キーワード
1914年7月、ロシアの軍総動員令を出し、国を第一次世界大戦へと突入させたロシア皇帝ニコライ1世でしたが、相次ぐ手痛い敗北が続き、ロシアの民は皇帝への怒りに燃えていました。
元を辿れば、工業化の成功で植民地支配に積極的になったドイツの軍拡方針のとばっちりを受けたともいえます。ドイツとは友好国だったロシアでしたが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の親政が始まってから、ロシアに対するドイツの態度が一転しました。
領土の境界線を接する二国間の関係が悪化した両者は、バルカン半島でオーストリア側にドイツが、セルビア側にロシアがついたことで完全なる敵対国となり、その余波をまともに食らったヨーロッパのバランスが大きく崩れることになりました。
植民地を含むヨーロッパ各国の覇権争いに、各国がそれぞれ独自に結んでいた条約の内容がからまり合い、何のために誰のために戦っているのかわからない混乱した状況のなか、この戦争特需でさらに蓄財して自己保身のために富を占有するトップ階級を排除し、社会をもっとシンプルにしようという考えが広まり、ヨーロッパに革命の火が広まろうとしていたのです。
その中でもロシアが他のヨーロッパ各国と比較して加速的に革命への道を走ったのは、国を憂いかく革新的な舵取りをする覇気も才能もない皇帝が、代々受け継いだ権力だけを最後まで手放そうとしなかったことも理由のひとつです。
他国と同じく、民衆は裕福な都市部と時代に取り残された農村部という経済的格差に苦しめられていたロシアに、「世界革命」を目指す一人の革命家が、封印列車に乗って戻ってきた日から、今に続く社会主義vs民主主義の終わりなき戦いが幕を落としました。
ウラジーミル・レーニンと、彼が率いたポリシェヴィキは、ゴールの見えない第一次世界大戦からいち早く手を引くために考えたことは何だったのでしょう?
元を辿れば、工業化の成功で植民地支配に積極的になったドイツの軍拡方針のとばっちりを受けたともいえます。ドイツとは友好国だったロシアでしたが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の親政が始まってから、ロシアに対するドイツの態度が一転しました。
領土の境界線を接する二国間の関係が悪化した両者は、バルカン半島でオーストリア側にドイツが、セルビア側にロシアがついたことで完全なる敵対国となり、その余波をまともに食らったヨーロッパのバランスが大きく崩れることになりました。
植民地を含むヨーロッパ各国の覇権争いに、各国がそれぞれ独自に結んでいた条約の内容がからまり合い、何のために誰のために戦っているのかわからない混乱した状況のなか、この戦争特需でさらに蓄財して自己保身のために富を占有するトップ階級を排除し、社会をもっとシンプルにしようという考えが広まり、ヨーロッパに革命の火が広まろうとしていたのです。
その中でもロシアが他のヨーロッパ各国と比較して加速的に革命への道を走ったのは、国を憂いかく革新的な舵取りをする覇気も才能もない皇帝が、代々受け継いだ権力だけを最後まで手放そうとしなかったことも理由のひとつです。
他国と同じく、民衆は裕福な都市部と時代に取り残された農村部という経済的格差に苦しめられていたロシアに、「世界革命」を目指す一人の革命家が、封印列車に乗って戻ってきた日から、今に続く社会主義vs民主主義の終わりなき戦いが幕を落としました。
ウラジーミル・レーニンと、彼が率いたポリシェヴィキは、ゴールの見えない第一次世界大戦からいち早く手を引くために考えたことは何だったのでしょう?
ロシア二月革命とレーニン
永世中立国スイスは、かねてより各国からの亡命者に対して寛容な国柄でした。時の政権から粛清されようとしているヨーロッパを代表する革命家たちが逃れる先としてスイスの人気は衰えず、第一次世界大戦前夜には各国から社会主義者たちが逃げ込んできており、チューリヒはヨーロッパ最先端の政治論を忌憚なく戦わせるサロンの様相を見せていたのです。
社会主義の盟主・ソヴィエト連邦をのちに作り上げた革命家・レーニンもその一人でした。
ドイツの経済学者カール・マルクスの書いた『共産党宣言』は、人類の生み出す富を占有する一握りの資本主義成功者たちの在り方を否定し、ブルジョアジーとプロレタリアートの経済格差から生まれる戦い、そして終わりのない経済成長というまぼろしが生み出す不平等を駆逐し、資本主義の限界である現在の先にある、世界中の労働者が平等と自由を享受できる新しい社会を生み出そう、という思想を広めました。
ヨーロッパの一部の知識層の中では、「世界革命」を成そうと、国の枠組みを超えてマルクス主義で結ばれた思想家たちが活動していたのですが、人民による激しい突き上げパワーの足りない国においては、国家による民衆懐柔策や厳しい警戒によって頓挫が相次ぎました。
しかし、ロシア帝国は他国の実情とは様子が違います。日露戦争ではアジア人にまさかの敗北をし、第一次世界大戦ではドイツに敗北し続けている、名誉回復には程遠いロシア帝国には、明日のパンすら底をつき飢えに苦しむ民衆を鼓舞する威信などすでになく、倒すべき忌まわしい旧習と扱われていました。
実はレーニン自身は、労働者階級出身ではなく、裕福な知識階級に生を受けました。だからこそ、最先端イデオロギーである『共産党宣言』にいち早く触れ、深く理解し、急進的な革命家集団「ボリシェビキ」を率いるフットワークが備わっていたのではないでしょうか。
1917年ロシア二月革命が起こり、皇帝ニコライ2世が退位し、政治の空白ができたロシアに臨時政府が成立しました。
しかしこの臨時政府は、ケレンスキー中心の当時の国会議員やブルジョアジーも内包しつつ、ヨーロッパ諸国の意図を受けた主戦論者が多くを占めていたため、それとは別に労働者階級や農民・兵士たちは自治組織「ソヴィエト(評議会)」を設立し、二つの権力構造は対立を深めていたのです。
そんな不安定なロシアにレーニンは戻ってきました。
社会主義の盟主・ソヴィエト連邦をのちに作り上げた革命家・レーニンもその一人でした。
ドイツの経済学者カール・マルクスの書いた『共産党宣言』は、人類の生み出す富を占有する一握りの資本主義成功者たちの在り方を否定し、ブルジョアジーとプロレタリアートの経済格差から生まれる戦い、そして終わりのない経済成長というまぼろしが生み出す不平等を駆逐し、資本主義の限界である現在の先にある、世界中の労働者が平等と自由を享受できる新しい社会を生み出そう、という思想を広めました。
ヨーロッパの一部の知識層の中では、「世界革命」を成そうと、国の枠組みを超えてマルクス主義で結ばれた思想家たちが活動していたのですが、人民による激しい突き上げパワーの足りない国においては、国家による民衆懐柔策や厳しい警戒によって頓挫が相次ぎました。
しかし、ロシア帝国は他国の実情とは様子が違います。日露戦争ではアジア人にまさかの敗北をし、第一次世界大戦ではドイツに敗北し続けている、名誉回復には程遠いロシア帝国には、明日のパンすら底をつき飢えに苦しむ民衆を鼓舞する威信などすでになく、倒すべき忌まわしい旧習と扱われていました。
実はレーニン自身は、労働者階級出身ではなく、裕福な知識階級に生を受けました。だからこそ、最先端イデオロギーである『共産党宣言』にいち早く触れ、深く理解し、急進的な革命家集団「ボリシェビキ」を率いるフットワークが備わっていたのではないでしょうか。
1917年ロシア二月革命が起こり、皇帝ニコライ2世が退位し、政治の空白ができたロシアに臨時政府が成立しました。
しかしこの臨時政府は、ケレンスキー中心の当時の国会議員やブルジョアジーも内包しつつ、ヨーロッパ諸国の意図を受けた主戦論者が多くを占めていたため、それとは別に労働者階級や農民・兵士たちは自治組織「ソヴィエト(評議会)」を設立し、二つの権力構造は対立を深めていたのです。
そんな不安定なロシアにレーニンは戻ってきました。
レーニンの掲げた社会主義の理想とは
ポリシェヴィキの指導者である高名な革命家・レーニンの登場で、時代の風を受けたソヴィエト側が巻き返しを図りました。
臨時政府の妥当、第一次世界大戦即時停戦、ソヴィエト政権樹立などを掲げ、「全ての権力をソヴィエトへ」という『四月テーゼ』を提唱したレーニンに対し、臨時政府は苛烈な弾圧を決行しました。
しかし、1917年11月、レーニンとトロツキーという二人の革命家が、臨時政府と武力衝突を起こし、臨時政府を倒したことで、「ソヴィエト」という史上初の社会主義国家がついに誕生したのです。
停戦、民族自決を掲げたロシア十月革命と、先の二月革命を合わせたものを、「ロシア革命」と呼びます。
レーニンが率いるボリシェビキは「ロシア共産党」となりました。
こうして、今に続く社会主義と資本主義の戦いの幕があがり、お互いの勢力圏を広げようと、各国の思惑が交差する世界情勢となっているのです。
臨時政府の妥当、第一次世界大戦即時停戦、ソヴィエト政権樹立などを掲げ、「全ての権力をソヴィエトへ」という『四月テーゼ』を提唱したレーニンに対し、臨時政府は苛烈な弾圧を決行しました。
しかし、1917年11月、レーニンとトロツキーという二人の革命家が、臨時政府と武力衝突を起こし、臨時政府を倒したことで、「ソヴィエト」という史上初の社会主義国家がついに誕生したのです。
停戦、民族自決を掲げたロシア十月革命と、先の二月革命を合わせたものを、「ロシア革命」と呼びます。
レーニンが率いるボリシェビキは「ロシア共産党」となりました。
こうして、今に続く社会主義と資本主義の戦いの幕があがり、お互いの勢力圏を広げようと、各国の思惑が交差する世界情勢となっているのです。