世界史

著作なき大哲学者ソクラテス、「無知の知」っていったい何なの?

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無著作なのは、固い意思の表れ

古代ギリシャが生んだ大哲学者・ソクラテス。しかし、彼がひとつも著作を残していないことをご存知ですか?
その理由は、彼が「人との対話(会話)」終生にわたって重視したからなのです。
彼にとっては、会話こそが「生きた言葉」であり、それを書き留めたものは「死んだ言葉」にすぎなかったんですよ。自分の言葉が曲解されて伝わるのを恐れたためとも言われています。

そのため、彼の思想は彼と対話した弟子(といってもソクラテス自身は彼らを弟子という認識で見ておらず、対話の相手として見ていた)によって後世に伝えられることとなりました。

それでは、ソクラテスの生涯についてご紹介したいと思います。

ソクラテスの目覚め

ソクラテスは、前469年頃にギリシャのアテネに生まれました。
彼が誕生した直後は全盛期にあったアテネですが、ライバルのスパルタとの間に起きたペロポネソス戦争と疫病の流行によって衰退へと向かいます。
そのペロポネソス戦争にもソクラテスは従軍したようですが、彼が自身の哲学に目覚めるまでの詳細は不明です。

彼が自身の哲学者的考えを自覚・形成するに至ったきっかけは、「神託」でした。
ある時、友人(もしくは弟子とも)がデルフォイの巫女に「ソクラテス以上の賢者はいるか」と尋ねると、巫女は神託として「ソクラテスより賢い者はいない」と返答したのだそうです。

当時のデルフォイはアポロン神の神託を告げる場所であり、古代ギリシャの人々にとって神託は絶大な影響を及ぼすものでした。
その神託が「ソクラテスより賢い者はいない」としたのですから、ソクラテス自身も驚き、戸惑ったのです。

なぜなら、ソクラテス自身は、自分は無知だと思っていたからなんですよ。
そして、神託について自問する日々が続きました。神託について疑問を抱く時点で、もう他人とは異なると思いますが…。

そして、彼はある行動に出ることにしました。

「無知の知」を確かめる

ソクラテスは、自分が本当に賢いのか確かめるために、世間で賢者だと崇められている人々に会ってみることにしました。
彼らと対話をした結果、賢者だという彼らでさえも、自分たちが言っていることを良くは知らず、理解さえしていないことにソクラテスは気付いたのです。
そして、それならば無知を自覚している自分の方がまだ賢いのでは、という結論に達したのでした。

それからというもの、彼は多くの人々と対話し、議論し、相手の無知を指摘するようになったのです。彼としては、彼らに無知を気づかせ、善い方向へと導いているつもりでした。

しかしこれは、言い負かされる方としてはたまったものではありません。また、周りでその論戦を見ている若者たちは面白がり、そうした手法を真似して議論を仕掛けてきたりするので、当時「知者・賢者」と言われていた人々にとってはたまったものではなかったわけです。

しかも、ソクラテスが「善意」という固い信念のもとに相手の無知を指摘するので、それがまた当時のインテリ層からの憎悪を買うこととなってしまったのですね。

そして、彼は告訴されてしまったのです。

死罪とされてもなお、自分を曲げず

ソクラテスを告訴したのは、彼と対話してやりこめられた詩人や政治家たちでした。
彼らの言い分は、ソクラテスがその言によって若者を誤った道へ導き、ひいてはそれによってアテネの政情が不安定になったというものでした。

ソクラテス自身は弟子を取ったつもりはなかったようですが、彼と親しく接していた若者たちは弟子も同然であり、その中にはアテネの三十人政権で強権をふるったクリティアスや、ペロポネソス戦争でアテネの敵国スパルタに亡命し、アテネを敗北させたアルキビアデスがいたんです。
ソクラテスがいろいろ吹き込んだからこうなった、というのが彼らの考えだったんですね。

そして、彼に下された判決は、死罪でした。

しかし、ソクラテスは自分がいったいどんな悪いことをしたのか、という思いでいたようです。
「無知の知」を自覚し、対話する人々を善い方向へ向かわせようと努力しているのに、いったい何がいけないのか。
彼は、弟子のプラトンが記した「ソクラテスの弁明」の中で、自説を決して曲げず、自分の考えを冷静に主張しています。

皮肉がキツ過ぎて死罪

しかし、彼は非常に皮肉たっぷりの物言いをする人物でした。
そのため、量刑について述べたことが逆に人々の反感を買うことにもなってしまったのです。
死刑になることに対して、彼は、「自分は対話する皆に善良・賢明であることを説いてきた。すなわち国家功労者なのだから、自分は国から豪華な食事を与えられるにふさわしい」と言い放っています。

元々皮肉屋ですから、弟子にも日頃容赦なく皮肉を浴びせていました。三十人政権で反対派を粛清しまくったクリティアスには「次々に牛を減じて質を悪化させた牛飼いだ」と言い放ち、彼が同性に関係を迫った時には「豚の様だ」と一刀両断しています。

その上、判決が確定した後に妻クサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて…」と嘆くと、ソクラテスは「では私が有罪で死ぬ方が良かったのか?」と答えていますから、その皮肉屋ぶりは、反感を買っても仕方ないものだった…と思います。

そして、死刑判決に一票を投じた人々に対しても、痛烈な言葉を残しています。
「あなた方は、賢人ソクラテスを処刑したという汚名を着せられることになる。そして、後に死よりはるかに重い刑が与えられることだろう」と言うのですから、近しい人々以外は「何て奴だ!」と思ったに違いありません。

ただ、死刑執行の際には、彼はまったく動じることなく、従容として毒杯を受け入れました。
弟子たちや、牢番でさえも彼に逃亡をすすめたのですが、彼は拒否したんです。
あくまでも、彼が重視した「アレテー(徳)」を重んじ、「善く生きる」ことを貫いた末での死でした。

彼の思想を伝えた弟子

ソクラテスは数々の名言とされる言葉を残していますが、それはすべて弟子たちの記録によるものでした。
「汝、自らを知れ」、「真の賢者は己の愚を知る者なり」といった、彼の思想「無知の知」を表す名言は、弟子たちがいなければ現代には伝わっていなかったんです。

その代表的な弟子が、プラトンです。
彼が自身の思想を語るに当たって、ひんぱんにソクラテスの言葉を引用したことから、ソクラテスの思想というものが後世に伝わったというわけなんですね。
また、クセノポンという弟子もソクラテスについて著しているのですが、両者が描くソクラテスはあくまで他者から見たソクラテスであるので、多少の違いがあります。

とはいえ、彼らのおかげで私たちはソクラテスの「無知の知」という思想を知ることができるわけです。ソクラテス自身は本意ではないかもしれませんが…もしかすると、天上で弟子たちに毒づいていたかもしれませんね。
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