世界史

学者一族生まれの旅行好き「司馬遷」はどんな人柄だった?

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はるか古代から中国人は歴史書を好んで記録してきました。実在していたと確証のある人物と同じ時間軸で、神や妖の伝説を歴史の真実のように史書に盛り込むので、後世の私たち現代人は虚構と真実が入り混じった中国の歴史書を前に混乱してしまいがちです。

その書き方はテンプレート化して、古代日本にも伝わり、口伝で虚構入り混じった日本の歴史をまとめ上げた日本書紀や古事記が作られました。

そんな中国史をまとめた数多くの史書の元祖が、司馬遷による『史記』です。

司馬遷は、紀元前109年から紀元前91年にかけて、たった一人で『史記』を書き上げました。

その内容は神話や伝説のベールに隠された『三皇五帝』の物語から始まり、司馬遷の生きた漢の武帝の時代までを網羅した中国二十四史の第一の歴史書です。

「司馬」という姓は周の時代には軍政を司る官僚のものだったのですが、漢の時代には、漢王朝の祖先を祀る祭祀官の役や国家文書を記したり管理する役目や天文や暦を担当する役など、国家を運営する文官職を代々受け継ぐ文系名家となっていました。

父の司馬談は、天文学・易学・老子の学問をそれぞれ高名な学者から授けられていた俊英で、王朝に見出されて太史令に任命されました。その息子の司馬遷はそんな当代一のエリートの後継としてふさわしい器となるために、父が職権を使って集めた各国の古い書籍を読み込むなどのスパルタ教育を受けたと言います。

儒学を国政の要とした漢の武帝は、エリートならば財も身分も関係なく官僚として採用する方針を取っていたので、父によるスパルタ教育とともに、当時流行の孔子の儒学も学んだ司馬遷は、20歳になると中国を巡る大旅行に出発することになるのでした。

司馬遷は旅行大好きアウトドア人間だった

スパルタ教育をたっぷりと施した息子に対し、父の司馬談は「旅をせよ」と命じました。知見を広め、生きた学問を習得させるために、司馬遷は2~3年をこの旅行に費やすこととなったのです。

この旅では、司馬遷は好んでその土地の古跡を訪ね、古老から昔話を聞き取り、その土地独自の伝説を収集して歩きました。故事伝説だけではなく、地方住民のリアルな風俗や人柄を調べ、地理をその足で確認しながら旅を続けたそうです。

この独自のフィールドワークの蓄積は、後々『史記』をまとめ上げる上で、事実の羅列だけに留まらない生き生きとした描写に反映されることとなりました。

父から与えられた鮮度の高い国家レベルの情報と、国庫に積まれた歴史的古書を読解した上で、漢時代の中国大陸を2~3年かけて踏破し、過去と現代の歴史的を心身に染み込ませた司馬遷が長安に帰還した彼は、官僚への道を歩み始めたのです。

司馬遷が生きた時代、中国はどうだった?

司馬遷が生きた時代の中国大陸は、いったいどのような情勢だったのでしょう?

漢の武帝が即位するまでは、皇帝側近となる高官になるのは名家や富裕層の子弟であると相場が決まっており、どれほど政治的才能や知性に秀でた存在であろうとも、家格が低ければそれなりの低い官吏のままでした。

国に忠誠を誓う官僚を育成するために、漢の武帝は孔子の儒学を奨励しました。中央だけではなく地方にまで「儒学に長じたものを推挙せよ」との命令を出し、領土の隅々からエリートを集めた官僚機構を構築した結果、立身出世をするには武術ではなく学問に秀でた者が優先される時代が到来したのです。

長安に帰還した司馬遷が待っていたのは、まさに国が欲する優秀な官吏を養成するための大学が出来たばかりのころで、そこに入学して1年後にテストを受け、合格したものは一気に上級職が狙えるポジションを与えられるシステム改革の恩恵を、司馬遷はすぐに受けることができました。

史記に籠められた司馬遷のプライド高き人生

全ては、漢の皇帝の意のままになる史上最強の優秀な官僚システムを構築するための改革でした。司馬遷もその意に沿った活躍を見せ、父親譲りの頭脳と諸国を巡った経験と情熱を仕事にあて、皇帝の旅に随行したり、昇進は遅かったものの充実した毎日を過ごしていたようです。

父の司馬談が死の床についたとき、司馬遷は父の夢「永い戦乱で散逸した過去の史実を拾い上げ、中国の歴史を紡ぐ」ことを託され、死後数年がたち太史令に任ぜられた後から執筆を開始しました。

国家の中枢に関わる貴重な資料を自由に扱える立場となった司馬遷は、それとは別に焚書や災害、火災などで失われた資料も積極的に掘り起こして、多方面から歴史を捉えるデータを収集していきました。

しかし、彼の正義感と国の正義が正面からぶつかる事件が起こりました。

国境を荒らす匈奴の討伐軍の将軍のひとりである李陵が戦に負け、敵に降伏したことを知り、武帝が激怒しました。李陵の人柄を知る司馬遷は彼の弁護に回ったため武帝の癇に障り、ただそれだけのために牢獄に繋がれ、死罪の判決が下されることとなったのです。

しかし、司馬遷は虫けらのように死んでいる場合ではありませんでした。

中国の歴史書を執筆を願った父の遺言を守り、48歳の時に宮刑(腐刑・男子の生殖器を切り取る)という男性にとって死よりも辛い最も屈辱的な刑罰を選び、死罪を免れた後、大赦によって出獄しました。

その後、下級官吏として再び朝廷に仕えながら、『史書』の執筆を続けたのです。

東洋のヘロドトスとも評される偉大な歴史家・司馬遷は、その後の中国のみならず日本にも歴史書を紡ぐことの大切さを伝えました。彼の筆は精密に歴史を綴ったのみならず、当時の知識人がどのようにその時代を批評し、どんな思想や風俗を持っていたのかという、歴史が生まれる土壌を紐解く深みを帯びています。
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