諸行無常の意味・使い方
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この世に存在しているすべてのものは常に同じ状態を保つことなく移り変わっていくこと。
また、世の中のすべてのものに永久不変なものなどはないということのたとえ。
また、世の中のすべてのものに永久不変なものなどはないということのたとえ。
由来
仏教において、その思想の根本的なものであらゆるものは刹那の瞬間にも絶えず変化を繰り返しているということから生まれた言葉です。仏教の大網である「三法印」の一つでもあり、三法印とは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つを指します。「諸行」とは、この世の一切の事柄や現象のことを指し、「無常」とは、この世の中のものは常に移り変わっていて変わらないものはないという意味です。
中国の宋の時代に記された「景徳伝灯録」では、釈迦牟尼仏がいよいよ入滅する(亡くなる)ときに、沙羅双樹の木の下で説いた言葉とされています。
これは「平家物語」の冒頭にも出てくる部分に関連しているので日本でも広く知られています。以下の部分です。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」
(祇園精舎の鐘の音は世の中に不変はないと言っているように聞こえる。沙羅双樹の花の色は、盛んな者は必ず衰えることを表している。思い上がった者は長く続かない)
というものです。
また、涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈と呼びます。前半と後半に分かれており、前半は 「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」とあります。この前半偈は流転門。
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」とあり、こちらは還滅門と言います。
生滅の法は苦であるとされていますが、生滅するから苦なのではありません。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのです。この点を重視して忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場です。
なお涅槃経では、この諸行無常の理念を根本において、この世においては仏こそが不変のものであり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いています。
中国の宋の時代に記された「景徳伝灯録」では、釈迦牟尼仏がいよいよ入滅する(亡くなる)ときに、沙羅双樹の木の下で説いた言葉とされています。
これは「平家物語」の冒頭にも出てくる部分に関連しているので日本でも広く知られています。以下の部分です。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」
(祇園精舎の鐘の音は世の中に不変はないと言っているように聞こえる。沙羅双樹の花の色は、盛んな者は必ず衰えることを表している。思い上がった者は長く続かない)
というものです。
また、涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈と呼びます。前半と後半に分かれており、前半は 「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」とあります。この前半偈は流転門。
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」とあり、こちらは還滅門と言います。
生滅の法は苦であるとされていますが、生滅するから苦なのではありません。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのです。この点を重視して忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場です。
なお涅槃経では、この諸行無常の理念を根本において、この世においては仏こそが不変のものであり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いています。
意味の変遷
現在、日常的にこの四字熟語を使うことはほとんどありません。中学や高校の教科書などで「平家物語」が出てきたときにこの言葉が出てくるくらいです。また、元々が仏教用語であるために仏門の道では使われることはあります。そこで出てくるときも意味は基本的に変わらず、「世の中のもので不変のものはない」という意味で使われます。
使用法、使用例
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」(平家物語)