不惜身命の意味・使い方
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仏道のために体や命を惜しまないということ。
身や命をささげて惜しまないということのたとえ。また、その心構えのこと。
身や命をささげて惜しまないということのたとえ。また、その心構えのこと。
由来
もともと仏教用語で、自分の命を惜しまずに仏道に精進するということを言いました。「法華経」の「譬喩品」に以下の記述があります。
若(も)し人精進して、
常に慈心を修め、
身命を惜しまざれば、
乃(すなは)ち爲に(この経を)説(と)くべし。
このように仏教を自分が本当に理解するために命をも捨てる覚悟で仏門に入り、努力を続けるという心構えをあらわしたものなのです。また、修行の過程で、修行僧が周りの人や動物のすべてを掬うために自分の身や命を投げ出すという意味合いでした。
また、司馬遼太郎の「尻啖え孫市」に以下の文章があります。
「前後をとりまく雑賀兵は、信仰で凝りかたまった不惜身命の徒輩だから、むしろ死こそ望め、生を顧みようとはしない。」
前後に取り巻いている雑賀兵が不惜身命の連中である、といっています。ここで重要なのは雑賀の兵は戦国時代、一向宗に力を貸して織田信長と戦っていた集団であるということです。特に大坂の石山本願寺が信長に攻められたときは壮絶に戦い、雑賀孫市が織田信長を狙撃したという記録まで残っています。
一向宗はもともと浄土真宗の一派ですから、これのために戦うということは仏道に命をかけるということでもありました。そして仏門のために命をかけて戦い、もし命を落としたとしても極楽浄土に行くことができると信じられていたために、命を惜しまなかったのです。一向宗が戦闘に強かったというのは、こういう理由もあるのです。
若(も)し人精進して、
常に慈心を修め、
身命を惜しまざれば、
乃(すなは)ち爲に(この経を)説(と)くべし。
このように仏教を自分が本当に理解するために命をも捨てる覚悟で仏門に入り、努力を続けるという心構えをあらわしたものなのです。また、修行の過程で、修行僧が周りの人や動物のすべてを掬うために自分の身や命を投げ出すという意味合いでした。
また、司馬遼太郎の「尻啖え孫市」に以下の文章があります。
「前後をとりまく雑賀兵は、信仰で凝りかたまった不惜身命の徒輩だから、むしろ死こそ望め、生を顧みようとはしない。」
前後に取り巻いている雑賀兵が不惜身命の連中である、といっています。ここで重要なのは雑賀の兵は戦国時代、一向宗に力を貸して織田信長と戦っていた集団であるということです。特に大坂の石山本願寺が信長に攻められたときは壮絶に戦い、雑賀孫市が織田信長を狙撃したという記録まで残っています。
一向宗はもともと浄土真宗の一派ですから、これのために戦うということは仏道に命をかけるということでもありました。そして仏門のために命をかけて戦い、もし命を落としたとしても極楽浄土に行くことができると信じられていたために、命を惜しまなかったのです。一向宗が戦闘に強かったというのは、こういう理由もあるのです。
意味の変遷
このようにもともとは「仏道に対して」命をかけて臨む、という心構えを表していた四字熟語ですが、最近は仏道にこだわらずに、「身や命をささげて惜しまない」という意味で使われることが多くなりました。
大相撲の貴乃花が横綱昇進の際の口上として使用したことで、それまであまり目にすることがなかった人もこの言葉を知るようになりました。もちろん貴乃花は仏門に対して命をかけると言ったわけではありません。「これからも大相撲に対して命がけで臨む」という決意を表明したのです。このことからも近年は「仏門に対して」という意味では使われなくなってきていると言えるでしょう。
大相撲の貴乃花が横綱昇進の際の口上として使用したことで、それまであまり目にすることがなかった人もこの言葉を知るようになりました。もちろん貴乃花は仏門に対して命をかけると言ったわけではありません。「これからも大相撲に対して命がけで臨む」という決意を表明したのです。このことからも近年は「仏門に対して」という意味では使われなくなってきていると言えるでしょう。
使用法、使用例
「自分は自分が選んだこの道に不惜身命のおもいで、取り組んでいきたいと思います」
「素晴らしい心がけだ。ぜひがんばってくれ!」
「素晴らしい心がけだ。ぜひがんばってくれ!」