世界史

発明王エジソンの知られざる経営戦略

関連キーワード

はじめに

発明家として名高いエジソンは、多くの伝記において、「孤独を好み、人と協調できない偏屈な人物」という側面が取り上げられ、その特異性がエジソンを発明王にしたと誇張されがちです。
しかし、エジソンは非常に社交的であり、経営手腕も優れた人物でありました。
今回は、これまで取り上げられることの少なかった彼の実業家的な側面についお話します。

エジソンの子ども時代

エジソンの話でよくされるのが、小学校をわずか3ヶ月で退学してしまったということです。
しかし、19世紀のアメリカでは、教育制度はまだ整っておらず、教会などが運営する読み書き計算を中心とした授業が一般的でありました。
現在のような教育制度は、20世紀に入ってから作られたものです。
当時のアメリカは工業化が進み、読み書きと簡単な計算ができれば学校を卒業し、労働者として工場に働きに出るのが普通でした。
エジソンの母ナンシーは、父親が陸軍士官の家系であり、読み書き計算の素養はありましたから、すでに小学校に上がる前にはエジソンはすでに簡単な読み書き計算はできていたのかもしれません。
授業と関係のない高度な質問ばかりしてくるエジソンは、当時の教師からすると授業妨害ととらえられてもおかしくはありませんでした。
それよりも、小学校がエジソンに追いついていなかったのかもしれません。
そうして学校を退学したエジソンは、実家の地下室で実験に明け暮れるようになります。
実家の地下室での実験と並行して、エジソン少年はいわゆるアイデア・ビジネスにも興味を持ち始めていました。
12歳のときにエジソンは、実験費用を稼ぐために鉄道会社で新聞の売り子を始めます。
エジソンは乗客とのコミュニケーションを図りながら、ニーズを読み取り、売れる商品を増やしていきました。

電信士時代

16歳になったエジソンは、駅長から電信技術を教えてもらうことになります。
講義は5ヶ月程度で終わり、最先端技術を身に付けたエジソンは電信士として新たに活躍できる場を求めました。
電信士という仕事は、エジソンが発明ビジネスを始めるにあたり、きわめて重要な役割を果たしています。遠くにある情報をいち早く知ることができたからです。
電信士の仕事は世界中のビジネスや科学技術の動向を知り、時代の流れを読むことを可能にしました。
こうした状況は、エジソンが発明ビジネスをするにあたり有利な状況をもたらします。

白熱電球の発明へ

エジソンが他の発明家と違う点は、発明を一人で行うのではなく、組織で行ったことでした。
1876年、エジソンが29歳のとき、ニュージャージー州のメンローパークに研究所を設立します。
自前の研究所を構えたこと仕事の生産性や効率も上がり、この時期、いくつものプロジェクトが成功を収めています。
とりわけ成果として大きいのが、実用的な電話と、世界初の音声記録再生装置である蓄音機でした。
この二つは大ニュースになります。
この「メンローパークの魔術師」が次にどのような発明をするのか期待も大きくなり、メディアもこぞって取り上げました。
エジソンは次の発明として、電球事業への参入を表明します。
当時、白熱電球はイギリスの科学者ジョセフ・スワンがすでに発明していました。
しかし、スワンの電球は照明時間が40時間とわずかであり、実用化までには至っていませんでした。
エジソンの経営手腕はここから発揮されます。
白熱電球は、エジソンが一人で発明したものと思われがちです。
しかし、エジソンが実際にとった行動は、研究所の豊富な資金と人材を最大限に活かした物量戦でした。
白熱電球をつくるには、真空ポンプとフィラメントが必要です。
まず、エジソンは手を尽くして白熱電球に必要な真空ポンプを買い集めます。
そして研究所の技術者に、ポンプの改良を行わせて性能を高め、きわめて精度の高い真空状態を作り出すことに成功しています。
また、フィラメントにしても、様々な金属を集め、開発に着手しています。
エジソンはフィラメントを開発する材料を1000種類近くも購入しており、中には高価なものもありました。
しかし、自分の事業が成功すると確信していたエジソンは惜しげもなく資金を投入します。
研究所の所員を総動員して、5000種にも及ぶサンプルをつくり、実験を繰り返していきます。
フィラメントの開発は真空ポンプと比べて難航しましたが、それでも着実にエジソンの電球は寿命を伸ばしていきます。
そして、1879年10月、目標としていた照明時間がスワンの40時間を超え、45時間を達成したとき、エジソンの経営手腕がまたもや発揮されます。
エジソンは白熱電球の製法も同時に開発させていました。
そのため、すぐに同じ性能の電球を量産し、12月には公開実験を行って自分の白熱電球が実用的であることを大々的にアピールするのです。
このパフォーマンスが成功し、翌年1月には念願の特許を取得します。
先行して発明をしていたスワンは、エジソンの特許取得に異議を唱えましたが、最終的に資金不足のため自分の権利すらもエジソンに売ってしまいます。
こうして、法的にも、エジソンが白熱電球の発明者となったのです。

電灯システムの構築に尽力

エジソンが経営者として卓越しているところは、白熱電球の発明にとどまらず、町中を灯りで照らせる電灯システムを事業化しようと考えたところでした。
多くの発明家が、特許を取るか、権利を売ることで利益が取れればいいと考えていたところを、エジソンは事業化することでより大きな利益につなげようとしたのです。
エジソンは、1893年11月まで、電球の製造を独占できる権利を獲得します。
発電機の開発にも着手し、1982年にニューヨークにおいて世界初の大型発電所が稼動を始めました。
エジソンの開発した電力システムは、船での輸送も可能だったため、世界中に普及します。
日本では電球の発明が知られているエジソンですが、アメリカでは電力システムを事業化させ、世界に浸透させたことが評価されています。

まとめ

こうしてみると、エジソンは、数多くの伝記で誇張される「孤独を好み人と協調が取れないような」偏屈な人間では決してなかったことが伺えます。
さらに、エジソンはメディアや公開実験、デモンストレーションを利用して、会社の事業の賛同者を獲得するなど、外部に向けての立ち振る舞いが非常に上手な人物でした。
身近なものをビジネスにする発想に長けていたエジソンの経営的な側面は、現代のビジネスパーソンにとっても示唆に富んでいるといえるでしょう。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ