世界史

クリミア戦争が2人の偉人にもたらしたものとは? 看護学の祖「ナイチンゲール」、文豪「トルストイ」

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 19世紀ヨーロッパ、オスマン帝国がかつての輝きを失い傾きつつある頃、ロシアは不凍湖を求めて西へ東へと侵攻をはじめました。ロシアの動きに対して、イギリス、フランスは警戒を強め、東欧を中心に緊張状態が続くなか、1853年、クリミア戦争が勃発します。戦争の直接の火種となったのは、ロシアによるオスマン帝国領内のギリシャ正教徒保護の申し入れでした。オスマン帝国はこれを拒否、イギリス、フランス、サルデーニャ王国と連合を組んで、ロシアに対抗しました。3年間に渡る熾烈な攻防の末、オスマン帝国ら連合国が勝利し、1856年、パリにて講和が結ばれました。このパリ条約によって、オスマン帝国の領土保全や黒海の中立化が定められ、ロシアの南下政策は頓挫しました。

 このクリミア戦争の最中、二人の有名な人物が戦地に赴きました。一人は、イギリスのナイチンゲール。もう一人は、ロシアのトルストイ。一方は看護師として、一方は軍人として参加したこの二人の人物は、クリミア戦争をいかに体験したのでしょうか。そして、クリミア戦争の経験は二人の人生をどう変えたのでしょうか。

1.ナイチンゲール(1820-1910)

 近代看護学の祖、フローレンス・ナイチンゲールは、1820年5月12日、イタリアのフィレンツェで生まれました。彼女の名前は、フィレンツェの英称フローレンス(Florence)に由来します。裕福な地主階級であった両親のもと、フローレンスは、ラテン語をはじめとする多くの外国語や歴史など、幅広い教育を受けて育ちました。やがて、フローレンスは将来を人々に尽くすことこそ神の定めと感得し、看護の道を志します。しかし、看護学や医療体制の未熟な当時、看護師という職業の地位はかなり低く、いはんや、上流家庭の女性が看護師になるなどもってのほか。当然、家族は猛反対。しかし、フローレンスの意志は固く、求婚者をはねつけ、看護の勉学に励みました。

 1851年、ドイツのカイザーヴェルトで看護の経験を積んだナイチンゲールは、1853年、ロンドンで看護師としてのキャリアをスタートさせました。そして、クリミア戦争が勃発、戦地の悲惨な状況が伝わると、ナイチンゲールら有志の女性看護師38人は、トルコイスタンブールのスクタリへ向かいました。しかし現地の病棟の状況はひどく、医療品は不足、劣悪な衛生状態からコレラ等の感染症が蔓延、冬の寒さも追い打ちをかけました。

 ナイチンゲールはこうした窮状を政府に繰り返し訴え、1855年、レンキオイに画期的なプレハブ病棟が完成します。結局、レンキオイでの死亡率は低く抑えられ、プレハブ病棟は大成功でした。一方で、ナイチンゲールはスクタリの病棟改革にも着手します。ナイチンゲールは、兵士の死因は戦傷よりもむしろ、不衛生な処置にあることを見抜き、手洗い、換気といった病棟の衛生改革を進めました。彼女のこうした努力は身を結び、スクタリの死亡率は急速に改善へ向かいました。

 クリミア戦争でのナイチンゲールの献身的な介護は本国でも称えられ、彼女は「ランプの貴婦人」として有名となりました。また、彼女の活動に感銘を受けたアンリ=デュナンの提唱で、国際赤十字が設立されました。しかし、ナイチンゲール本人はクリミア戦争での活動に決して満足せず、看護学の発展に努めました。とくに統計学に基づいた合理的なアプローチを用い、クリミア戦争での兵士の死因を視覚的に表した「鶏のとさか」(下図)はナイチンゲールの代表的な功績です。また、看護師教育にも尽力し、聖トマス病院に看護学校を設立、看護師の指針として『看護覚書』(Notes on Nursing)を著しました。

 看護学の礎を気づいたナイチンゲールの足跡は、今でもさまざまな形で残されています。たとえば、彼女の誕生日である5月12日は国際看護師の日に定められています。また、彼女の精神をもとに1893年、アメリカで起草された「ナイチンゲール誓詞」(Nightingale Pledge)は、「ヒポクラテスの誓い」と並んで看護の基本精神として現在でも受け継がれています。

2. トルストイ(1828-1910)

 セヴァストーポリ。クリミア戦争で最も熾烈な応酬が繰り広げられた激戦地として記憶されるこの町に、1854年11月、26歳の若きロシア人少尉が派遣されました。彼の名はレフ・トルストイ。のちに『戦争と平和』、『アンナ・カレーニア』によってロシアの文豪となるあのトルストイです。

 裕福な家庭に育ちながらも、早くに両親を亡くし、放蕩のあまり学業成らずして大学を中退した若きトルストイは、1851年軍に志願してコーカサス戦線に赴きます。翌年には、処女作『幼年時代』によって作家としての注目を得ています。

 トルストイがセヴァストーポリに向かう頃、すでに戦況は厳しく、ロシア軍は近代的な兵器を擁する英・仏の激しい攻勢を受けていました。どこから弾が飛んでくるかわからない、緊迫した塹壕戦のなかにトルストイは身を投じたのでした。

 セヴァストーポリでの従軍経験を、トルストイは3編の作品にまとめています。1854年12月、1855年5月、1855年8月のセヴァストーポリの様子をスケッチした3編のうち、はじめの2作は戦地で、最後の作品はペテルブルクで書き上げられ、雑誌『現代人』に掲載されました。これら3編は、すぐさまロシアの読者から人気を博しました。この3編は、岩波文庫から中村白葉による日本語訳が出版されています。(以下の引用は岩波文庫版に基づきます。)

 最初の第1編は、1854年12月セヴァストーポリの様子をガイドするかのような素描的作品。読者はトルストイの叙述のまにまに、戦場を目撃します。黒海を朱に染める日の出、刺すような寒気、朝の静けさをやぶる海の音、そして時たま鳴り響く砲声、こうした朝の静かな情景を描く冒頭から、激しい戦いを終え、日が沈むまでのセヴァストーポリの1日が描写されています。この作品を特徴づけるのは、トルストイの虚飾を排した叙述です。「もし君が初めてセヴァストーポリへ来たのだとすると、君はきっと幻滅を感じるに違いない。せめて一人の面上にでも君がもし、齷齪、狼狽、または熱狂、決死、覚悟等といったものの痕跡を求めようとするなら、それはもう徒労に終るに決まっている、そんなものは何ひとつありはしないのだ。君の眼にするのは、平然として日常の営みに従事している、常と変わらぬ人々である。」(p.9)

 しかしながら、トルストイの筆致は冷たい訳ではありません。危険地帯第四稜堡を巡る、誇り、恐れなど兵士たちの交差する感情をトルストイは捉え、彼ら兵士たちを突き動かす祖国愛を称えます。一方で、怪我に苦しむ悲惨な戦況も書き逃すこともありません。訳者の中村白葉はこの作品を次のように評しています。「(この作品によって)戦争文学にありがちな、不自然な理想化や誇張の少しもまじらぬ、戦争の真実を知ることができるのである。しかもそれはただの真実だけではない、無韻の詩が加味されているので、一見単なるスケッチにすぎぬかのような記録が、一個不朽の芸術品として永遠の生命に輝くのである。」(p.202)

第2編では、ミハイロフやブラスクーヒンといった登場人物に光があてられ、第1編にくらべると、人間個人の描写に重きが置かれています。臆病を晒すまいと虚勢を張る兵士たち、戦場で恐怖に取り憑かれるカルーギン、長期間の戦闘でもはや虚栄や恐怖を脱してしまった少佐など、様々な感情を抱える登場人物たちが、等身大の人間として描かれます。とりわけ、ブラスクーヒンの死の瞬間の描写は、中村白葉の言葉を借りれば、「ほとんど病的にまで発達している」トルストイの精緻な分析の光る、作品中の白眉。『イワン・イリイチの死』で静かな、しかし確実な死の歩みを書いたトルストイですが、ここでは瞬間的に訪れる死を、あたかも読者が追体験するように書き上げています。トルストイはこの第2編の最後に、3編を貫く基調低音をよく表した一節を書き残しています。「この物語の悪人は誰で、主人公は誰であるか?すべての人がよく、すべての人がわるいのである。」(p.91)そして、この問いに対してトルストイは答えます。この作品の主人公は「真実」であると。

 第3編は最も長い作品で、ミハイルとウォロージャの兄弟を中心にした物語です。戦場を知らないウォロージャの揺れ動く心境、いつ死ぬかわからぬ生活のなかでカード遊びに興ずる兵士たち、神の沈黙、荒廃したセヴァストーポリ、そういったものが、前2編に劣らぬ精度で描かれていきます。ウォロージャの生々しい心情は、きっと若きトルストイの心情でもあったことでしょう。

 全編を通して際立つのは、やはり叙述の正直さでしょう。この作品には超人的な英雄は一人も出てきません。トルストイは、美化された戦争、ロマン化された戦争が虚飾でしかないことを我が目で見てとり、後年の作品にも通ずる徹底さで描き上げました。『セヴァストーポリ』3編に登場する兵士たちは、みな恐怖も抱けば、名誉心もあり、ときに戦争を忘れて賭け事に夢中になり、笑うこともあれば泣くこともある、等身大の人間です。トルストイの見たクリミア戦争とは、英雄たちによる叙事詩ではなく、普通の弱い人間たちの気高くも悲惨な物語であったのです。
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