日本史

【これを知ればあなたも平安貴族!?】平安時代の風物詩カレンダー!

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20世紀オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガは、人間を「ホモ・ルーデンス」と表現しました。「ホモ・ルーデンス」とは「遊びをする類」。ホイジンガは人間の本質を遊び、遊戯性にみたのでした。

 時は移って平安時代。寝殿造の豪華な家に住み、政務を行っていた平安貴族もまた、様々な遊びをしていました。なかでも、季節ごとに行われる風雅を極めた年中行事は、平安貴族を夢中にさせました。幸いなことにわれわれは、『源氏物語』や『枕草子』、『蜻蛉日記』などの作品の記述を通じて平安貴族の年中行事の様子の一端をうかがうことができます。

 平安時代にはどのような行事やお祭りが催されていたのでしょうか。いにしえの宮の風物詩も、意外なところで現代と接点があるかもしれません。

(注)平安時代は陰暦を使っていました。したがって、いかに登場する日付はすべて旧暦で、現代とは微妙に季節感が異なります。

曲水宴(3月)

3月3日に行われた和歌の催しです。読みは「きょくすいのえん」あるいは「ごくすいのえん」。

宮の中庭にある、遣水や曲水とよばれる小川が会場となります。貴族たちはその遣水に沿って座り、上流から酒の注がれた杯が流されます。貴族たちは、杯が自分の目の前を通り過ぎる前に和歌を即興で詠み、流れる杯を取って酒を飲んで、再び杯を川へ戻さなければなりません。この「和歌早詠み大会」のようなイベントは中国に発祥し、『日本書記』にも記述がみえます。

 こんにちでも、平安時代の優美な曲水の宴を行うイベントが各地で催されています。福岡の太宰府天満宮、京都の賀茂別雷神社、岩手平泉の毛越寺の曲水の宴はとくに有名です。十二単や衣冠束帯に身をつつんだ風景は平安時代を彷彿とさせることでしょう。

リンク:太宰府天満宮の曲水の宴
http://www.dazaifutenmangu.or.jp/sanpai/saiten/special/kyokusui

葵祭(4月)

 平安貴族たちの最大のイベントが、京都の下鴨神社と上賀茂神社で開催される「葵祭」でした。

時期は、旧暦暦四月の中の酉の日、現代の暦では5月15日にあたります。下鴨神社から上賀茂神社へと壮麗な行列が歩みをすすめる姿を見るために、多くの貴族が我先にと見物にかけつけました。祭りに参列する貴族たちは、髪の毛や牛車に葵のかんざしを挿して飾るのが特徴です。葵は「あふひ」、つまり「会う日」と音が通うため、「神様にお目見えする」という意味がこめられているといわれています。葵祭りに際しては、「あふひ」を掛詞にして貴族たちはよく恋の歌を詠んでいます。

文学作品にも葵祭りは頻繁に登場し、単に「祭り」といった場合には葵祭を指すほどです。たとえば、『源氏物語』における六条御息所と葵の上が見物席をめぐって喧嘩する「車争い」の場面はことに有名です。清少納言も、『枕草子』第5段において、祭りに色めく貴族たちの様子を生き生きと描写しています。

 京都の下鴨・上加茂神社では、こんにちでも5月15日に葵祭りが行われており、毎年選ばれる「斎王代」は注目を集めています。

重陽節(9月)

 9月9日、9が重なる日は「重陽節」といわれ、宮中で催しがなされます。

9が「陽」とよばれるのは陰陽思想の考えによります。陰陽思想では、9は陽の数とされる奇数の中で、もっとも強い陽の気をもっており、それが重なることで陽が強すぎることを恐れたことが、重陽節の起源であるといわれています。重陽はのちに吉日となりました。

 重陽の日になると、音楽や舞などの宴がなされますが、重陽節のお祭りには「菊」が重要な役割を演じます。とくに有名なのが『紫式部日記』に登場する「菊のきせ綿」というならわし。重陽の節句の前日の夜に菊の綿を身におおい、翌日そのきせ綿で体を拭くことで老いを避ける、という習慣があったのです。紫式部は道長の側室倫子にいただいた「菊のきせ綿」について、次のような歌を詠んでいます。

菊の露若ゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむ
(私は若返るくらいに袖をぬらすほどでいいので、千年の命は花の持ち主であるあなたにゆずりましょう。)

紫式部はあいかわらず「おべっか上手」ですね。

追儺

「ついな」と読む、難しい漢字を名前にもつ年中行事ですが、実はわたしたちにも馴染みのある行事です。

「追儺」はまたの名を「おにやらい」といい、旧暦の大晦日に行われました。もうおわかりでしょうが、節分のモデルになったと考えられているのが、この追儺なのです。追儺の起源は中国で、疫病や厄払いの意味があります。

 日本で追儺の日に見られた情景は次のようなものであったようです。大晦日の日、「方相氏」とよばれる官人が、四つ目の黄金の面に黒と朱色の着物という出で立ちで、盾や矛をもって宮中に参入します。続いて、方相氏は大音声をあげて鬼を追い払い、ほかの官人たちも矢を引くなり、矛をつくなりと加勢する。

こうして新年に向けて無病息災を祈るのです。追儺において鬼退治の先陣を切る「方相氏」ですが、面白いことに時がたつにつれて立場が逆転し、いつのまにやら自分自身が鬼に見なされることもあったようです。

 ちなみに、こんにち一般に行われている、豆を投げて鬼を退散させるというならわしは室町時代ごろから始まったといわれています。(『平安朝の生活と文化』池田亀鑑 ちくま学芸文庫)
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