趣深い松江城は何故「千鳥城」と呼ばれ、高松城は何故「海城」と呼ばれるのか?

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1 松江城

 山陰の地で今も建設時の天守を唯一残しているのが松江城です。築城者は関が原の合戦で徳川に味方して功績のあった堀尾吉晴です。城の工事は慶長12年(1607年)に始まり、足掛け5年の歳月をかけて完成をみたといいます。

 以来、堀尾氏3代、そして京極忠高の治世を経て、寛永15年(1638年)には家康の孫にあたる松平直政が入城し、以後直政から10代234年にわたって松平時代が続き、やがて明治の維新を迎えるに至ります。

 城は標高29メートルの亀田山上に築かれました。縄張は梯郭式で、最高所に本丸、その北から東に腰郭と中郭、一段下がった南に二の丸を上下二段にかまえ、これらを内堀が取り囲み、南東に大手門が開きます。二の丸の一段下には三の丸をおいて外堀で囲み、城の防衛にあたりました。

 姫路城や彦根城は白漆喰塗籠造りの壁がほとんどですが、松江城に白壁は少なくなっています。外壁の大部分は「下見板張り」と呼ばれる古い様式のもので、黒く厚い「雨覆板」で覆われています。これは煤に漆を混ぜて黒く塗ったものであり、板材が腐らないようにという防腐剤代わりという意味があります。また、松江の冬は雪が多いため、その湿気を防ぐという意味もあります。

 煤と漆で黒く塗られた板張りの平城には「千鳥城」という優美な別名があります。その由縁は、ちょうど千鳥が羽を広げた格好に見える曲線を持った三角屋根を「千鳥破風」と言い、松江城の天守にはそれが東西南北の四方に乗っていることから千鳥城の名前がついたとされています。また、天守の南側に見える宍道湖には千鳥が多く生息しているので、そこから千鳥城の名前が出たという説もあります。

 この地は元々地盤が弱く、工事は非常に苦労したようです。石垣を組んでもすぐに崩れ始めたり、建ててもすぐに傾いたりしたといいます。そのため、建築当初には工事を無事に済ませるために人柱をたてるということもあったということです。いくつかの話が伝わっており、城下で踊りが上手な美しい娘をさらってきて、有無を言わさず埋め殺したりしたそうです。また、築城者の堀尾吉晴の旧友と名乗る虚無僧を人柱に埋めたという説もあります。しかし、この直後、堀尾父子は急死し、堀尾家が断絶改易されたことでこれは人柱の呪いであると噂されました。

 この築城地をめぐっては堀尾吉晴と忠氏の父子の間にかなりの意見対立がありました。吉晴は宍道湖に突き出した洗合山を候補地にあげ、忠氏は亀田山を主張します。父子の意見は一致を見ないまま、突然、忠氏は急逝してしまうのです。

 その死にまつわる説があります。忠氏は築城の候補地として各所を調査して歩きましたが、あるとき国主でも入れない「禁足地」とされている神域に周囲の反対を押し切って足を踏み入れました。しかし、そこから戻ってきた忠氏の顔は紫色に変色し、あきらかに様子がおかしかったようです。帰城した忠氏はそのまま病床に伏し、そのまま28歳の短い生涯を終えます。側近たちは「禁足地に踏み込んだ神罰」と恐れましたが、最近では毒蛇に噛まれたとする見方が一般的です。そんなわが子の不幸があって、吉晴は自身の意見を撤回。遺志を尊重して亀田山に築城したのです。

 この松江城は数少ない天守が現存している城であるため、国宝指定に向けての運動は昭和30年代からありました。そのときは見送られましたが、2015年についに天守が国宝に指定されたのです。

2 高松城

 天正16年(1588年)、讃岐国へ入った生駒親正は、讃岐平野の北端、香東川河口の三角州に高松城を築きました。その後、生駒氏4代目の高俊のときに起こった生駒騒動の結果、生駒家は領地を没収され出羽に流罪となり、堪忍料として1万石だけ与えられました。

 天領となった讃岐国には親藩大名の松平氏が入ります。現在の城はほとんどこの時代のものになります。

 城は全国的にも珍しい水城です。北は海、東は干潟、西は山で囲まれ、海水を引き入れた堀を三重にめぐらせています。現在は中堀の一部と内堀が残っている。

 縄張は本丸から右回りに二の丸、三の丸とつながる渦郭式でした。中心の本丸は隅櫓と多聞で取り囲み、東部に三層五階の天守があります。この郭から二の丸につながる廊下橋を切り落とすと四方を水で囲まれた浮城になります。

 二の丸、三の丸は中堀で囲み、その外郭部に武家町・町人町を形成しました。

 外堀はいずれも海に通じ、要所に水門を設けて水量を調節しました。のちには三の丸の東部・北部を東の丸・北の丸とし、北の丸には月見櫓や水手御門をつくって海への出入り口としました。水手御門が海側の大手門の役を果たしたのです。

 瀬戸内海や大湖沼に面した地域では海水・湖水を利用して防御に役立てる城が築かれました。これが水城で、高松城のように海に面していれば海城ということになります。

 水城の例としては、諏訪湖の高島城や琵琶湖の膳所城があります。海城の例としては高松城のほか、赤穂城や今治城があります。愛媛県の能島などは島全体を城郭化して、海賊城・水軍城などとも呼ばれました。

1、桜の名所、弘前城

弘前城は岩木川と土淵川に挟まれた南から北へ緩く傾斜する台地の上に立ちます。

東西600m、南北1000m、総面積50ha。この地はかつて鷹が住んでいたというので、鷹岡という地名もあったところです。城は本丸、二の丸、三の丸と張り出す梯郭式の縄張を持ち、さらに西の郭、北小丸、四の丸までを加えてすべてで六郭をかまえる壮大な平山城です。

城の塁壁は本丸を除いて土塁で構築され、本丸の南西角には五層の天守が作られましたが落雷にあって焼失し、南の辰巳櫓を改造して代わりの天守としました。これが現在の天守です。二ノ郭丑寅櫓は慶長の築城当時のものと言われ、重要文化財指定の3棟の一つです。城門では二ノ郭南内門、北ノ郭北門、三ノ郭追手門、三ノ郭東門、三ノ郭東内門の5つが現存しています。

この弘前城は、戦国時代に津軽地方を統一した藩祖、津軽為信が慶長8年(1603年)に築城を計画し、2代藩主信牧が慶長15年(1610)に着工、翌16年にほぼ完成しました。以来、津軽藩代々の居城として使用され、明治の廃藩を迎えるまで260年の風雪を生き抜いて、なお今も創建時の面影を色濃く留めています。

津軽藩の石高は江戸期には10万石に増えましたが、当初はわずかに4万7000石でした。しかし、弘前城の構えは30万石の大名の居城にも匹敵する堅城ぶりを誇りました。その理由は隣国の南部藩との確執であったようです。もともと津軽の地は南部氏の所領でした。しかし津軽為信は南部氏の支配を嫌って津軽の地を自力で切り取って独立しました。そのため南部氏の攻撃に備えるため実際の石高以上に堅い守りを施したのです。

天守には矢挟間や石落としなどが設けられ、本丸入り口には馬出郭が構築されています。防御の薄い城外南方では茂森山を削り、山と長勝寺との間に掘りをほって土居を築きました。弘前城は桜の季節や雪景色の素晴らしさで有名ですが、場内や城外の造りを見ながら櫓や門を見て回るのも良いものです。

2、取り壊されずに残った弘前城

津軽の地を為信に統一された南部氏は、その所領奪回を幾度も試みました。これは為信が南部信直の父である石川高信を奇襲で殺害したことが原因とされています。そのために信直は父の仇がとれない臆病者として扱われることが許せず津軽氏を執拗なまでに敵対視することになったのです。特に養父である南部晴政からの仕打ちは冷たく、廃嫡されてしまいます。しかし戦略眼に優れた為信は当時、天下人としての地位を固めつつあった豊臣秀吉にいち早く接近しました。

天正18年(1590年)の小田原攻めには自ら兵を率いて秀吉の陣に馳せ参じました。そして秀吉亡き後に起こった慶長5年(1600年)の関が原の戦いのときには徳川家康に与して津軽の所領安堵の約定を取り付けたのです。本州最北端という僻地にいながら常に中央の情勢を敏感に読み取って、津軽の小大名が戦乱の時代を生き抜く道筋を切り開いていったのです。その後も南部氏の為信への恨みは深く、両藩の確執は江戸時代に入っても長く持ち越されていきます。

また、そんな時代を読む藩祖の嗅覚は代々の藩主にも受け継がれていきます。

明治維新に際しては東北の諸藩は徳川方の旧幕府軍について賊軍の汚名を着せられましたが、津軽藩は官軍(新政府軍)に味方しています。そのため他の東北諸藩の城は取り壊しにあいましたが、弘前城だけは破棄を免れました。そうして現存する天守、櫓3棟、城門5棟はどれも重要文化財に指定されています。

3、弘前城の天守に象徴される津軽の“じょっぱり”気質

記でも述べたとおり、現在弘前城で一般に「天守」の名で呼ばれているのは本来の天守ではありません。創建時の5層の天守は寛永4年(1627年)に落雷のため焼失しました。現存する3層の天守は後世に造営された「隅櫓」です。この3層の建物は、人目に触れる2面には切妻屋根を架け、いかにも天守らしい風格を保っています。しかし裏側の2面は質素なままです。文化5年(1808年)に石高が当初の倍の10万石に高直りした際に、それなりの格式を保つために造営したのです。周りの諸藩に対して見栄を張ったわけで、これを天守と呼ぶようになったのも昭和の戦後になってからのことなのです。

よく津軽人気質を称して“じょっぱり”と言いますが、これは「良い振りをして意地を張る」という意味合いです。この限りなく天守に似せた隅櫓の造営の裏にも津軽人のじょっぱり気質が見え隠れしています。

4、山陰の名城、松江城

山陰の地で現在も建設時の天守を唯一残しているのが松江城です。築城者は関が原の戦いで徳川に味方して功績のあった堀尾吉晴です。西日本の城には姫路城や彦根城のように白漆喰塗籠造りの壁が多いのですが松江城は城壁は少なく、「下見板張り」と呼ばれる古い様式のもので黒く厚い「雨覆板」で覆われている戦国気質が強く残る城です。

実戦本位さは天守の石垣にも見えます。自然石を積み上げた古い様式の牛蒡積です。これは少し長めの石を集めて、太いほうを内側に、細いほうを外側に向けて積み、その隙間には小石を詰めるという方式です。江戸以降に造られた城に多い切込接など石を加工して、しっかりと面を揃えて積んだものは石を抜いていくと崩れてしまいます。その点、牛蒡積は中が太いので抜けません。かえって頑丈になるのです。また戦いの時には隙間に詰めた小石を抜いて敵に投げつけることもできます。非常に実戦的なのです。また、松江城の5層6階の天守の各階を繋ぐ急勾配の階段は全て桐材で、しかも取り外しが自由です。桐は虫にも強く、火にも強いですし軽い素材です。負け戦の時には天守に逃げて階段を外して上に引き上げることで敵の最後の侵入を防ぐことができるのです。

また、天守各層の屋根には鬼瓦が欠かせませんが松江城の鬼はかなり古い時代の様式で、角を持たないのが特徴です。しかもひとつひとつの鬼が異なった珍しい面相を見せているのが興味を引きます。

いわば松江城は実戦本位の無骨な体裁の中に、桃山風の荘厳優美な趣を併せ持つ城なのです。当時の豊かな教養を身につけた勇猛な戦国武将のような風情を感じることができる名城です。
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