世界史

奴隷制度の維持を支持した南軍の理由とは

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日本とアメリカの親密な関係が当たり前となった現代に住む日本人にとって、アメリカの歴史における疑問点のひとつが、「南北戦争」ではないでしょうか。

1860年に江戸城下にて幕臣のトップである大老・井伊直弼が水戸脱藩浪人らによって暗殺された「桜田門外の変」というクーデターで、明治維新に至る政治的激震が始まった翌年、北アメリカでは国をまっぷたつにした内戦が始まりました。

アメリカという移民国家が北と南に分断された原因は、「あなたは、奴隷制度を維持したいですか?それとも廃止したいですか?」というひとりひとりの意志の違いによるものでした。

自由の国アメリカで、その時何が起こったのか紐解いてみましょう。

なぜアメリカには奴隷がいたのか

アメリカを植民地にして富を荒稼ぎしていたのは、アメリカ先住民族が住む土地を占領し、そこにプランテーションや鉱山を運営していたスペイン国民でした。

彼らは占領下にあった先住民族たちを使役し、奴隷のように働かせたのです。

アメリカでの収益が上がるにつれ、プランテーションその他も拡大し、アメリカに一山当てに移住するスペイン人も増加したために現地の先住民族が不足状態になりました。

すると今度はアフリカから黒人奴隷を連れてきて、彼らと一緒に働かせることにしました。

18世紀になり、海の覇権をスペインから奪取したイギリスが、アメリカにある植民地の主となりました。

北米東海岸からどんどんと植民地を広げたイギリスは、やがてカナダからミシシッピ川流域に及ぶ植民地を支配していたフランスと覇権争い(フレンチ=インディアン戦争)をし、勝利します。

そして、権力も財力も自由となったアメリカ在住のプランテーション主たちは、イギリスが要求する横暴な条約や税に猛反発を表明するようになり、アメリカ独立戦争の火蓋が切って落とされたのです。

南軍が奴隷制度維持を主張した理由は?

「アメリカ合衆国」として独立したものの、その存在はヨーロッパ中心の世界情勢の中では生まれたての赤子同然であり、国家を潤す国内産業構造も未熟なものでした。

アメリカ国内でも先進していた北部では、ヨーロッパからの移民を労働力として受け入れ、工業製品を国内自給販売することで安定した経済を成り立たせようという考えが主流でした。

そのためにはヨーロッパ製品に高い関税をかけ、価格競争で勝つことが工業主たちの望む政策でした。アメリカがヨーロッパとの軋轢のない対等な関係となるべく、品位ある先進的国家として好印象を持って受け入れられるよう、様々な政治的努力が行われていました。

しかし、独立後に急速に開拓された比較的後進の南部では、逆に未開の土地を広々と使えるプランテーションがますます主力となりました。

需要のあるヨーロッパ市場に安価なアメリカ製の農作物の輸出量を増やすために、プランテーション主同士の意思決定で商売ができるよう、各州の自治を望んで関税を低くすることを政府に求めていました。

この広大なプランテーション運営を可能にするのが、体が頑丈でよく働く黒人奴隷の存在だったのはいうまでもありません。

アメリカで調達した武器や綿花を含む農作物をアフリカ西海岸で卸し、売上から黒人奴隷を仕入れ、アメリカ南部で奴隷市場にかけるという売買サイクルもできあがっていました。

その頃ヨーロッパでは、それまで直視されることが少なかった黒人奴隷の生涯をリアルに描写した「アンクル=トムの小屋」が一大ムーブメントとなり、世論が人権の尊重に大きくシフトして「奴隷制は廃止すべき」と言う声が主流になっていました。

そのヨーロッパに同調したいアメリカ北部は、イングランド系移民を安価な労働者としてすでに産業に組み込んでいたので、あえて黒人奴隷制度維持を支持する必要はありません。

アメリカ北部の民意は「奴隷制をやめてヨーロッパの一部という対等な立場を認めてもらいたい」というものでしたが、アメリカ南部の民意は今の感覚で言うところの「電気・ガソリン」に近いライフラインのような黒人奴隷を、北部を利するためだけに廃止されたら、自分たちの生活は立ちいかなくなると猛反発したのです。

南北戦争は、奴隷解放を勝ち取るための戦争

国の半分が奴隷制度維持を主張し、もう半分が奴隷制度廃止を主張する情勢下、どちらを選ぶかはその州の住民投票により決まるため、それを巡っても住民同士が武力闘争に発展する危機的状況となったアメリカに、ひとりの大統領が誕生しました。

リンカーンは北部・西部に支持基盤を持つ共和党から選出され、大統領となってから奴隷制度維持・拡大の阻止を表明しました。

これに南部七州が反発して合衆国を離脱し、「アメリカ連合国(南部連合)」を宣言したのです。

そしてついに、奴隷制度維持か否かを巡り、1861年に「南北戦争」が始まりました。

「この戦争はただの内乱ではなく、奴隷解放を勝ち取るための戦争である」とヨーロッパに宣伝することで、綿花や農産物目当てに南部連合と手を組もうとしたイギリス・フランスらを牽制し、戦いを有利に進めていたリンカーン大統領によって、1863年に「奴隷解放宣言」が発効しました。

解放奴隷となった黒人たちは、奴隷制度維持に固執する南部から北部へと結集してこれを支持しました。ヨーロッパの世論の後押しと援助のもと、「ゲティスバーグの戦い」に勝利したのです。

「人民の人民による人民のための政治」という言葉は、奴隷制度維持という結束を失った南部連合の農場主たちにどのように響いたのでしょうか。

まとめ

1865年、観劇中のリンカーン大統領は南部連合支持者によって暗殺されました。

黒人奴隷だった祖先の血を引くアメリカ国民は、解放されてもなおしばらくの間、日本でいう所の水呑百姓のような劣悪な契約関係を強いられながら、農場で懸命に働き続けました。そのいびつな雇用関係の影響は、現代にまで及んでいます。

奴隷制度維持にすがった南部連合の在り様を、私たちは反面教師として忘れてはならないのかもしれません。
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