城の防衛重要拠点。櫓と御殿

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城の防衛重要拠点。櫓と御殿

 城には多くの櫓があります。櫓は矢倉・矢蔵とも書き、城の防御と武器・食料の貯蔵とを目的とする建物です。

 主な櫓の名称をあげると、まず「隅櫓」があります。郭の隅の塁上にある独立の櫓です。2~3層が多く、普段は倉庫として使われ、戦時には側面防備にあたります。江戸中期以降、天守に代用されたものも多くあります。

 「多聞櫓」は城壁の上に長く連なる長屋的な櫓です。塀と倉庫の役割を兼ねます。一層のものが多いですが、二層のものもあります。多聞櫓の語源は戦国大名松永久秀の多聞山城で最初に作られたからだと言われていますが、一説には楠木正成が北方守護の多聞天を櫓に祀ったからだとも言われています。とにかく武将は神仏を崇敬しており、古代の筑紫大野城では四天王を祀ったといいます。安土城の地下には宝塔がありました。

 「渡櫓」は櫓や天守を連結する櫓です。下を門とする櫓門になることもあります。
渡櫓は武士たちが往来するので武者走りとも呼ばれます。姫路城の渡櫓は東小天守と乾小天守をつなぐもので、長さは30m近くなっています。左右に並ぶ武者窓からは矢や弾丸を放ち、突き当たりの隅には石落しもあります。まさしく堅固な防衛線となっているのです。

 姫路城にとって、西の丸はそれ自体本丸防衛の郭でした。化粧櫓から西にのびる渡櫓は侍女たちが住んだところとされていますが、長局と呼ばれるその外側は武者走りで「百間廊下」の異名がありました。外壁は塗り込めで武者窓・狭間・石落しも備わり、軍事性がきわめて強くなっています。

 櫓はその位置・形状・機能などにより名称がつけられることもあります。 辰巳櫓・乾櫓は方位、菱櫓は形状からですが、彦根城の天秤櫓も隅櫓を多聞でつなぎ中央に櫓門を開く形が計量器の天秤に似ているところからついたものです。

 機能からついたものには太鼓櫓・時鐘櫓・鉄砲櫓・井戸櫓・人質櫓や入城者の到着を記録する着到櫓などがあります。

 また、風流な櫓もあります。月見櫓・潮見櫓・富士見櫓など各地にあります。千姫の輿入れにちなんでつけられた姫路城の化粧櫓には、畳の部屋が三室残されています。

2 御殿

 城主は本丸か二の丸に設けられた御殿に住んでいました。政庁をかねた書院造の建物で、城主の権勢を反映するものでした。

 のちには城外に下屋敷とよぶ別邸をつくりました。ここは私的な休息の場で数奇屋風の建物が多くなっています。秀吉は大坂城内、本丸の北に山里丸を設け、閑静な環境の中に茶室を建てて憩いの場としています。

 残念なことに、城内の豪華な御殿は現在ほとんど残っていません。第二次世界大戦までは名古屋城本丸御殿がありましたが、それも戦災で焼失しました。当時のありさまが偲べるのは二条城二の丸御殿ぐらいです。

 各地の有名寺院などに当時の面影を伝える建物があります。西本願寺書院は伏見城、横浜の三渓園臨春閣は聚楽第の別殿の遺構と伝えられてきましたが、ともに江戸前期の建築であることが明らかになりました。西本願寺書院は豪華な大名御殿を偲ばせますし、臨春閣は紀伊徳川氏が紀ノ川沿いに建てた別荘の一部で、数奇屋風住宅の味わいがでています。

3 二条城二の丸御殿

 堀川通に東面する二条城は、徳川将軍の京都における居館として17世紀初めにつくられました。城は南北約400m、東西約530mの外堀に囲まれています。入り口は東大手門、堂々たる櫓門で将軍の居城の正門としての風格を持ちます。

 入ったところが二の丸、伏見城から移したという豪華な唐門を入ると6棟の雁行する二の丸御殿があり、その南西に池を囲む二の丸庭園があります。

 その西に内堀で囲まれた本丸があります。かつてはその南西部分に五層の天守がそびえていましたが、現在は天守台を残すだけです。郭内には明治になって桂宮家から移築された建物があります。入り口は軒唐破風も見事な車寄で、ここから大名御殿が始まります。

 遠侍は登城した大名や家臣たちの控えの間で、一辺30mを越す方形の平面に8室をもつ二の丸御殿群中最大の建物です。金碧濃彩の襖絵と天井画、見事な欄間彫刻は早くも見学者を圧倒します。

 式台は登城した大名を将軍に取り次ぐ場所です。入側縁に沿う柱間五間の座敷の壁面いっぱいに巨大な松が描かれています。

 大広間は将軍と諸大名の公式対面所で二の丸御殿の中心です。一の間は上段の間で、天井は二重折上格天井、正面に床と違い棚、左に付書院、右に将軍が出入する帳台の間があり、壁面いっぱいに狩野探幽の描いた松の絵が展開しています。まさに武家書院の典型となっています。

 蘇鉄の間は大広間と黒書院とのつなぎの間です。壁面と出入口の杉戸に蘇鉄が描かれていたので、この名があります。

 黒書院は将軍の内向きの対面所で小広間ともいいます。違い棚が二つあるなどの違いはありますが、ほぼ大広間の配置をひとまわり小さくしたようになっています。

 白書院は最奥部にある将軍の日常生活の場所で御座之間とも呼ばれていました。黒書院をひとまわり小さくしたような配置ですが、襖絵は黒絵淡彩の山水画で、雰囲気がそれまでと大きく変わっています。
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