日本の城の大元、百済の山城

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1 百済の山城の起源 

 日本の城は朝鮮、とくに百済の山城を見本にしたものから始まっています。では、日本の様々な城の見本となった百済の山城はどのようにしてできていったのでしょうか?

 まず集落のまわりに堀を掘って土を盛り上げて土手をつくったり、杭や木柵をめぐらしたりする環濠集落は、日本の縄文時代、弥生時代に各地でつくられました。環濠集落の一般化は、村同士や集団同士が激しく争っていたことがわかります。

 このころ農耕にも生活にも適さない山丘の上に、戦争の際の防衛的役割をもつ集落がつくられたのです。城の機能を持つ高地の集落の出現はまさに戦いの時代を象徴するものとなりました。

 そして、日本ではどんどん城や柵と呼ばれるような、防衛施設ができていきます。日本では「城」も「柵」も「き」と読みますが、「日本書紀」によると「垂仁紀」に狭穂彦が稲を積んで城をつくり、天皇に抵抗したこと、「崇峻紀」に物部一族が稲城をつくって蘇我氏や聖徳太子の軍と戦ったことなどを記しています。こういった柵などを使った施設も大陸から伝わったものです。

そして朝鮮半島と関わりが深い九州北部や中国地方西部には「神籠石」とよばれる巨石列があります。明治後期に福岡県の高良山の石列が報告されたのを初めとして、福岡県の女山や山口県の岩城山などの類似例が発表され、神籠石と称されました。神籠石とは、その名称でもわかるように当初は神の霊域=神奈備説が有力でしたが、最近では朝鮮式山城の影響の強い山城だとする説が確定的になっています。現在は九カ所の神籠石が国の史跡に指定されています。

 石城山の神籠石の平面図によれば、列石は海抜357mの山頂から谷を囲んで総延長2600mに及びます。おそらくこの上に高さ8mほどの土塁がつまれたのでしょう。山姥穴とは水門の跡で、石壁がきずかれ、通水溝が設けられています。

 神籠石はどうやら大和政権の力によって6~7世紀につくられたもののようです。

2 代表的な朝鮮式(百済式)山城

 奈良にあった高安城は山の尾根を利用した朝鮮式山城でした。築城は667年11月ごろと言われています。百済救援に赴いた日本軍が白村江で唐・新羅軍と戦って敗れたために急遽、国防上の要から対馬・壱岐などに城が築かれました。この高安城はそのうちの一つです。昭和53年4月、高安山のあたりに倉庫跡の礎石が発見されて話題を集めました。

 また、はっきりとした場所が確認されておらず「幻の城」として関心をよんでいるのが、長門城です。日本書紀によれば、天智天皇の4年と9年、長門国に対外防備のための城を築いたとあります。その所在については長門国府の置かれた下関市長府周辺の茶臼山、火の山、四王司山などの諸説があり、響灘や周防灘を一望できる火の山説が一番有力とされています。

筑紫郡大宰府から柏尾郡宇美にかけて広がる大城山に大野城の城跡があります。白村江の戦があった二年後、天智天皇の4年に築かれました。大宰府を護り、西海防備が築城の目的です。基肄城と並んで、典型的な朝鮮式山城の一つに数えられています。百済の軍人で、しかも高級官人だった憶礼福留、四比福夫が指揮をとり築城したといいます。広い城内には、増長天・毘沙門天など方位守護の建物礎石も残っており、岩屋城に連なる防衛線を形成しています。
 九州には他にも朝鮮式山城があり、長崎には金田城があります。外浅海の湾口から6kmのところに建っています。標高は267m。遠い上見坂の展望台から眺めても一部断崖を見せる特殊な山容で、すぐにそれと分かります。天智天皇のころに築かれたもので、ここから韓国の巨済島までは60kmほどしかありません。1419年には朝鮮の軍船二百船ほどが、この城の東方4kmの尾崎浦を攻めてきました。

 熊本には鞠智城があります。大和朝廷が、他の城とともに大宰府の防衛拠点で、肥後国でもっとも古い城です。城は米原台地を中心に築かれた朝鮮式山城です。古い史料では「くくち」と読ませ、和銅6年(713年)の郡・郷改正で菊池となり、以後は菊池城院と記されました。廃城の時期は不明です。付近一帯に多数の礎石郡が発見されています。

 四国では屋島城があります。日本書紀の一説に「天智天皇6年(667年)。大和国高安城、讃岐国山田郡屋島ノ城、対馬国金田城ヲ築ク」とあります。当時、朝鮮半島では新羅が百済を滅ぼし、高麗も脅かしていました。そこで天智天皇が築城していった城のうちの一つです。この城を有名にしたのは1185年の源平屋島の合戦です。「義経の弓流し」「那須与一の扇の的」などはここが舞台となっています。

 こういった朝鮮式山城の他に福岡県には怡土城があります。この城は山の頂の方から山の麓に向かって長い土塁を築いて、西側の麓には石塁も作られました。これは攻撃することも可能な中国式(大陸式)の山城とされています。築城の責任者が唐に留学していた吉備真備であったために唐風の築城となったものと考えられています。

 このように日本の山城はルーツが朝鮮(百済)にあるものが多くあるのです。
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