日本史

東郷平八郎イケメン伝説! 顔も生き様も極上の日本海海戦英雄秘話

関連キーワード

東郷平八郎が今ドキなイケメンフェイスって知ってた?

日露戦争における日本の勝利の立役者であり、当時「世界最強」と謳われていたロシア帝国が誇るバルチック艦隊を、日本海海戦にて撃滅した世界的スーパーヒーロー。 日本海軍の勇名を世界に轟かせた東郷平八郎といえども、最近の若者からすれば「やたらと厳しそうな明治のおじいさん」といった印象かもしれません。
現代の平成の世から100年以上前、はるか昔に生きていた東郷平八郎ですが、今ドキの若者なら、本人の写真を見ればきっと好きになってしまうはずです。

なぜなら、東郷平八郎は、甘いフェイスのイケメン提督だったからです。

まるで今が旬の若手人気俳優のような、鼻筋がスッと通った面長の完璧な美貌。 31歳の頃、政府の官費留学にて、イギリス留学中に撮影したという東郷平八郎大尉の姿です。
このイケメンフェイスで日本帝国海軍の軍服を身にまとうのですから、芸者さんから町娘まで熱い視線を浴びていたようです。ご本人もなかなかの遊び上手だったそう。

真のイケメンは、歳を重ねてからが本気の見せ所だといいますが、東郷平八郎はどうだったのでしょう?日本海海戦といった過酷な戦場を潜り抜けた結果、さぞかし疲れが顔に…。
出ていません!それどころか、目じりの小じわが逆にチャーミングな、渋みある素敵なおじ様になっていました!
日本を愛し、日本人に愛されただけではなく、その光り輝く偉業と潔癖かつ朴訥な人柄で、世界中の海軍関係者から歴史愛好家にまで今もなお尊敬されてやまない、東郷平八郎に迫ります。

東郷平八郎は何をやった人?

歴史上の人物のぬくもりを知るなら、その人の持ち物を見ることをおすすめします。
当時、その人がお気に入りだったアイテムから伝わるものは、その人自身の手の大きさや、好きな色、素材。アイテムの重みから分かる腕力や背の高さなど、見れば見るほど、その人自身が原寸大で目の前に現れてくるからです。

リアルな東郷平八郎を知るなら、神奈川県横須賀市の「三笠公園」に足を運びましょう。
「記念艦三笠」のシルエットは、きっと思っていたよりも大きいことと思います。
日露戦争における日本海海戦にて、「東郷ターン」を代表する錬度の高い艦隊運動をこなすことでバルチック艦隊の頭を押さえ込み続け、わずか2日で世界最強のロシア帝国海軍バルチック艦隊を撃破、降伏せしめた日本帝国海軍連合艦隊の旗艦「三笠」です。
日本海海戦の際にブリッジに立つ東郷平八郎司令長官を模した銅像の手元には、愛用のカール・ツァイス社の双眼鏡が。

薩摩藩士の東郷実友の四男として生を受けた東郷は、1862年の薩英戦争(薩摩藩とイギリスの戦争)に薩摩藩士として初陣した後、1868年の戊辰戦争では新潟、箱館にて箱館戦争他、数々の海の激戦に春日丸の乗船員として参戦。
若くして、対外国や内乱における海軍としての経験値を積み重ねた彼は、1871年~78年 海軍士官としてイギリスのポーツマスに官費留学します。
海軍の本場で国際法を深く学んだことが、経験値の高い戦さ上手なだけではない、ヨーロッパ的ものさしで戦局を整えることができる東郷を作りました。
当時、戦争とはすでに「戦場で勝つのが勝ち」というものではありませんでした。
戦争を観戦している諸外国に、自国の軍隊の正当性をどうアピールするかが大切で、勝つにせよヨーロッパ的ものさしではナンセンスとされる戦い方での勝利には、後日、国際的パワーバランス上の横槍が入るようになりました。
膨大な購読者を持つメディアの新聞記者や、そのバッグにいる資本家たちが好む勝ち方をすることが大切とも言えます。
東郷平八郎司令官と、彼の率いる日本帝国海軍の在り方は、最新の国際法を遵守するお手本のような軍律を誇っていました。
イギリス留学の縁や、日英同盟による国家的アシストにより、バルチック艦隊に対する日本帝国海軍の神がかった戦闘は、当時のロシア帝国の飽くなき領土拡大方針に嫌気がさしていた世界中に好意的に喧伝され、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)にて、ほぼ日本側の希望に添った領土問題解決に一役買ったとも言えます。

日露戦争、日本海海戦大勝利に世界が東郷フィーバー

東郷神社で結婚式?東郷記念館でイケてるウェディング

イケメン東郷平八郎の名は、平成の世では憧れウェディング誌に刻まれる

「東郷」と耳にした時、「戦艦三笠」や「日本海海戦」と答えるのは、残念ながらもはや時代遅れなのかもしれません。平和な世の礎のひとつが、家庭円満であるとするなら、自らの名が刻まれた神社にて、憧れの西洋風ウェディングをする若い男女を優しく見守るのも、現代版東郷平八郎風スタイルです。
あなたの想像する「東郷平八郎」は、どちらのタイプですか?

バルチック艦隊を破った明治日本の英雄・東郷平八郎の葬儀がすごいことになっていた!

歴史上の人物の中でも屈指のイケメンと言われる、日本海軍総督・東郷平八郎。現存する写真も現代風のキリッとスマートなお顔立ち(若い時もおじいちゃんになっても!)で、没後80年を過ぎた今でもファンの多い人物です。

近代化を推し進める日本がヨーロッパ諸国と肩を並べるために奮闘していた時代にその名を馳せた軍人・東郷平八郎が亡くなったのは昭和9年(1934年)のこと。その死去の際には、日本だけでなく世界各国の人々がその死を悼んだと言います。それだけ人気のある人物だったということですね。

今回は、そんな東郷平八郎の葬儀に、スポットを当ててみました。

まずはおさらい。東郷平八郎ってどんな人?

東郷平八郎と言えば、日露戦争中の日本海海戦において、大胆な戦略と統率力で、攻略難しとされたロシアのバルチック艦隊を破り日本海軍を勝利に導いた英雄として有名ですね。

ペリー提督率いる黒船来航の5年前、1848年(弘化4年)に薩摩藩士の子としで生を受けた東郷平八郎は、幕末の動乱期に青年時代を過ごしました。薩英戦争、戊辰戦争に身を投じ宮古湾戦争や函館戦争にも薩摩軍として参戦しています。
明治期に入ると、海軍の何たるかを学ぶためイギリスに留学、「国際法」を良く学び、以降対外国との歴戦の中でそれは生かされていきました。
1894年(明治27年)の日清戦争では艦長や司令官職を任され、日清戦争後~日露戦争では豊富な知識と実勢経験を買われ、司令長官としてさまざまな戦功をあげています。

日露戦争後には海軍軍令部長などに就任し、日露戦争での功績が認められ「大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)」「功一級金鵄勲章(こういっきゅうきんしくんしょう)」を授与され、その後も「大勲位菊花章頸飾」の受章といった華々しい称号を得ています。元帥(げんすい:大将の中でもとくに武功を上げた人に与えられた称号)となり軍政にも参加した東郷は、明治日本の「富国強兵」政策に深くかかわっていきました。

また、東郷平八郎はアメリカの情報誌タイムに、日本人として初めて表紙を飾ったことでも知られています。1926年11月8日号のタイム誌には、肩や胸にたくさんの章を付けた壮年の東郷が、凛々しい表情で写っているさまは、さすが歴戦の将といった貫禄が見えます。

数々の戦歴と栄誉をその身にまとった英雄・東郷平八郎も、晩年には盆栽や碁などを趣味とし、おだやかに晩年を送ったようです。
昭和9年(1934年)5月30日、東郷平八郎は咽頭がんや膀胱結石、気管支炎などいくつかの持病の悪化により86歳でその激動の生涯を閉じました。

レジェンド級の葬儀

東郷平八郎の葬儀は国を挙げて行う「国葬」でした。
急激な近代化と軍事国家への道を邁進していた当時の日本人にとって、東郷平八郎はまさにヨーロッパ諸国と肩を並べる「強い日本」の象徴でもあったのでしょう。 新聞の号外などでその死を知った日本各地の人々から、ものすごい数の見舞状が届いたと言います。

昭和9年6月5日、東京は日比谷公園にて行われた国葬を取り仕切るのは内閣書記長官・堀切善次郎をはじめとした日本政府の中心人物たちでした。軍機が上空を飛びその葬列は300メートルにも及び、沿道で葬列を見つめる国民は100万人に登ったと言われています。
また、東郷の国葬への列席のため、世界各国から儀礼艦が訪日しました。(さすがにロシアは来ませんでしたが・・・)

<東郷平八郎の国葬に訪日した国々>
・イギリス海軍(巡洋艦「サフォーク」司令長官ドレーヤ大将・艦長マナーズ大佐)
・アメリカ海軍(巡洋艦「オーガスタ」司令長官アッバム大将・艦長ニミッツ大佐)
・イタリア海軍(巡洋艦「クアルト」艦長・主席指揮官ブリヴォネジ大佐)
・フランス海軍(巡洋艦「プリモゲ」司令艦長リシャール少将・艦長ルルー大佐)
・中華民国(巡洋艦「寧海」司令王壽廷中将・艦長高憲申大佐)※艦隊は翌日に入港。

中でも、フランスと中華民国は儀仗隊(儀仗とは、儀礼の時だけ使われる武具や武器のこと。実用ではない装飾された刀剣や弓矢など)を葬列に加えて追悼を表しています。
横浜港にあつまるたくさんの軍艦、響く弔砲・・・偉大な一人の日本人の死を悼むその様子は、さぞかし物々しくも華やかであったことでしょう。

鹿児島でも県民葬。遺髪や入れ歯まで保管されている!?

国葬と日を同じくして、東郷平八郎の故郷である鹿児島でも、その死を悼み県民葬が行われました。多くの軍人や団体代表者など5千人を超える参列者が集まり、東京へ向かい黙とうをささげたと言います。商店は休業、市井の人々は門を閉ざし、まさに県民あげての追悼でした。

鹿児島県民が、東郷平八郎の墓所として定めたのが鹿児島市にある多賀山です。東郷平八郎は東京都の多摩霊園に埋葬されているため、鹿児島には遺骨はなく変わりに遺髪が埋葬されています。

ほかにも、海上自衛隊幹部候補生学校にも遺髪が保管されており、なんと生前東郷平八郎が使用していた総義歯(総入れ歯、ですね)は、現在、東洋学園大学の資料室に保存されています。

さいごに

戦争がすっかり「対岸の火事」となった私たち現代人にとっては、軍事国家として邁進していた日本の在りし日々が、よく理解できない部分もあります。国家情勢に危機感を感じているのは今の日本でもほんの一握り、多くの人々は今目の前の生活を守ろうと必死に生きていることでしょう。

「戦争って、殺し合いでしょ、軍人って戦争をする人でしょ」・・・確かにそうかもしれませんが、そんな私たちが、歴史や偉人から学べることもきっとあるはずです。こんなにも世界中から死を悼まれた東郷平八郎の偉業を、今一度調べてみる良い機会かもしれません。

日本海軍の英雄【東郷平八郎】を知るならコレ!東郷平八郎が出てくるオススメ映画と小説

明治維新以降、ようやく文明の夜明けを迎えていた明治日本。
政府は国内の安定統治を図るとともに、対外政策での最優先事項を「欧州列強に追い付け、追い越せ」と定め、東アジアの権益をめぐって海外勢力としのぎを削っていました。1904年(明治37年)に勃発した日露戦争はその後の日本の立ち位置を決めたと言うべき戦争です。

さて、今回紹介いたします【東郷平八郎】は、日露戦争を勝利に導いた英雄、かの日本海海戦で大国ロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本海軍の総司令官です。
非常に有名な人物ですので皆さんも歴史の教科書で見た記憶があるかと思います。
若い頃はすっきりとした現代風イケメン、お年を召してからはそこに渋さと歴戦の迫力が加わりなんともカッコイイのです。晩年にはなんとアメリカの情報誌タイムの表紙を飾りました。

「日本のネルソン」と呼ばれた東郷。では、本家ネルソンってどんな人物?

ホレーショ・ネルソンは、1758年、イギリスの東部ノーフォークで生を受けました。成長してからはイギリス海軍に入りました。
ヨーロッパ諸国を相手にさまざまな海戦に参加しながら出世を続けていきます。途中戦争で右目の視力と右腕を失って、ネルソンは隻眼・隻腕の提督となりました。ナイルの海戦ではナポレオン率いるフランス海軍を破り、東方支配を狙うナポレオンの野望を阻止しています。

フランス・スペインの連合艦隊を相手に戦った1805年のトラファルガー海戦では、「ネルソン・タッチ」という戦術を編み出し圧勝します。

敵中ど真ん中に飛び込み的勢力を二分し、その片方を殲滅する、という作戦の「ネルソン・タッチ」は、効果的な戦略ではあるものの、先陣を切る艦は集中砲火を浴びるというは大きな危険を伴います。
しかし、指揮官であるネルソンは自らその先陣を務め、身を隠すことなく、むしろ敵から狙撃されやすい位置に立ち続けたと言います。自分だけ安全な場所で指揮をすることは、まさに部下を楯としているようなもの。
提督のネルソンがあえてリスクを背負う、そんな姿勢は味方を鼓舞し、敵に恐れを抱かせるものでした。
結局は狙撃され戦死してしまうのですが、彼のエピソードは「ノブレス・オブリージュ」――高貴な身分や上に立つ者に伴う義務:騎士道――をイギリスに浸透させ国力の躍進と熟成に一役買いました。

幕末に生を受けた新渡戸稲造は、1900年に初版が刊行された著『武士道』において「日本の武士道とは、西洋の騎士道と同じようなものである」との旨を記しました。

武士の世こそ文明開化の妨げであるかのように急いで捨て去ろうとした当時の日本で、対外戦で活躍した英雄・東郷平八郎に、騎士道の象徴でもあるネルソンを重ねるとは、歴史の複雑さやアイロニーを感じてしまいます。

東郷平八郎の姿が分かる映画と小説、イチオシはこれ!!

【映画・日本海大海戦】

監督:丸山誠治

出演者:三船敏郎 加山雄三 仲代達矢

配給:東宝

あらすじ:
ヨーロッパ諸国が東方支配をめぐり戦争を繰り返していた20世紀初頭。満州における義和団の乱の後、各国が引き上げる中、ロシアだけが満州に残りなお兵力を増やし続けていた。

危機感を抱く日本が撤退するよう交渉を続けるがついに決裂。1904年2月5日、日本とロシアの国交は断絶する。日本海軍に即時行動の指針が示され、連合艦隊司令長官である東郷平八郎は、旅順への攻略を開始した。無敵を誇るロシア海軍のバルチック艦隊は本当に来るのか!東郷平八郎には多くの岐路に立ち選択を迫られる。

筆者の感想:
公開は1969年と、確かに古い映画ではあります。最新のCGや映像美に慣れた私たちには少々荒く移るかもしれませんが、しかしそれを補っても余りある迫力と機微があります。

往年の俳優陣がいちいち渋くて漢っぽくて、カッコイイ・・・。

勝利の時、湧き立つ日本軍の中にあっても歓喜に浮かれることのできないどこか思いつめた表情の東郷平八郎が印象的です。陸軍司令官・乃木希典との会話の中で、二人の息子の戦死を悼んだ東郷に返した、乃木希典の「東郷さん、たくさんの兵隊を殺してしまいました・・・」というセリフが、最後の最後に思い出されて思わず切なくなりました。

フィクションではありますが、歴史ファンだけでなくともぜひお勧めしたい映画です。

【小説・坂の上の雲】

作者:司馬遼太郎

発表:1968年から1972年の間、産経新聞夕刊で連載。文藝春秋、文春文庫などで書籍刊行。

あらすじ:
明治維新と同時期に旧伊予国(現愛媛県)松山に生を受けた三人の若者がいた。陸軍で騎兵部隊の創設に尽力する秋山好古、その弟で海軍に入る秋山真之、真之の親友で文芸・俳句の近代化を担う正岡子規らの、成長や友情、葛藤を通して、生まれたての近代国家日本の隆盛を描く歴史小説。

2009年、秋山好古:阿部寛、秋山真之:本木雅弘、正岡子規:香川照之のキャストで、NHKでテレビドラマ化され、人気が再燃しました。

著者の感想:
秋山兄弟の弟、海軍に入った秋山真之の上官として東郷平八郎が出てきます。すっきりとしたイケメンフェイスで有名な東郷ですが、小説内では「おいどんは、」「~ごわす」なんて薩摩訛りがあって、何だか不思議とリアルな感じでした。

勃興期にある日本がその勢いに任せ近代化、西洋化を推し進めるうちに、しだいに軍国主義という狂気に飲み込まれていく・・・すでにその後の歴史を知ってしまっている読者の目線からは、確かに狂気と映りますが、渦中にあった人々はそれぞれ信念があり、正義があり、葛藤があったのだな、と当たり前のことながら深く考えさせられる作品です。

夭逝した正岡子規の無念と足掻きが、読んでいて苦しくなるほどでした。

この作品、何と言っても長いんです。文庫本で全8巻、単行本でも6巻あります。若者の青春群像劇として読めるかと言えばそうとも言えず、やはり日清戦争や日露戦争に重きを置いているので、読み流しただけでは理解は難しい作品かもしれません。

しかしその分、読み応えもあり、読んだ後の達成感や意識の変化は、読書の醍醐味を大いに感じることができます。満たされるを知る読書フリークにはもってこいの作品です。

歴史上のどのできごと、どの人物を欠いても、「今」は違ったものになっていました。

日本のターニングポイントのひとつであった日露戦争で大いに活躍した東郷平八郎。忙しい日常を離れて、時には先人たちの生き様に触れてみてはいかがでしょうか。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ