日本史

三猿、陽明門、眠り猫……日光東照宮を改めて拝観する大人の修学旅行へ!

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誰しもが知っている日光東照宮は1617年、初代将軍徳川家康を祀った神社です。17世紀から19世紀後半まで260年間にわたる江戸時代の文化と平和の礎を築き多大な功績がもたらされました。
家康は75歳の生涯を終えると久能山(静岡県静岡市)に埋納され、遺言により一年後に現在の地、日光東照宮に移されました。現在あるほとんどの社殿は、三代将軍家光によって、1636年に造替されたものです。

関東圏にお住いの方は、幼い頃に修学旅行などで日光を訪れたことがある方は多いはず。その時の感動をふたたび味わいに出かけてみませんか。大人になってから感じるパワースポットはまたひと味違うかもしれません。

栃木県日光市にある日光東照宮は1999年(平成11年)の12月02日にユネスコ世界遺産に登録された、日本が世界に誇る寺社の1つです。
世界遺産の登録をされたのは日光東照宮だけではなく、日光二荒山神社や日光山輪王寺、そして日光山の景観そのものまでが含まれています。

徳川家康は、出身は三河(愛知県東部)が出身で、戦国時代には「海道一の弓取り」とも呼ばれた、混とんとした乱世を生き抜いた武将です。
では、家康の坐す場所は幕府を開いた江戸や出身地の三河ではなく、なぜ日光なのでしょうか。それは、家康自身の遺言に答えがあります。抜粋して要約してみましょう。

“遺体は久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺、位牌は三河の大樹寺に置くこと。一周忌を過ぎた後に日光に小さな堂を作って「関八州の守り神」として祀ること”

久能山は家康の本城であった駿府城に近く、家康にとっては武将時代からの縁があります。江戸で政治を行っていたので、公的な儀礼である葬儀は江戸で行い、位牌は故郷の三河に置きたいと思ったのでしょう。そして江戸の鬼門を守護する場所「日光」に神として勧請されることで、江戸の恒久繁栄を見守ろうとしたのです。

実際、家康は亡くなると久能山に納められ、一年のち日光に勧請されます。二代将軍の徳川秀忠は家康の遺言通り、日光に質素な素木の東照宮を建てました。

しかしそこで出てきたのは「天海」と呼ばれる1人の人物です。天海は、かつて家康がブレーンとして重用した天台宗の僧侶でした。天海と三代将軍は幕府の権威を大きくアピールするために家康の神格化をより強固なものにしようと画策します。そのためには、権現という称号を持つ神様・家康を祀るにふさわしい廟を作る必要性があると考えました。日本の富と技術を独占したかのような豪華な日光東照宮を造営したのです。これが「寛永の大造替」と呼ばれるものです。

中国から伝わった『北極星こそが宇宙の全てを支配する天帝である』という北辰信仰を採用し、家康と北極星を同一視することでより一層の神格化を図りました。陽明門の真上に北極星が来るように設計されているのは、有名な話ですね。

家康が恒久繁栄を願った江戸幕府は無くなってしまいましたが、家光が行った建て替えによって日光東照宮は現代までその姿を残し、世界遺産としてこれからも守られていくことになるでしょう。

家康が平和を願って築いた霊獣たちが守る日光東照宮"

1999年、世界遺産に登録された日光東照宮。徳川家康を祀った社寺として多くの人々の足が絶えない建造物は、国宝が8棟、重要文化財が34棟もあります。日本でも有数の聖域とされるこの地を訪れて歴史に思いを馳せ、ここを守る霊獣たちに注目してみましょう。

家康が子供たちに託して、後世に残そうとしたもの

幼少の頃から織田家や今川家の人質として過ごし、孤立無援で戦国時代を生き抜いた徳川家康。本当の親から愛情を受けることもなく、他人の中で各地を流転した不遇な幼年時代の経験から、彼はずっと天下泰平の時代を夢見ていたのかもしれません。豊臣秀吉の死後に天下統一を果たしたのときには、74歳になっていました。家康はその翌年に亡くなりますが、遺言には「遺体は久能山に収め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と記されていました。その思いは秀忠、家光と三代に渡って引き継がれました。そして日光東照宮という社寺が生まれたのです。家康が遺言に残してまで建造を望んだのが日光東照宮でした。

戦国時代を生き抜き、天下太平の世を実現した家康が末永い平和を願ってこの地に日光東照宮の建立を思い立ったのは、必然だったのかもしれません。興味深いのは、祀られているのが徳川家康ということです。普通の社寺は、日本に伝わる神を祀りますが、ここでは人間を祀っているのです。

家康が守り神となったこの場所は、源頼朝による日光山信仰にはじまり、関東地方では常に宗教的な中心地でした。その縁ともいえるのか、江戸から北の位置にある日光は、天でいう北極星の位置と重なっており、江戸の守護神となっているのだともいわれています。そして、重要な建造物を線で結ぶと北斗七星の形になるそうです。 現在の日光東照宮は、家光による「寛永の大造替」のときに建て替えられたものです。死後も家康に仕えたいと考えるほど心酔していた家光が建て替えたからこそ、東照宮は優れた建築群として後世にまで残ったのかもしれません。

様々な霊獣に囲まれた壮大な建造物群は見ごたえ十分

 東照宮の玄関口である一ノ鳥居をくぐった左手には五重塔が聳えています。この塔には秀忠の干支の卯、家光の干支の辰の彫刻なども見られます。

 五重塔を過ぎて、しばらく進んだところに表門があります。ここから、いよいよ本殿に向けて足を踏み入れていくと、目の前には宝物殿である上神庫、中神庫、下神庫があります。内部には「千人武者行列」で使用される馬具や装束が収められており、この三つを総称して三神庫と呼ばれています。上神庫の屋根の下には狩野探幽が下絵を描いた「想像の象」の彫刻があります。これはその名の通り、象という動物が存在するのは知っているが、その造形を見たことのない狩野探幽が想像で作ったという風変わりな彫刻です。三神庫の向かいにある神厩舎では、有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」の「三猿」が見られます。それに加え、左から右へ8つの物語が展開していて、それぞれに長い人生の一場面を表しているのが特徴です。

 さらに進むと東照宮の神馬をいれる馬屋・神厩舎があります。ここに入れるのは雄の白馬に限られています。東照宮の初代の神馬は、家康が関が原の戦いで乗った馬で、境内に厩舎を建てたのは、東照宮が最初といわれています。限られた時間でしか神馬を見ることができないので、ぜひ公開されている時間帯に訪れたいものです。東照宮の中では、この神厩舎だけが漆の塗られていない素木造りの建物で、質素な雰囲気です。

美しくも精巧な霊獣たちの彫刻で彩られた陽明門の佇まい

 ここから少し進むと御水舎があるので、手を洗い、口をすすぎ、心身を清めます。鳥居をくぐって、さらに進んでいくと精巧で美しい装飾が施された陽明門があります。日光東照宮のハイライトのひとつです。建築物の造形や色合いにも目を奪われますが、じっくり見たいのは、華美な曲線でつくられた動物の彫刻です。総数は何と五百体以上にも及び、霊獣と呼ばれる動物は30種類近くあります。別名は日暮の門。この門を目の前にすると、なぜそのような名前が付けられたのかがすぐに理解できます。職人の技が遺憾なく発揮された彫刻と堂々とした門構えは、ずっと見ていても飽きないほど興味深いもので、いつまで眺めていても飽きないほどです。彫刻のどれもが平和を意味するもので構成されています。例えば、唐破風の軒下に掲げられた「東照大権現」の額の下に2段で並んでいる霊獣は、上が「竜」、下は「息」といいます。これらは口の開き具合が違っていて自分と相手は違うのが当然という教え、つまりそれぞれの個性を尊重するという精神が込められています。

 彫刻をじっくり見た後に陽明門をくぐって祈祷殿の南側の東回廊に向かうと有名な「眠り猫」が見られます。

 これは江戸時代の伝説の名工・左甚五郎の作だそうです。ただこの左甚五郎の作品は全国に百ヵ所近くもあり、交通機関のない江戸時代では、生涯をかけて旅をしたとしても、その数をこなすのは不可能です。そのため左甚五郎の作は名もなき腕利き職人たちの業績であるともいわれています。そんな一作「眠り猫」が意味しているこのような説があります。「眠り猫」の真裏には竹林で遊ぶ2羽の雀の彫刻があり、もし猫が起きていれば雀は食べられてしまうので猫を居眠りさせて雀と同居させているというのです。このような霊獣たちにもこめられた平和への思い。それこそが日光東照宮に託された家康の最後の願いだったのかもしれません。

参道から期待をふくらませ、お目当ての場所へ

玉砂利の敷かれた参道は、地形を生かして造られており、緩やかな上り坂になっています。
日本三大石鳥居の1つでもある日光東照宮正門の石鳥居は、1618年に九州筑前藩主黒田長政により奉納されたもので、石材は船と陸路を人力によって運ばれました。
石鳥居をくぐると左手に五重塔が見えてきます。これは小浜藩主酒井忠勝により奉納されたものです。
仁王像が左右に配置された表門(別名仁王門)を通ると神厩舎があります。文字通り厩(うまや)であり、猿が馬を守るとの言伝えにより猿の彫刻が8面にわたり描かれ人の一生が描かれています。「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻はあまりにも有名です。
よく見るとポップな猿の姿に、現代アートを見る気さえしてきます。

国宝「陽明門」は圧巻!

必見なのが日本を代表する美しい門、陽明門。実際に目の前に立つといつまで見ていても飽きないほどで「日暮の門」と呼ばれている所以がよくわかります。故事や逸話、動物等が色彩鮮やかに描かれており、500以上の彫刻がほどこされているそうです。

祈祷殿では、結婚式や初宮などの祈祷が行われますが、その横に位置する廊下に左甚五郎作「眠り猫」の彫刻を見ることができます。「日光」に因んで日の光を浴びて、うたた寝をしている姿を描いたとも、裏に彫刻された「雀」を守って番をしている姿とも言われています。

その奥200段の石段を上った先に奥宮があり、ここが家康の墓所になります。今でもここから世の中を見ていて天下泰平を願っているのかもしれませんね。

「鳴き龍」も見逃せません

敷地内薬師堂には「鳴き龍」が天井に描かれています。これは狩野永真安信によって描かれたもので、8メートルに及ぶ水墨画です。昨今では外国人の観光客も多く、所化さんが日本語と英語による流暢でおもしろい解説をしてくれるほか、拍子木を打って龍が鳴くさまを聞かせてくれます。龍の場所によっては響かず、顔の下で拍子木を打つとカーンと反響し龍が鳴いたように聞こえます。足元の板にも反響する仕掛けが施されている訳ですが、先人の知恵とその匠の技には目を見張るものがあります。
案内の最後には、龍の鳴き声を鈴と模した「鈴」の紹介があり、お土産として買うことができます。新色・限定色などもありますので、ぜひチェックしてみてください。


日光東照宮 日光東照宮社務所
住所:栃木県日光市山内2301
電話:0288-54-0560 (代)
拝観時間:4月1日~10月31日(8:00~17:00)
11月1日~3月31日(8:00~16:00)
※各期間とも受付は閉門30分前に終了
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