非常食にもなるって本当!?“パワーフード”ようかんのヒミツ
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「ようかん」と聞いて浮かぶのは、お茶請けであったり、お手土産であったり、普段から食べるというよりも少し特別なものとしたイメージが強いでしょうか?
実はようかんはとても日持ちがします。一般的に販売されているものでも一年近く持ちますし、保存用に販売されているものは5年保存などが出来るようになりました。
特に震災を意識した非常食の備蓄や、趣味のサイクリング、登山、マラソンといったスポーツ人口の増加が背景にあり、少量でも高エネルギーで手頃に食べられることや、かさばらないことなどから「パワーフード」として注目度が上がってきています。
実はようかんはとても日持ちがします。一般的に販売されているものでも一年近く持ちますし、保存用に販売されているものは5年保存などが出来るようになりました。
特に震災を意識した非常食の備蓄や、趣味のサイクリング、登山、マラソンといったスポーツ人口の増加が背景にあり、少量でも高エネルギーで手頃に食べられることや、かさばらないことなどから「パワーフード」として注目度が上がってきています。
ようかんの歴史
もともとは中国の料理で、羊の肉を煮たスープのことを「羊の羹(あつもの)」と呼び、スープが冷めると肉のゼラチンが自然と固まり煮凝りのようになりました。
鎌倉時代~室町時代に日本に伝えられましたが、伝えたのが禅宗のお坊さんであり肉食は戒律により禁じられておりましたので、精進料理に用いる際に羊肉に代わって小豆を用いたとされています。これが日本の「羊羹(ようかん)」の原型と言われています。
初期のようかんは、小豆を小麦粉や葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹でした。当時は砂糖がとても高価だったため、一般的に味付けには甘葛を使用し自然な甘さを出していました。砂糖を使用したものは「砂糖羊羹」と呼び分けがされていたほど、大変貴重なものでした。
17世紀以降に琉球王国や奄美群島などで黒砂糖の生産が開始されます。これにより国産で砂糖が入手出来るようになり、砂糖を使用した羊羹に次第に変化していきました。
鎌倉時代~室町時代に日本に伝えられましたが、伝えたのが禅宗のお坊さんであり肉食は戒律により禁じられておりましたので、精進料理に用いる際に羊肉に代わって小豆を用いたとされています。これが日本の「羊羹(ようかん)」の原型と言われています。
初期のようかんは、小豆を小麦粉や葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹でした。当時は砂糖がとても高価だったため、一般的に味付けには甘葛を使用し自然な甘さを出していました。砂糖を使用したものは「砂糖羊羹」と呼び分けがされていたほど、大変貴重なものでした。
17世紀以降に琉球王国や奄美群島などで黒砂糖の生産が開始されます。これにより国産で砂糖が入手出来るようになり、砂糖を使用した羊羹に次第に変化していきました。
ようかんの種類
一般的に見受けられる「練羊羹」は、1589年に京都において駿河屋の五代目「岡本善右衛門」が、テングサ、粗糖、小豆あんを用いて「練羊羹」を開発しました。その後様々な改良がなされ、1658年には市販されるようになっています。
江戸時代は練ようかんの全盛期であり、数多くの店舗で作られるようになりました。この際に初期の蒸し羊羹から、練り羊羹、半練りのものといった様々な羊羹や、淡雪かん、みぞれかんといった新しい羊羹も登場しています。
水分の多めな「水ようかん」は夏場に販売されますが、本来の「水ようかん」は、御節料理の料理菓子として冬に作られていました。現在では御節料理の風習は東日本の一部の地域にのみ引き継がれており、冷蔵技術の普及により夏場に冷やして食べることが多くなりました。
江戸時代は練ようかんの全盛期であり、数多くの店舗で作られるようになりました。この際に初期の蒸し羊羹から、練り羊羹、半練りのものといった様々な羊羹や、淡雪かん、みぞれかんといった新しい羊羹も登場しています。
水分の多めな「水ようかん」は夏場に販売されますが、本来の「水ようかん」は、御節料理の料理菓子として冬に作られていました。現在では御節料理の風習は東日本の一部の地域にのみ引き継がれており、冷蔵技術の普及により夏場に冷やして食べることが多くなりました。
非常食やスポーツの補給食に
有名なところでは、2015年に世界遺産として登録された福岡県北九州市の「官営八幡製鐵所」で作られた「くろがね羊羹」です。従業員の栄養補給と疲労回復のために、ポケットに入るスティックサイズとなっており、作業の合間に食べる作業員も居たということです。
最近では、井村屋から非常食用の「えいようかん」、栄養補給用の「スポーツようかん」という商品も発売されています。「えいようかん」のパッケージには、災害用伝言ダイヤルの利用方法が書かれているなど、特に震災時を想定としているようです。
「スポーツようかん」は、まるでスティックコーヒーのような見た目で、1本でご飯一杯分ほどのエネルギーと塩分補給が可能になっています。ショートブレッド系の補給食品と比べ、パサパサしたりパッケージが開けにくいといった点が異なり、携帯のしやすさと食べやすさでマラソンやサイクリングなどの補給食としてメジャーになりました。
最近では、井村屋から非常食用の「えいようかん」、栄養補給用の「スポーツようかん」という商品も発売されています。「えいようかん」のパッケージには、災害用伝言ダイヤルの利用方法が書かれているなど、特に震災時を想定としているようです。
「スポーツようかん」は、まるでスティックコーヒーのような見た目で、1本でご飯一杯分ほどのエネルギーと塩分補給が可能になっています。ショートブレッド系の補給食品と比べ、パサパサしたりパッケージが開けにくいといった点が異なり、携帯のしやすさと食べやすさでマラソンやサイクリングなどの補給食としてメジャーになりました。
ようかんの名店
・とらや
京都で室町時代後期に創業されていますが、1586年に京都御所に出入りしていた御用商人の御用開始期を記した文献から、名称が乗っていることがわかりました。虎屋にある御用記録の中で最も古いのは1635年です。羊羹だけでなく、落雁など様々な菓子を作っていたことがわかります。
現代にも続いている伝統的な製法と技術は繊細な羊羹を生み出し、大切な方への挨拶などの際に持っていく手土産に「とらやの羊羹」が必ずと言っていいほど選択肢にあがってきます。賞味期限がやはり長いので、海外へのお土産としても喜ばれます。
弾力のある歯応えと、余韻の残る上品な甘さで苦手な人でも美味しく食べることができますし、多少高価なのも納得出来ると根強い人気があります。
店舗は都内を中心に全国の主要な都市にあり、オンラインショップもありますので気軽に買うことが出来ます。
・総本家駿河屋
羊羹の歴史の中で名前が挙がるほど、羊羹と非常に密接な関係のある和菓子処です。前身となる「鶴屋」の屋号で1461年に饅頭処を開業しました。蒸羊羹を改良して「伏見羊羹」を発売したところ、徳川秀吉公より大茶会の引き出物として用いられ絶賛されます。その後も徳川家との関係が続きながら1685年に「鶴屋」を返上し、徳川家ゆかりの屋号である「駿河屋」を賜ります。
当時から連綿と続く「本ノ字饅頭」と同じく、伝統を守りながら職人の技を磨き続けた「羊羹」は現代においても絶賛されています。
総本家駿河屋は和歌山や京都といった関西に数店舗あり、分家や暖簾分けをした駿河屋が大阪と京都に数店舗あります。
京都で室町時代後期に創業されていますが、1586年に京都御所に出入りしていた御用商人の御用開始期を記した文献から、名称が乗っていることがわかりました。虎屋にある御用記録の中で最も古いのは1635年です。羊羹だけでなく、落雁など様々な菓子を作っていたことがわかります。
現代にも続いている伝統的な製法と技術は繊細な羊羹を生み出し、大切な方への挨拶などの際に持っていく手土産に「とらやの羊羹」が必ずと言っていいほど選択肢にあがってきます。賞味期限がやはり長いので、海外へのお土産としても喜ばれます。
弾力のある歯応えと、余韻の残る上品な甘さで苦手な人でも美味しく食べることができますし、多少高価なのも納得出来ると根強い人気があります。
店舗は都内を中心に全国の主要な都市にあり、オンラインショップもありますので気軽に買うことが出来ます。
・総本家駿河屋
羊羹の歴史の中で名前が挙がるほど、羊羹と非常に密接な関係のある和菓子処です。前身となる「鶴屋」の屋号で1461年に饅頭処を開業しました。蒸羊羹を改良して「伏見羊羹」を発売したところ、徳川秀吉公より大茶会の引き出物として用いられ絶賛されます。その後も徳川家との関係が続きながら1685年に「鶴屋」を返上し、徳川家ゆかりの屋号である「駿河屋」を賜ります。
当時から連綿と続く「本ノ字饅頭」と同じく、伝統を守りながら職人の技を磨き続けた「羊羹」は現代においても絶賛されています。
総本家駿河屋は和歌山や京都といった関西に数店舗あり、分家や暖簾分けをした駿河屋が大阪と京都に数店舗あります。