世界史

スコット探検隊の旅は失敗だったのか

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「失敗したからこそ、人々の心に響く」という出来事が、歴史上にはたくさんあります。
成功者の栄光の影に隠れてしまいがちな失敗者の人生に、なぜ私たちはこれほど興味を惹かれるのでしょう?

今回は未知なる南極大陸に挑み、死亡したスコットを探ります。

スコットはなぜ南極探検家となったのか?

ロバート・ファルコン・スコットは、イギリス海軍の軍人でした。

大航海時代が到来したことで、世界各地で自国の船が自然科学上の新発見を持って帰還しました。それをコレクションすることは、王家や国家の名誉と威信に直結するブームとなっていた時代です。

1868年に生まれたスコットはエリート軍人でした。自然科学に造詣が深いことは、紳士たる者の教養とされていた欧米諸国において、「南極探検」とはまさに、軍人にとっての名誉の最たるものだったに違いありません。

スコットの第一回南極探検は極点到達失敗

1837年から43年にかけて、フランス、アメリカ、イギリスの各政府は、南極大陸に探検隊を派遣しました。

イギリス政府がスポンサーとなり、イギリスの自然科学系学士院である王立協会と王立地理学会の協力企画で、スコットの第一回探検は、1901~1904年に行われました。 1902年1月に、南極大陸のロス海にて科学調査をした後、11月から犬ゾリに乗り込み、いよいよ南極大陸の未開の地奥深くへと探検に出発します。

しかし、12月30日に極点まで残り900kmに達したところで限界を悟り、岐路に着いたものの、多くの犬を失い、命からがら船にたどり着いたのは翌年の2月のことでした。

第二回南極探検ではさらなる苦難が

スコットが計画した二度目の南極大陸探検は、スポンサーのいない企画でした。彼は自分で基金を集めたのですが、そのキャッチフレーズは「極点到達」だったのです。

1910年6月にイギリスから船出し、1911年1月に南極大陸ロス島に到着後、エヴァンズ岬に基地を設営しました。

ところが今回の冒険にはライバルが突然名乗りを上げました。冒険家として世界的に名の知られたアムンセンです。

その上アムンセンは、スコットが設営した基地よりも極点に近い場所に基地を設けていたのです。

マイナス60度の寒波とブリザードの中、氷のクレバスが足元走っている南極を耐え抜くには、その過酷な環境への知識と備え、そして順応が必須です。

何が起きるかわからない未知の南極大陸では、ほんのわずかな失敗が死に繋がるのです。

1911年11月、スコット隊は8台の馬ゾリで基地を出発しました。ところが馬は苛酷な環境に耐えられず衰弱し、食糧として早々と射殺されてしました。

ブリザードやクレバスに襲われながらもスコット隊は進み続け1912年1月には極点まで315kmの位置に到着しました。スコットは日記に「前途が明るくなってきたようだ」と記しています。

しかし1912年3月の半ばあたりにはスコット隊の位置が不明となり、ついに3月30日には「極点隊はすでに壊滅したものと信じた」と他の隊員たちの日記にまとめられ、生存は絶望視されたのです。

スコットの失敗はどうやって知らされた?

イギリスの威信をかけて「世界初の南極点到達」を目指したスコットのライバルとして登場したのは、ノルウェーの探検家・ロアール・アムンセンでした。

本当は北極点到達を目指していたのですが、別の探検隊に先を越されてしまったことが分かったとたん、目的を南極点到達に変更し、南極大陸にやってきたという、スコットにとってはまさかのライバル出現だったのです。

彼がそのことを知ったのは、「我南極に向かわんとす」というアムンセンからの電報を受け取ったオーストラリア・メルボルンでした。彼もまた南極大陸に向かっている最中でした。

扱いなれた馬や雪上車を南極点到達の手段に選んだ軍人のスコットに対して、冒険家のアムンセンにはかつて船乗りの時代に南極海で流氷に閉じ込められ越冬した経験から、南極点到達には犬ゾリでのアタックを選びました。

さらに、学術調査もしながらの極点チャレンジだったスコットの計画と、シンプルに極点のみを目指したスピーディなアムンセンの計画の差も考えられます。

スコットの失敗を悟った探検隊のメンバーは、彼らの業績を後世にまで示すために、遭難したスコット隊を捜索することを決意しました。

スコット隊遭難判断から半年以上経過した1912年10月30日、雪に埋もれたテントの中からスコットと同行者のウィルスン、バワーズ3名の遺体とともに、様々な記録や標本、手紙が発見されたのです。

残された記録によると、スコット隊はアムンセンらノルウェー隊が先に南極点に到達したことを知っていました。南極点到達レースに失敗したことを知りつつ、彼らもまた南極点に向かい、ノルウェー国旗の横にイギリス国旗を立て、帰路に着いたようです。寒波に襲われ凍傷でボロボロになりながら、帰路のためのテントを移動してきたものの、ついに燃料が尽き、「残念だがこれ以上は書けそうにない」と記した3月29日を最後に記録が途絶えました。

そして、その時に残された記録の中から、アムンゼン隊が南極点にスコット隊より先に到達したことを証明する「初到達証明書」が発見されました。

自分たちが失敗し、ライバルが成功したことを認める証明書を携えて死したスコットの紳士な態度も含め、スコットは南極地初到達を失敗してもなお、イギリスの国民的英雄として今でも讃えられています。

まとめ

いかがでしたか?
死のふちでスコットは、「君に二度と会えないのが最悪だ」と妻に手紙をしたためていました。「我が未亡人へ」という宛名が書かれたその手紙を受け取ったスコットの妻は、スコットの名誉回復に良く働き、彫刻家であるその手腕で彼の銅像を製作しました。
失敗は悲しく辛いことですが、残された人々はその事実に学び、成長するのかもしれません。
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