牛にひかれて善光寺参りの意味・使い方
関連キーワード
思いがけず他人に連れられて想像していない場所に着くこと。
他人の誘いなどで良い方向に導かれていくことのたとえ。
他人の誘いなどで良い方向に導かれていくことのたとえ。
由来
その昔、信濃国(現在の長野県)の小県の里に欲深く心根が卑しい老婆が住んでいました。ある日、洗濯して軒下に布を干していました。そこへどこからか牛が一頭走ってきて、角に布を引っ掛けて去っていきました。
老婆は牛を追いかけ続けて善光寺までやってきました。そこで日が暮れてきて牛が御堂に入ったようにかき消えていきました。すると善光寺の仏からの光明が老婆を照らします。そのときに足元に垂れていた牛のよだれを見てみると、文字のように読めました。
そこには、
「うしとのみ おもひはなち そこの道に なれをみちびく おのが心を」
(牛とのみ 思いすごすな 仏の道に 汝を導く 己の心を)
と書いてありました。
老婆はたちまち仏への信心でいっぱいになり、朝まで如来像の前で念仏を唱えながら過ごしました。もう布を探そうともしていませんでした。家に帰ってからはただただ仏への祈りとともに生活をしていましたが、後日善光寺の観音堂へ参ったときに観音菩薩の足元にあのときの布があるのに気付きました。あのときの牛は観音菩薩が姿を変えていたものだったのです。
それから老婆はますます善光寺の仏への信心を深め、すばらしい往生を遂げました。この観音菩薩は現在長野県小諸市の布引観音と言われています。
老婆は牛を追いかけ続けて善光寺までやってきました。そこで日が暮れてきて牛が御堂に入ったようにかき消えていきました。すると善光寺の仏からの光明が老婆を照らします。そのときに足元に垂れていた牛のよだれを見てみると、文字のように読めました。
そこには、
「うしとのみ おもひはなち そこの道に なれをみちびく おのが心を」
(牛とのみ 思いすごすな 仏の道に 汝を導く 己の心を)
と書いてありました。
老婆はたちまち仏への信心でいっぱいになり、朝まで如来像の前で念仏を唱えながら過ごしました。もう布を探そうともしていませんでした。家に帰ってからはただただ仏への祈りとともに生活をしていましたが、後日善光寺の観音堂へ参ったときに観音菩薩の足元にあのときの布があるのに気付きました。あのときの牛は観音菩薩が姿を変えていたものだったのです。
それから老婆はますます善光寺の仏への信心を深め、すばらしい往生を遂げました。この観音菩薩は現在長野県小諸市の布引観音と言われています。
意味の変遷
善光寺がもともと女性の信仰の対象であったことから、こういった話が伝わっていると考えられています。本来はこのように信心のない人に対しても如来様が導いてくれるということを指していました。この話の場合は如来の使いとして観音菩薩が姿を変えて老婆を導きに行ったと考えられるのです。
現在では、「自分が意図していない場所に他人に連れられて行く」という直接的な意味合いから、「他人の誘いなどによって良い方向へ導かれていく」という精神的な使い方まであります。ただし共通しているのは、「向かう先が良い方向」であることです。他人に誘われて悪事の道へ進む際などにはこのことわざは使われません。
英語の表現では、
Goslings lead the geese to water.
(雛がガチョウを水辺に連れて行く)
とあり、どちらかと言えば直接的な場所を指す方で使われています。
現在では、「自分が意図していない場所に他人に連れられて行く」という直接的な意味合いから、「他人の誘いなどによって良い方向へ導かれていく」という精神的な使い方まであります。ただし共通しているのは、「向かう先が良い方向」であることです。他人に誘われて悪事の道へ進む際などにはこのことわざは使われません。
英語の表現では、
Goslings lead the geese to water.
(雛がガチョウを水辺に連れて行く)
とあり、どちらかと言えば直接的な場所を指す方で使われています。
使用法、使用例
「全然興味を持っていなかったんだけど、友人に連れて行かれた啓発セミナーで自分の進む道がわかったような気がするんだ」
「牛にひかれて善光寺参りってやつかな。良かったじゃないか。」
「牛にひかれて善光寺参りってやつかな。良かったじゃないか。」