仏像

まるでオセロ、矛盾しながら根っこは同じの不即不離

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人間関係を1枚のコインに例えることがあります。それは表と裏、両方から成るコインが決して離れない為です。
仏教のある観点では、コインよりもむしろオセロに近いかもしれません。時に白、そして黒としてひっくり返るこのゲームの駒は、1枚で二つの側面を持ちます。

不即不離の読みと意味

読みは「ふそくふり」。この言葉を平たく言えば、「つかず離れず」になります。
つかず離れずと聞くと、どっちつかずで宙ぶらりん。そんなイメージがありませんか?
「つかず離れず」は、ちょうどいい距離を保っている状態で、俗世での意味になのです。仏教では一見矛盾した二つの概念が、矛盾しているようでそうではない状態を言います。

同じじゃないけど、全然違うわけでもない

仏教でいえば悟りと迷いの関係が不即不離に相当します。
迷いは煩悩を生み出す原因であり、悟りはそんな迷いから解放された状態です。
だからといって、「迷いは駄目!絶対撲滅!悟りこそが最高!」ということにもなりません。
確かに、仏教の最終目標は涅槃と呼ばれる境地です。涅槃とは、完全に煩悩を断ち、何ものにも煩わされない状態を言います。
「迷いはもうないじゃないか」と思われるでしょう。しかし、ここに不即不離が関係してくるのです。

区別することがそもそも間違い

そもそも、迷いだの悟りだとの分けている時点で悟れていません。仏教には「空」という思想があります。
これは「全ての物事は因縁、縁起により成り立つものであって絶対に変わらない形などというものはない」という思想です。言ってしまえば皆同じ流れの一つ。
禅宗における禅問答では「自分と仏は一体である」といった表現がよく成されます。これは他と自分を分けないといった意味です。
「自分と仏は一体化する」と考えているうちは、完全に悟りきれていないのです。「私イコール仏」という概念を、言葉や頭ではなく心で理解し、それを受け入れることです。
つまりは、最初から仏と同一であることに気付くのが重要とされます。「分けちゃ駄目」と考えるのもおすすめしません。皆同じなのだから、そもそも分けるという概念すらないのです。

まとめ

黒くなったり白くなったり。名称こそ変わっても、オセロの駒自体は同一のものです。
原因があるから結果があることを根底に置く仏教では、最初から涅槃に至ることはまずあり得ません。始まりの迷いや煩悩があって、その苦しみから逃れるべく涅槃を目指すのです。
始まりの迷いがあるからもがいて、やがて涅槃にたどり着きます。人は最初か仏ですが、そのことには気づかずに終わることが多いです。
迷いの中で悟という流れを経なくてはなりません。現象としては違ったものとして感じられますが、根っこは同じなのです。

監修:えどのゆうき
日光山輪王寺の三仏堂、三十三間堂などであまたの仏像に圧倒、魅了されました。寺社仏閣は、最も身近な異界です。神仏神秘の世界が私を含め、人を惹きつけるのかもしれません。
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