一蓮托生の意味・使い方
関連キーワード
意味
結果がどうなるかはわからないが、人と運命を共にするということ。
死んだ後に生まれ変わって同じ蓮華の上に生まれ変わるということ。
死んだ後に生まれ変わって同じ蓮華の上に生まれ変わるということ。
由来
「蓮」という字が入っていることからもわかる通り、もともとは仏教用語です。仏教の世界において、友達や夫婦、知り合いなどに対して「死んだ後に同じ浄土で咲く蓮の上でまたお会いしましょう」という再会を願った言葉なのです。
似た意味の言葉で「蓮の台の半座を分かつ」というものがあります。浄土教の教えにおいては浄土に往生すると蓮の上に生まれると考えられています。つまりこれは先に浄土に旅立った人が、後から来る人に対して蓮の上の半分を空けて待っているというものなのです。いつになるかはわかりませんが、蓮の上で待っているのは後から来る人への愛情が溢れていることが予測されます。
このようにこれらの言葉は浄土でも一緒に暮らしましょうという深い絆を表した言葉なのです。ちなみに「偕老同穴」という言葉がありますが、こちらは「一緒に暮らして一緒に老いていき、同じ墓に入ること」という意味です。「一蓮托生」はこのさらに先のことを表しているとも言えます。
似た意味の言葉で「蓮の台の半座を分かつ」というものがあります。浄土教の教えにおいては浄土に往生すると蓮の上に生まれると考えられています。つまりこれは先に浄土に旅立った人が、後から来る人に対して蓮の上の半分を空けて待っているというものなのです。いつになるかはわかりませんが、蓮の上で待っているのは後から来る人への愛情が溢れていることが予測されます。
このようにこれらの言葉は浄土でも一緒に暮らしましょうという深い絆を表した言葉なのです。ちなみに「偕老同穴」という言葉がありますが、こちらは「一緒に暮らして一緒に老いていき、同じ墓に入ること」という意味です。「一蓮托生」はこのさらに先のことを表しているとも言えます。
意味の変遷
このように本来は仏教用語として死んだ後も変わらない愛や絆を表したものでした。しかし、近年この言葉を使用される際は違った意味で使われることが多くなっています。何か共に犯罪を起こした相手に対して「俺とおまえは一蓮托生だ」という言い方をしているのをよく見かけるようになっています。
ここで使用されている意味は「共犯、道連れ」です。自分と共に悪いことをしたのだから、後で罰を受けるときも一緒だという宣言になるのです。
もしくはこれから窮地をむかえるにあたって「一蓮托生だ」というときには「一緒に死ぬ覚悟がある」ということになります。どちらにせよ死後の世界で一緒に蓮の上に生まれるという意味からはほど遠くなってしまっています。
現在はこれらのようにどちらかというとあまり良くない状況で使用することが多くなってしまっているために、言葉自体のイメージも悪くなってしまっているのです。これは江戸時代ごろからの心中ものの物語などにおいてセリフとして使用されてきたことが大きく影響していると考えられます。
ここから言葉の印象が変わってきてしまったのでしょう。
ここで使用されている意味は「共犯、道連れ」です。自分と共に悪いことをしたのだから、後で罰を受けるときも一緒だという宣言になるのです。
もしくはこれから窮地をむかえるにあたって「一蓮托生だ」というときには「一緒に死ぬ覚悟がある」ということになります。どちらにせよ死後の世界で一緒に蓮の上に生まれるという意味からはほど遠くなってしまっています。
現在はこれらのようにどちらかというとあまり良くない状況で使用することが多くなってしまっているために、言葉自体のイメージも悪くなってしまっているのです。これは江戸時代ごろからの心中ものの物語などにおいてセリフとして使用されてきたことが大きく影響していると考えられます。
ここから言葉の印象が変わってきてしまったのでしょう。
使用法、使用例
「ああ、苦しい。もう俺の人生は終わりなんだ。おまえをおいていくのが悲しい」
「大丈夫ですよ。私たちは一蓮托生です。あちらの世界でまた会いましょう」
「大丈夫ですよ。私たちは一蓮托生です。あちらの世界でまた会いましょう」