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奥州藤原氏三代による黄金文化、平泉

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松尾芭蕉が奥の細道の旅で「五月雨や 降り残してや 光堂」、「夏草や 兵どもが 夢の跡」の句を残した平泉。
約850年前の平安時代後期に京の都を超える北の都として栄えた奥州藤原氏三代の栄華の跡が中尊寺や毛越寺などの国宝や重要文化財として残っています。
また、それらが2011年に世界文化遺産に登録されています。

1、中尊寺 

850年に慈覚大師によって開かれた天台宗の東北大本山です。
14世紀ごろに金色堂と経蔵を残して消失してしまいましたが、その後さまざまな堂塔が再建されています。表参道の月見坂の入り口で弁慶の墓と伝えられる石塔を見て約1kmの坂を上ります。中腹の東物見台からは、束稲山と北上川を一望できます。さらに鬱蒼と茂る杉木立の中に点在する堂塔を見ているうちに金色堂に至ります。本堂では座禅と写経の体験もできます。ただし申し込みが必要で写経には1000円がかかります。

弁慶堂は1828年に再建されました。弁慶衣川立往生の等身大木像があります。讃衡蔵は奥州藤原氏三代の遺宝、国宝、重要文化財などが3000点以上収蔵しています。展示室では三体の丈六仏、金色堂の仏具や副葬品、中尊寺経などを公開しています。2000年の春に新築されました。

金色堂は1124年に清衡が建立したと言われています。現在は鉄筋コンクリートの覆堂で保護されており、堂の内外は漆に金箔が押され、柱や須弥壇には金銀珠玉がちりばめられています。須弥壇の中には中央に清衡、向かって左右に基衡、秀衡がミイラとなって安置され、秀衡の傍に四代泰衡の首級が納められています。壇上には本尊阿弥陀如来を中心に黄金に輝く11体の仏像が安置されています。

中尊寺の付近には平泉文化史館があります。中尊寺入り口にあり、奥州藤原氏時代の建築様式を模した建物です。平泉の歴史や文化を紹介するほか、中尊寺や毛越寺が模型で復元されています。

夢館・奥州藤原歴史物語は壁面に平安絵巻を描いた建物で、107体の等身大のロウ人形や音響、照明などを駆使して前九年の役や平泉炎上などの30場面が紹介されています。

平泉郷土館は平泉文化の発展がわかるように発掘された遺物を中心に公開しています。柳之御所跡から出土した大甕などが展示されています。庭園からは平泉の町並みが見渡せます。

無量光院跡は藤原秀衡が京都・宇治の平等院鳳凰堂にならって建てたという無量光院の跡です。平等院よりも大きかったと言われていますが、度重なる火災で焼失してしまっています。

観自在王院跡は安倍宗任の娘である藤原基衡の妻が建立したものの跡です。境域は東西150m、南北257mで西域に土塁の一部が残っています。浄土庭園には大小の阿弥陀堂が立っていたと言われています。現在ではその跡に発掘に基づいて舞鶴が池が復元され、美しい林や芝生の広場が広がっています。池の東岸には鐘楼、普賢堂と伝えられる跡があります。

中尊寺東方の高館には藤原秀衡を頼って落ち延びた源義経の館がありました。そこに義経堂があり義経像が安置されています。芭蕉の句碑が立ち、春から初夏にはツツジが美しい景色となります。眼下には弁慶が立往生した衣川、北上川が望めます。

2、毛越寺 

850年に中尊寺と同じく慈覚大師が開いた天台宗の別格総本山です。藤原基衡、秀衡の時代に金銀を散りばめ、紫檀、赤木をつぎ、万宝を尽くしたといわれる伽藍や堂塔40、僧坊500が立ち並んでいました。吾妻鏡に霊場の「荘厳吾朝無双なり」と記され、中尊寺をしのぐ華麗さを誇ったと言われていますが、その後、1226年の大火をはじめとして相次ぐ兵火や野火で焼失し、現在では再築された本堂や常行堂などが立っています。

本堂は1989年に再建された毛越寺の根本道場で講話を聴いたり5人以上で座禅体験もできます。常行堂は1728年再建の天台宗の修法道場です。1月20日の二十日夜祭で優雅な延年の舞が奉納されます。

大泉ヶ池は極楽浄土を表現した浄土庭園の中心となる池です。東西約200m、南北約100mで、東南隅に州浜が入り江を作り、かたわらに荒磯を表した石組の出島があります。池の中央には島、水底には美石を並べ、龍頭鷁首の船を浮かべたといいます。800年ぶりに復元された全長80mの遣水がゆるやかに流れています。

池の周囲を桜、ツツジ、菖蒲、蓮、萩など四季の花々が囲み、5月には曲水の宴といわれる王朝時代の歌遊びが繰り広げられます。

宝物館では重要無形文化財延年の舞に使用される道具、秀衡が集めた紺紙金字一切経、支院の仏像や宋版一切経などの宝物を収蔵・展示しています。

3、平泉の黄金伝説

平安時代後期ごろ奥州の豪族藤原清衡、基衡、秀衡三代はおよそ100年にわたって中央政府とは独立した都市と文化を作り上げました。それが平泉文化です。
その背景には豊富に産出した奥州の黄金がありました。たとえば清衡が宋版一切経の購入に使用した金は10万5000両と記されており、現在の金価格にすると約80億円になるとされています。

平泉文化を築いた大量の金は藤原氏の滅亡とともにどこに消えたのか、様々な黄金伝説が語り継がれています。
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