自伝でたどる ダーウィンの生涯―豊かな家庭に生まれ、自然科学に目覚めた道のり!
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進化論の祖として知らぬ人はいない、チャールズ・ダーウィン(1809-1882)。
1859年に出版された『種の起源』(英:On the Origin of Species)は、人間と動物の連続性を提示し、その影響は生物学のみならず比較心理学といった別の分野にも波及します。
進化や自然選択の考えは、ハーバード・スペンサーによる社会的ダーウィニズムや、優生学といった時代的な思潮にも取り入れられました。ダーウィンの遺産は、21世紀にあってさえ誤解されることも多く、功罪あるといえますが、ダーウィン自身は自分の業績をどのように見ていたのでしょうか。
その手がかりになるものとして、ダーウィンが書いた自伝が残されています。
彼曰く「あたかも別世界で死んだ身となって我が人生を振り返るかのように書いた」という自伝には、彼の自然科学者としての真摯な人柄が描き出されています。彼の自伝を紐解き、ダーウィンの人生に迫ります。
1859年に出版された『種の起源』(英:On the Origin of Species)は、人間と動物の連続性を提示し、その影響は生物学のみならず比較心理学といった別の分野にも波及します。
進化や自然選択の考えは、ハーバード・スペンサーによる社会的ダーウィニズムや、優生学といった時代的な思潮にも取り入れられました。ダーウィンの遺産は、21世紀にあってさえ誤解されることも多く、功罪あるといえますが、ダーウィン自身は自分の業績をどのように見ていたのでしょうか。
その手がかりになるものとして、ダーウィンが書いた自伝が残されています。
彼曰く「あたかも別世界で死んだ身となって我が人生を振り返るかのように書いた」という自伝には、彼の自然科学者としての真摯な人柄が描き出されています。彼の自伝を紐解き、ダーウィンの人生に迫ります。
豊かな家庭に生まれて
1809年、チャールズ・ダーウィンはイングランド西武の町シュルーズベリShrewsburyにおいて、裕福な家庭の次男として生まれました。
父のロバートは町医者で、自伝の筆致からはチャールズの父への尊敬が感じられます。チャールズの母は1817年、チャールズ8歳のときに亡くなりますが、彼は母についてはあまり記憶がないと述べています。
幼いダーウィンは植物のコレクションと分類に並々ならぬ情熱を示し、夙に自然科学者の片鱗を見せました。
また、少し法螺吹きの一面もあったと自伝で告白しています。学生時代のダーウィンは語学が苦手で、それほど優秀ではなかったようですが、ユークリッド幾何学や化学、シェイクスピアの歴史劇、バイロンやスコットの詩など様々な分野に興味を持っていたといいます。
さらにダーウィンは、銃で鳥を撃ち落とすことが大好きで、はじめて獲物を仕留めたときには興奮で手が震えるほどだったと回想しています。気になる腕前は、なかなかのものだったようです。
父のロバートは町医者で、自伝の筆致からはチャールズの父への尊敬が感じられます。チャールズの母は1817年、チャールズ8歳のときに亡くなりますが、彼は母についてはあまり記憶がないと述べています。
幼いダーウィンは植物のコレクションと分類に並々ならぬ情熱を示し、夙に自然科学者の片鱗を見せました。
また、少し法螺吹きの一面もあったと自伝で告白しています。学生時代のダーウィンは語学が苦手で、それほど優秀ではなかったようですが、ユークリッド幾何学や化学、シェイクスピアの歴史劇、バイロンやスコットの詩など様々な分野に興味を持っていたといいます。
さらにダーウィンは、銃で鳥を撃ち落とすことが大好きで、はじめて獲物を仕留めたときには興奮で手が震えるほどだったと回想しています。気になる腕前は、なかなかのものだったようです。
二つの大学生活
1825年、チャールズは医師になるためにエディンバラ大学に入学します。
ダーウィンは大学の講義について「読書と比べて優れた点はないし、多くの点で劣る」と述べています。また、肝心の医学にも向かず、彼の進路は次第に自然科学へ傾いていきました。見かねた父はチャールズを牧師になることを勧め、チャールズは1828年、ケンブリッジ大学に入学します。
のちにキリスト教徒から叩かれることになるダーウィンが、牧師を目指していたとは、なんとも皮肉な話です。エディンバラ大学同様、チャールズはケンブリッジでもあまり学問ははかどらず、大学生活は「時間の無駄どころか、もっとひどかった」とダーウィンは書いています。
しかし、ダーウィンはケンブリッジでも音楽や自然科学の仲間と交友を結び、持ち前の熱心さで昆虫採集に励むなど、ダーウィンはのちの自然科学者としての大成にむけて着々と準備をしていたのでした。
ダーウィンは大学の講義について「読書と比べて優れた点はないし、多くの点で劣る」と述べています。また、肝心の医学にも向かず、彼の進路は次第に自然科学へ傾いていきました。見かねた父はチャールズを牧師になることを勧め、チャールズは1828年、ケンブリッジ大学に入学します。
のちにキリスト教徒から叩かれることになるダーウィンが、牧師を目指していたとは、なんとも皮肉な話です。エディンバラ大学同様、チャールズはケンブリッジでもあまり学問ははかどらず、大学生活は「時間の無駄どころか、もっとひどかった」とダーウィンは書いています。
しかし、ダーウィンはケンブリッジでも音楽や自然科学の仲間と交友を結び、持ち前の熱心さで昆虫採集に励むなど、ダーウィンはのちの自然科学者としての大成にむけて着々と準備をしていたのでした。
ビーグル号航海と自然科学への目覚め
ケンブリッジ卒業後、植物学の教授ヘンズローHenslowから「ビーグル号」乗船を進める手紙がチャールズのもとに届きます。
父ははじめこそ反対しますが、やがて説得に成功します。そしてチャールズはビーグル号の航海に付き添い、様々な土地の動植物や、地理を観察して回りました。このときの経験をまちめたのが『ビーグル号航海記』、ダーウィンがJournalと呼ぶ書物です。
ビーグル号の旅は自然科学者としてのダーウィンの名声を築きました。というのもダーウィンは海上からイギリスへ向け旅の記録を送っていましたが、ダーウィンの知らぬ間にこの報告が本国で評判を得ていたのです。ダーウィンはこの航海について「群を抜いて人生で最も重要な出来事で、生涯の進路を決定した。」と評しています。
ちなみにダーウィンのビーグル号随行には一つ面白い話が残っています。
当時、顔の形で性格を鑑定する骨相学が流行っていたのですが、ダーウィンの鼻は船旅に適した精神力を感じさせない、という理由で乗船を拒否されかけたというのです。
もし、鼻の形が原因でダーウィンのビーグル号航海の出鼻をくじられていたら、『種の起源』も生まれなかったかもしれませんね。
父ははじめこそ反対しますが、やがて説得に成功します。そしてチャールズはビーグル号の航海に付き添い、様々な土地の動植物や、地理を観察して回りました。このときの経験をまちめたのが『ビーグル号航海記』、ダーウィンがJournalと呼ぶ書物です。
ビーグル号の旅は自然科学者としてのダーウィンの名声を築きました。というのもダーウィンは海上からイギリスへ向け旅の記録を送っていましたが、ダーウィンの知らぬ間にこの報告が本国で評判を得ていたのです。ダーウィンはこの航海について「群を抜いて人生で最も重要な出来事で、生涯の進路を決定した。」と評しています。
ちなみにダーウィンのビーグル号随行には一つ面白い話が残っています。
当時、顔の形で性格を鑑定する骨相学が流行っていたのですが、ダーウィンの鼻は船旅に適した精神力を感じさせない、という理由で乗船を拒否されかけたというのです。
もし、鼻の形が原因でダーウィンのビーグル号航海の出鼻をくじられていたら、『種の起源』も生まれなかったかもしれませんね。
『種の起源』の出版
自然科学者として歩みを決したダーウィンは、ビーグル号の航海を通じて得た知見をもとに仕事をすすめます。
『種の起源』の構想も出版に先立つことおよそ20年前、1837年には形を成し始め、ダーウィンは綿密に資料の収集に努めます。そんな中、翌1838年のこと、マルサスの『人口論』を読んでいたダーウィンに、自然選択Natural Selectionのアイデアが閃きます。
『種の起源』の執筆に対してダーウィンは慎重を期し、1842年にようやく35ページの要約を書き上げ、1844年には加筆の末230ページの論文が完成しました。それでも出版を渋っていたダーウィンですが、1858年にA.R.ウォレスがダーウィンと同様の理論を発表したことを受けて翌年『種の起源』が出版されました。
この論文は出版後即日1250部を売り上げ、各国で翻訳されるなどセンセーションを引き起こしました。
ダーウィン自身もこの『種の起源』を「間違いなく私の主要作品だ」と述べています。
『種の起源』の構想も出版に先立つことおよそ20年前、1837年には形を成し始め、ダーウィンは綿密に資料の収集に努めます。そんな中、翌1838年のこと、マルサスの『人口論』を読んでいたダーウィンに、自然選択Natural Selectionのアイデアが閃きます。
『種の起源』の執筆に対してダーウィンは慎重を期し、1842年にようやく35ページの要約を書き上げ、1844年には加筆の末230ページの論文が完成しました。それでも出版を渋っていたダーウィンですが、1858年にA.R.ウォレスがダーウィンと同様の理論を発表したことを受けて翌年『種の起源』が出版されました。
この論文は出版後即日1250部を売り上げ、各国で翻訳されるなどセンセーションを引き起こしました。
ダーウィン自身もこの『種の起源』を「間違いなく私の主要作品だ」と述べています。
晩年
ダーウィンは1842年からは人里離れたダウン・ハウスに住み、仕事に没頭していました。
彼曰く「我が一家ほどの隠遁生活はそうそうないだろう」。晩年のダーウィンはしばしば病気に悩まされ、仕事の中断を余儀なくされることもしばしばでしたが、精力的に活動を続けました。ダーウィンは『種の起源』出版以前から病気がちで、1848年の父の葬式にも立ち会えなかったといいます。
彼の語るところによれば、晩年は趣味・趣向が変わり、若い時のようにはシェイクスピアも詩も楽しめなくなり、代わって小説が面白くなりだしたそうです。一方で自然科学への熱意は衰えを知らず、ダーウィンはなかば自虐的に「多くの事実の集まりから、一般法則を絞り出す一種のマシーン」になってしまったようだ、と述べています。
晩年、病気に悩まされながらも植物の受精や、つる植物の研究を続けたダーウィンでしたが、1882年に73歳で亡くなります。
ダーウィンは自伝の最後で、自然科学者としての成功した最大の要因を挙げています。曰く「科学への愛」であると。
彼曰く「我が一家ほどの隠遁生活はそうそうないだろう」。晩年のダーウィンはしばしば病気に悩まされ、仕事の中断を余儀なくされることもしばしばでしたが、精力的に活動を続けました。ダーウィンは『種の起源』出版以前から病気がちで、1848年の父の葬式にも立ち会えなかったといいます。
彼の語るところによれば、晩年は趣味・趣向が変わり、若い時のようにはシェイクスピアも詩も楽しめなくなり、代わって小説が面白くなりだしたそうです。一方で自然科学への熱意は衰えを知らず、ダーウィンはなかば自虐的に「多くの事実の集まりから、一般法則を絞り出す一種のマシーン」になってしまったようだ、と述べています。
晩年、病気に悩まされながらも植物の受精や、つる植物の研究を続けたダーウィンでしたが、1882年に73歳で亡くなります。
ダーウィンは自伝の最後で、自然科学者としての成功した最大の要因を挙げています。曰く「科学への愛」であると。