熊本城おもてなし武将隊の魅力と背景!

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 以前から城や古い町などの観光地で鎧甲冑を身に着けた武将姿で観光案内を行うことはありましたが、2009年に「名古屋おもてなし武将隊」が結成され、大きな成果をあげたことで全国各地に同じような団体、集団が結成されました。

 基本的なコンセプトは「その城・観光地に行けば会える」というもので、それはどこの集団も大きな違いはない。演劇が行われたり、観光客との記念撮影、他のイベントに出張参加する、テレビやラジオ・インターネットなどに出演・参加する場合もあり様々です。その団体ごとに運営形態が違うため、積極的に活動している集団もあれば、すぐに活動停止・解散した集団もある。熊本城おもてなし武将隊の場合はサンコー・コミュニケーションズが運営団体である。以下のアドレスから「熊本城おもてなし武将隊」のホームページにアクセスすることができます。
http://kumamoto-bushoutai.com/index.html

活動武将

 現在活動している武将は10名で、毎日そのうちの数名が参加してイベントが行われるという形をとっています。特に大きなイベントがあるときには10名全員が勢ぞろいすることもあります。武将は「加藤清正」「飯田覚兵衛」「森本儀太夫」「庄林隼人」「あま姫」「黒田官兵衛」「島津義弘」「立花宗茂」「細川忠興」「小西行長」です。

活動本拠地

 活動の本拠地となっているのは、もちろん熊本城です。熊本城は旅行サイトによる「行ってよかった!日本の城ランキング」において2013年から三年連続で第一位に輝いている名城です。

 華麗で勇壮、細やかな創意工夫、現存する櫓群の多さなど城郭の醍醐味が満載で、丸一日見て回っても飽きないと評判です。

 熊本城を築いたのは加藤清正。築城名人として有名な彼ですが、それには土木普請や建築を得意とした家臣「飯田覚兵衛」や「森本儀太夫」の活躍も大きくありました。その二人に「庄林隼人」を加えて加藤家三傑と呼びます。

 1601年から6年がかりで完成させ、大天守や小天守、多くの櫓を建て並べました。加藤氏改易後は細川氏が入城し、明治時代には西南戦争の激戦の舞台となりました。

 数ある見どころのなかでも必見なのは、清正の名を冠する「清正流石垣」です。空に向かって反り返った美しい曲線の石垣で、扇を開いたように見えることから「扇の勾配」と呼ばれます。天守も清正流石垣の上に築かれています。

 敵は石垣の下部の緩やかな傾斜に油断し、取り付いて登ろうとします。しかし、徐々に急勾配になるため、引き返さざるを得ません。石垣にしがみついていても上からの攻撃の的になるだけです。

 また、西出丸と二の丸のあいだにある西出丸堀と長塀も強力な防衛線となりました。さらに曲輪の配置が防御力を高めます。清正は階段状の地形を活かし、各曲輪が一つの小城郭として機能するように縄張を考案します。曲輪を一つずつ落とさなければ本丸に到達できないようにしました。そして各曲輪には、他城なら天守になるほどの多数設け、曲輪を結ぶ通路にも要所に櫓門を置いて睨みを利かせました。

 宇土櫓、北十八間櫓、東十八間櫓など合計十二基の櫓にも注目です。とくに巨大な破風が印象的な宇土櫓(現存)は全国一大きく、最も古い櫓です。大天守・小天守のように鯱があることから「三の天守」ともいわれます。

 この防御力が存分に発揮されたのは西南戦争時に西郷隆盛率いる薩摩隼人が攻め寄せたときです。このとき壮絶な攻城戦が行われましたが、ついに二ヶ月弱の間、守りきり西郷軍を追い払ったのです。このとき西郷軍は「新政府軍ではなく加藤清正に負けた」と言われました。

 ほかには2007年に復元された本丸御殿があります。照君の間などの絢爛豪華な意匠は素晴らしいものがあります。

 しかし2016年4月、熊本の大地震によって、熊本城は大きな被害を受けました。天守は屋根瓦や鯱が落ちて下地がむき出しになり、櫓のいくつかは石垣ごと崩壊してしまったのです。修復にはおよそ350億円の費用と、20年ほどの歳月が必要といわれています。

モチーフとなった武将たち

 まずは加藤清正です。豊臣秀吉の配下であり、賤ヶ岳七本槍のうちの一人として名を上げ、なかでも福島正則と並んで筆頭格でした。秀吉の死後は徳川家康に近づき、関が原の戦い後には肥後19万石を与えられ、隈本城に入りました。後に熊本城と改名することになります。

 それに加藤家三傑の三人、そしてあま姫までが加藤家の武将(姫も含む?)になります。
あま姫は清正の正室が朝鮮出兵中に現地で懐妊し、日本に引き上げる途中で出産されました。その際に赤子を取り上げたのが海女であったことから「あま」と名づけたという記録が残っています。徳川四天王の一人、榊原康政の嫡男、康勝に嫁ぎますが、康勝が早世したため、のちに大坂城代阿部正次の嫡男・政澄に再嫁しました。そこで後の老中である阿倍政能を生み、その年に30歳で亡くなりました。武将隊はこの5名と他に九州にゆかりのある大名である5名の武将から成り立っているのです。
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