ことわざ

背水の陣の意味・使い方

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意味

自ら不利な状況をつくることで、普段以上の力を発揮すること。

由来

秦が滅んでから覇権を争っていた漢の劉邦と楚の項羽の争いが由来となっています。このとき漢の韓信は劉邦の本隊とは別動隊として行動していました。順調に勝ち進んでいた韓信軍でしたが、劉邦の本隊が項羽に敗れると、劉邦は韓信が鍛え上げた精兵を没収してしまいます。このため韓信の軍は非常に数を減らしたまま趙の国を攻めることとなりました。

これより以前に趙には「刎頸の友」と呼ばれた張耳と陳余という将軍がいました。刎頸の友とは「その友のためなら首をはねられても惜しくない」というほどの親密な関係を指します。しかし二人は些細なことから仲たがいをし、陳余は張耳の一族を滅ぼします。なんとか単独で逃亡した張耳は韓信を頼りました。趙の国はこの張耳の身柄を要求してきたために韓信軍と趙は激突を免れなくなります。趙の方が圧倒的に兵力が大きく、この時の兵力差は5倍以上であったとされています。趙の「李左車」という人物が韓信軍が狭い通路を移動中に奇襲をかけることを進言しますが、陳余は「自分たちの方が大軍なのにそのような卑怯なマネはできない。正面から正々堂々と戦う」としてその策を却下しました。

兵法の基本としては「水を前にして山を後ろに陣を張る」というものがありますが、韓信はあえて「川を後ろに陣を張る」ことをしました。この陣形を見て陳余は「韓信は兵法を知らない」として韓信軍をあなどります。そして趙軍は韓信軍に攻めかかりますが、すでに自分たちが勝ったと思っているので攻撃は緩いものでした。逆に韓信軍は敗れると後ろが川で逃げ道がないために命がけで戦いました。その反撃に趙もなかなか打ち破ることができませんでした。そして趙軍が城に戻るとすでに韓信の別動隊が城を占領していたのです。前後を挟まれた趙軍はさんざんに打ち破られ、趙王も陳余も捕らえられて処刑されました。

後に韓信の部下たちは韓信に質問をします。「なぜ兵法の基本に逆らって勝てたのか」と。すると韓信は平然と答えます。「自分は兵法通りにしただけである」と。韓信が言うには兵法に「兵は死地において初めて生きる(兵士は窮地に陥ってこそ勇猛果敢に命がけで戦う)」とあるのでその通りにしたというのです。
これが「背水の陣」の由来となっています。

そして韓信は李左車に会います。その際には李左車を上座に座らせて、これからの意見を聞きたいと頭を下げました。このときに李左車が言ったのが「敗軍の将は兵を語らず」という言葉です。
しかし韓信はさらに礼をもって教えを乞います。すると李左車は「聖人の言葉にも百に一つは間違いがある。狂人の言葉にも百に一つは真理がある」として、謹んで意見を述べたとされています。
韓信は李左車を「先生」と呼び、敬いました。
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