江戸時代の大名茶人松平不昧が遺した功績

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安土桃山時代に千利休が大成させた茶の湯は、江戸時代に入ると形式化が進んでいきました。しかし、江戸時代も後半に入ると、大名の中には茶の湯に積極的に取り組み、古くから伝わる道具を収集したり新たな美意識に基づく茶道具を制作する人物が出てきました。その内の一人、不昧と号した松平治郷は、多くの名物道具を収集し、更に茶道具を分類して記録を残したことで著名な大名茶人です。

松平不昧の生涯と、収集した道具や著した著書など、茶の湯に関わる多様な活動を紹介します。

松平不昧の経歴

松平不昧は、宝暦元(1751)年、雲州松江18万6千石の藩主松平宗衍の嫡子として生まれ、明和4(1767)年、17歳の時に父から藩主の座を譲られました。不昧は、藩主の座を継承するとすぐに、破綻寸前の藩財政を改善するべく改革に取り組みます。財政緊縮策を進める一方で、和紙などの特産品の生産を振興したことが功を奏して藩の財政は好転し、安永3(1774)年には、4万4千両の剰余金が出るほどに改善していました。

不昧は、若い頃より石州流茶道を学んでいますが、藩政改革に取り組んでいた時期は身を慎み贅沢な茶事は行わなかったようです。また、贅沢に偏っていた当世の茶道を批判するような文章も残しています。しかし、財政改革に成功し、潤沢に剰余金がでるようになった安永3(1774)年、不昧は初めて茶道具「伯庵茶碗」を購入します。価格は500両で、今の価格では1千万円以上の価値にあたるものでした。以来、不昧は名物と言われる茶道具を買い集め、後に、雲州名物と呼ばれる一大コレクションを作り上げるのです。

不昧が集めた道具

不昧は数多くの名器と言われる茶道具を収集したが、それを全て分類した上で、品名とともに、誰からいくらで購入したということまで記録を残しました。これが、『雲州蔵帳』として現代まで伝わるものです。

数多く収集した道具の中には、不昧が宝物として、大切にしたものもありました。「油屋肩衝」は、1500両で購入した茶入ですが、漢作(中国製)で一番のものと位置付け、また、「槍の鞘肩衝」は和物(日本製)で最高のものとみなしました。この二つの茶器は、それぞれ、何重にも重ねられた箱にしまわれて、参勤交代の都度、不昧と共に出雲と江戸を往復したと言われています。なお、油屋肩衝は、現在、東京の畠山記念館が所蔵しており、時折、その厳重な次第とともに展示されることがあります。

また、掛物では、古田織部が2つに断ち切ったと伝わる「圜悟克勤墨蹟」(流れ圜悟)、武野紹鴎を経て、京都の豪商大文字屋が所蔵していた時に奉公人に破かれたという「虚堂智愚の法語」(破れ虚堂)の二つが宝物と評価されています。

不昧は、その他にも数多くの名器を収集しましたが、『雲州蔵帳』に掲載された茶道具類は、現在でも高く評価されて伝来しており、多くが全国の美術館、博物館に所蔵されているのです。

『古今名物類聚』の編纂

不昧は名器を収集するだけにとどまらず、自分が所蔵していない茶道具も含めて名物茶器の分類に着手し、その成果を『古今名物類聚』として編纂しました。

『古今名物類聚』には、それぞれの茶道具について、名前、図、所蔵先、寸法、付属品などを収録しました。その上で、それらの道具を、東山御物中心の「大名物」、利休時代に評価された「名物」、さらに、遠州が選定した名物は「中興名物」として分類しました。不昧は、遠州の選定眼に敬意を払っており、それまで名物に準じて取り扱われてきた遠州選定の道具に対して、「中興名物」という新たな名物としての評価を与えました。不昧が行った評価分類は、大正時代に高橋箒庵が編纂した『大正名器鑑』にも継承され、現代においても名物道具の評価の基準となっています。

不昧が生み出した茶道具と産業振興

不昧は、茶室の設計も行いました。隠居後に住んだ江戸大崎の庭園には多くの茶室を配置し、松江には「菅田庵」や「明々庵」などが現在まで保存されています。

また、不昧は、古くから伝来する道具を収集するにとどまらず、自らの美意識に基づいて新たな茶道具の制作を行いました。江戸では、名工として知られる原羊遊斎をお抱え蒔絵師とし、好みの棗などを多数作成させました。

地元松江でも美術工芸分野の産業を振興しました。不昧好みの茶陶を制作させるため、楽山焼、布志名焼の御用窯を自ら指導しています。さらには、好みの菓子も作成させていました。不昧は、茶道の手引書としてまとめた『茶事十二ヶ月』に、茶会に用いた数々の和菓子の記録を残していまが、そのいくつかは「不昧公好み」と言われています。不昧が和歌から銘をつけた「山川」、「若草」は、今でも松江を代表するお菓子として親しまれています。

不昧は、自分が指導して制作させた地元産の道具を茶会に使用することで、自分の美意識を適えるとともに、地域産業の振興にも一役買っていました。それは、楽山焼も布志名焼も現在も制作を継続しており、松江に行けば「不昧公好みの菓子」が、今も名産となっていることからも覗えるのです。
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