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さすがは開祖!傑作揃いの釈迦如来像

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そもそもの始まり、開祖の像ともなるとさすがに傑作が多いですね。元々は「お釈迦様のお姿を目にしたい」という気持ちから始まった仏像づくり、今で言えばブロマイドのような釈迦如来像にも、色々な形があります。

お釈迦様略歴

詳しい生没年は不明。アショーカ王が即位した年を基準に生まれた年が大体推測されていますが、まだいつとは分かっていません。
しかし、80歳という、生きた長さは分かっている不思議な方です。里帰り出産中に誕生し、一部族の王子として大事に育てられるものの、身分の制度や生、病、老、死の四苦を始めとする苦悩により、29歳で出家。
苦行を試みるものの「いや、これは意味ないわ」と菩提樹の下でひたすら瞑想の果てに悟りを得ました。「うわあ、物凄いこと悟っちゃったよ。でも、皆に分かるかなあ。分かってもらえないのなら、このまま誰にも知らせないのもあるかもなあ」と思います。
出家まで30年近くかかっていますし、結構煮え切らない所もあるようです。そこで、梵天という神様に「何言っているの」と言われます。「得た悟りを衆生に説いて、皆の苦しみを救ってあげなさい」という一押しで、仏教を広めることにした、というわけです。

仏舎利と石塔

お釈迦様が入滅、つまり亡くなった際、ご遺体は荼毘に付されて弟子たちに分けられました。
この仏舎利と石塔が初の仏像となるわけです。石塔とは塔老のようなもので、「ここに仏舎利がありますよ」という証。古代インドは小さな部族の王たちがおり、中には一種の見栄で「はい、これはワシがもらった仏舎利ね。この石塔が目印だからね」とこぞってどでかい石塔を建てた、とされます。
中身に仏舎利がないこともあれば、宝石だけが入っていたなんてこともあるようですが、一時はこの石塔と仏舎利が初のお釈迦様関係の信仰対象でした。

仏足跡

入滅から100年余り。まだ現在のような仏像は作られません。「お釈迦様のお姿を作る!?何恐れ多いこと言っているの!」という風潮があって、菩提樹などのシンボルをレリーフなどにした物が作られるようになりました。
先の石塔もその一つですが、もう一歩随と踏み込んだのが仏足石。お釈迦様の足の裏です。踏み込むにふさわしいものですが、何やらこちゃこちゃ刻まれています。「お釈迦様も色々旅したし、魚の目くらいできるでしょう」って、魚の目どころじゃありませんし、刻まれているのは赤く燃え立つ炎に花、魔を退ける為の鉾に、生命力の象徴、魚などなど。
ちゃんと意味があるのですね。やがて大乗仏教が誕生すると「他にも如来とかいるのではないか」との考えが盛り上がり、遂に仏像が作られることとなりました。

大仏の定義・飛鳥大仏

日本最古の仏像はやっぱりお釈迦様。飛鳥大仏というのは飛鳥寺にある大仏ということです。
言われるほど大きくない気もしますが、「立ち上がると全長4メートルほど」というお釈迦様の身長を忠実に再現したものとされます。作者は鞍作止利(くらつくりのとり)。
まだ日本には仏像を作る技術まで伝わっていなかったようで、螺髪の一本一本を、作っては付け、作っては付けを繰り返したそうです。一時野晒状態だった頃があり、螺髪が一部欠けていたり、顔などに修繕などの跡が生々しく残っている物の、荘厳とした佇まい、アルカイックスマイルに救われた気分になります。

左右対称の時代・法隆寺釈迦三尊像

平たい、左右対称、そしてアルカイックスマイルという飛鳥時代の仏像の特徴を如実に表すのが、この法隆寺釈迦三尊像と言えるでしょう。後代の物と比べるとはるかに薄いのけれど、衣のひだなどで立体感と存在感を出しています。

白鳳仏の浮かべる癒しの笑顔

関東圏で最古、ではないかと目されているのが白鳳仏こと深大寺のお釈迦様です。矢や幼さを感じさせる顔つきと、普通に両足を下げて座る独特のスタイル、そして笑顔が不思議な癒しを感じさせます。右手は施無畏印(「怖がらないで」の意)、左手は願いを叶える与願印です。

受験生におススメの上野大仏

上野公園の大仏山にあるのが、顔だけの上の大仏です。これもお釈迦様なんですが、「何で顔だけ作った!?」と驚かないように。
元々は全身ちゃんとありましたが、江戸時代に越後藩主により建立。しかし、地震で倒壊します。その後も火災、震災で何度も落ちてきたこの上の大仏、「もうこれ以上は落ちない」という願が込められて、受験生が祈願に訪れる機会も増えたそうです。

眠るような姿にさすがの一言・北枕の元となった涅槃像

お釈迦様の入滅、つまり涅槃の場面を描いた像も多数見受けられます。
通称は涅槃像ごろりと横になって、見ようによっては楽そうですが、実際には弟子や眷属たちに別れを告げている場面です。足の裏には仏足石同様に宇宙関係の模様が刻まれています。
日本では法隆寺の五重塔、東京都の真如園、愛知県の一畑山薬師寺などで見られます。実は涅槃像には「頭を北に向け、顔は西に向ける」という決まりのようなものがあり、「死者は北枕に寝かす」という習慣の元になりました。しかし、表情が穏やかです。悟りを得た者の貫禄こそありますが、死ぬというよりも眠るかのような様相ですね。

五臓六腑もありがたや・清凉寺の生身の釈迦如来像

またの名を、生身の釈迦如来。「何事!?」となりそうな通称の清凉寺の釈迦如来像ですが、話はインド時代にまで遡ります。
伝承上、初の仏像を作った優填王(うでんのう)という人物がいました。お釈迦様とは懇意でしたが、訪れた時折悪く不在。「いつでもお会いできるように」と、お釈迦様の像を作らせた、とされます。この像はそのままインドにあった、ということはなく中国に渡り、たまたま留学に来ていた東大寺の僧侶ちょう然が「スゲエ!」と感動。「これと同じの作って!日本に持ち帰る!」と、まるきりそっくりな像を作ってもらい、宣言通り日本に持ち帰りました。
「スンゴイお釈迦様もらってきたよー」と。ちょう然はこの像にふさわしいお堂を立てさせますが、完成前に逝去。弟子によって安置された場所が清凉寺だったというわけです。
で、生身ってどういうことかというと、この像には「五臓六腑」があるのです。絹で作られた内臓が、像の内部に入っているわけですね。「三国から来た、生身のお釈迦様」として、親しまれています。

三尊像の脇侍の変遷

釈迦三尊像で両脇にいるのは、普賢菩薩(向かって左。象に乗り、実践という意味の行を表す)と、文殊菩薩(向かって右。獅子に乗り、智慧を表す)ですが、実は両脇を固める脇侍も変化しているのです。初めは天部のトップで、インドの神でもあった梵天と帝釈天。次は金剛手、蓮華手という仏像でした。金剛とは煩悩を壊す金剛杵、蓮華は清らかなる花の象徴です。それが、智慧と行を表す菩薩に対に至ったのも面白いですね。

まとめ

開祖だけあって、不思議と貫禄や威厳がありますね。日本全国津々浦々、いくらだって魅力的な釈迦如来像、三尊像はあります。探してみるのもまた一興かもしれません。

変わったタイプの仏像も?知っておきたい釈迦如来像の基礎知識

大勢おわす御仏の中で、そのお名前の割に何となく地味な存在となっているのが、釈迦如来です。
釈迦如来とは、その名前からもお分かりの通り、仏教の開祖として有名なお釈迦様をモチーフとした如来です。
開祖をモチーフとしてあるのですから、普通に考えれば、かなりの中心的な存在として扱われていても不思議ではありません。
また、御仏の中でも如来に属しているのですから、菩薩や明王、あるいは天部の諸仏に比べれば、より大きな注目を浴びていてもよいはずです。
しかし、実際には釈迦如来の存在感はそこまで大きなものではなく、場合によっては不動明王や仁王様の後塵を拝している感さえあるのです。
キリスト教の開祖であるイエス・キリストの像を、あちこちの教会で普通に見ることができるのに比べると、その存在感には雲泥の差があります。
なぜ、このような違いがあるのでしょうか。また、そもそも釈迦如来とはどのような存在なのでしょうか。

釈迦如来が微妙に地味な位置付けになっている理由とは?

釈迦如来とは、仏教の開祖であるお釈迦様ことゴータマ・シッダールタをモチーフとしている如来です。
ですから非常に重要な如来ではあるのですが、密教の世界観などでは大日如来などの存在感の方が大きくなってしまうのは、ある意味、仕方のないところがあります。
たとえば、密教の世界観を表している曼荼羅の一種である胎蔵界曼荼羅では、中心に大日如来が描かれています。では釈迦如来はと言いますと、釈迦院と呼ばれている、胎蔵界曼荼羅の中央から上端への間くらいの場所に描かれています。
なぜ大日如来が中心に描かれているのかと言いますと、胎蔵界曼荼羅の世界観においては、「すべての御仏は、大日如来が姿を変えたもの」、とされているからです。
ですから釈迦如来も、大日如来がそのお姿を変えたもの、ということになります。このような発想に基づいての大日如来と釈迦如来の描かれ方になっているわけです。
誤解していただきたくないのは、釈迦如来の存在感のスケール=お釈迦様に対する扱い、ということではないのです。
如来のお姿になられたために、密教の世界観の中での位置付けの方が優先されている、ということなのですね。

立ち位置は微妙でも、外見上の影響力は意外と大きい?

前項で述べましたように、やや微妙な立ち位置の釈迦如来ですが、ではその仏像である釈迦如来像は、一体どのようなお姿をされているのでしょうか。
釈迦如来像のお姿の特徴としましては、しばしば「パンチパーマのよう」と評される、たくさんの小さな丸い塊で構成された螺髪(らはつ)と呼ばれる髪形や、白毫(びゃくごう)と呼ばれる、額の真ん中にある点のようなものなどがあります(白毫は実際には、白い巻き毛を模したものです)。また、服装も、布を身にまとっておられるだけで、アクセサリーなどはお付けになっておられません。
しかし、これらは他の如来像にも、ある程度、共通する特徴です。
これには、ちゃんとした理由があります。
実は、釈迦如来像のお姿は、如来像全体の基本形のようなものなのです。
そもそも釈迦如来像はお釈迦様をモチーフとしていますから、「真理を悟った人」である仏陀の特徴が表現されています。
そして仏陀の特徴は、三十二相八十二種好(さんじゅうにそうはちじゅうにしゅごう)という言葉で表されます。
三十二相とは、32個の優れた特徴のことです。八十二種好とは、それらをさらに細分化したものです。
釈迦如来像にはこれらの特徴が、できる限り、表現されています。できる限り、と申しましたのは、三十二相八十二種好の中には「声の響き」のように、仏像として造形するのが難しいものも含まれているからです。
すでにご紹介しました螺髪や白毫も、三十二相八十二種好から来ています。そして、釈迦如来像のみならず、如来像全ての基本形となっているのです。
ですから、他の如来像のお姿も、釈迦如来像と似通っています。
立ち位置的には微妙でも、釈迦如来像はこのような形で、大きな影響を与えているということです。

珍しいポーズの釈迦如来像がある?

仏像の中には、数パターンのポーズを持つものも少なくありません。
しかし、釈迦如来像は、その中でも珍しいポーズを持つ仏像のひとつです。
そのポーズとは、ずばり、横になっていらっしゃるお姿です。
仏像の多くは、立っていらっしゃるか、座っていらっしゃるかのどちらかが多く、横になっていらっしゃる仏像というのは、あまり見かけられません。
しかし、釈迦如来像の中には横になっていらっしゃるポーズの仏像もあり、涅槃(ねはん)像と呼ばれています。
これは、釈迦如来像が、実在の人物であるお釈迦様をモチーフにしていることと関係があります。
お釈迦様は、実在した人間です。お釈迦様という人が実際に生きておられ、そして亡くなられたわけです。ですから、その亡くなられた時のお姿をモチーフとして造られた釈迦如来像もあるのです。
仏教では、亡くなられて御仏になられることを、「涅槃に入る」と表現します。そのため、亡くなられたお姿をモチーフとしている釈迦如来像のことを涅槃像と呼んでいるのです。
ちなみに、お釈迦様の誕生された時のお姿をモチーフとした仏像もあり、誕生像と呼ばれています。
ただし、こちらは涅槃像に比べますと、より伝説に基づいたお姿となっています。
伝説によれば、お釈迦様はご生誕後、すぐに立って7歩ほどお歩きになり、天を指さして、「天上天下唯我独尊」とおっしゃられた、とされています。普通に考えればあり得ないことですが、そこが伝説の伝説たる所以です。ですから誕生像も、その伝説に従って、立ち姿で天を指さしたお姿となっています。
このように、お釈迦様の生涯のさまざまな場面をモチーフとした仏像が造られているのが、釈迦如来像の特徴です。
他のポーズの主なものとしましては、悟りを求めて苦行をされている時のお姿をモチーフとした苦行像、悟られた直後のお釈迦様のもとにやってきた悪魔を退散させた時のお姿をモチーフとした降魔像、説法をされている時のお姿をモチーフとした説法像があります。
釈迦如来像の珍しいお姿は、お釈迦様が実在の人物だったからこそ、と言えるでしょう。

知っておきたい釈迦如来像の名作とは?

いろいろな伝説も面白い!なるべくしてなった仏教開祖、お釈迦様

何にでも始まりがあります。今日の漫画の体系を作り上げたのは手塚治虫氏であり、初めて言文一致で小説を書いたのは二葉亭四迷です。
宗教に関しても同じく、開祖が存在するもの。仏教の開祖は、言わずと知れたお釈迦様。通称を仏陀(悟った者)とも呼ばれます。英雄や聖者という偉人の中には、少々伝説を盛られた人物もいますが、お釈迦様もまた、そんな聖者にして大賢者の一人であります。

御降誕

お釈迦様の生まれた頃は小さな国々が点在し争う、いわば戦国時代。詳しい生没年は分かっていませんが、大体紀元前五世紀ごろ「じゃないか」と言われています。
何で分かっていないかと言えば、古代インド人が詳しい歴史の記録を残す、と言う性質ではなかったため。ともかく、シャカ族という部族の王子として御降誕されました。本名はゴータマ・シッダールタ。ちなみに、ゴータマが名字です。
生まれたのはルンビニー園と言う所。里帰り出産をしようとした母親のマーヤー夫人が旅の最中いきなり産気づいてのご誕生です。

急な出産だった上立った状態で行ったこともあり、御降誕からわずか一週間でマーヤー夫人は亡くなってしまいます。幼いシッダルタを育てたのは、叔母に当たるマハーパージャパティーでした。そんな生い立ちを持ったシッダルタ少年は一部族とは言え王子。多くの家来にかしずかれて大切に育てられました。専用の宮殿を二つ持ち、一流の教育係を付けられるなど、贅沢の極み。おいおい、本当に出家に至るのかと思いますが、シッダルタ少年には悟りへと至る素養がありました。

世の無情について思う

シッダルタ少年は物思いに耽るようになっていきます。「何で身分の差があるのか?何で老いるのか?病気になるのか?」当時のインドはヴァルナと呼ばれる身分制度が幅を利かせており、奴隷もいれば、王もいるし、その中間もいました。

しかし、皆病気になる、老いていく、そして死ぬ。生まれることも含め「四苦」と呼ばれる苦しみです。これに愛する者との別れ(愛別離苦)や、会いたくない人と会うこと(怨憎会苦)、求めるものが満足に得られないこと(求不得苦)、気持ちも心も苦しいこと(五陰盛苦)を含めた言葉が「四苦八苦」です。「嫌だ、怖い!」と贅沢に逃げないのが一流の人間たる所以です。
「ちょっくら気晴らしいこかー」と、宮殿の東西南北の門から外でしようとしますが、各方角に老人がおり、病人がおり、死人にも出くわしました。この出来事を「四門遊出」といいます。

出家を決意

どこから行っても、老い、病、死はついてくる、そんな象徴的な出来事です。
逃げられないことを悟り、多感な時期のシッダルタは一層思い悩みます。最後の門で見たのは、修行僧の姿でした。「出家すれば苦しみから逃れられるかもしれない」と言うのが、出家を志したきっかけでした。
しかし大事な一人息子で、しかも王子。父スッドーダナは「いや、息子に出家されちゃ困るから」と、贅沢な宴を催しますが、「だから何」といった反応。挙げ句と結婚と言う手で引き止めることにします。妻となったのは、いとこのヤショダラ。
美しい妻との結婚で少しは気が晴れたかもしれませんが、やはり悩みは尽きませんでした。息子のラーフラが誕生したこともあり、29歳の時遂に出家します。馬に乗って、家出同然の出家です。

修行僧時代、そして悟りへ

ガンジス川の向こうのマガダ国にて、シッダルタは二人の師匠と出会いました。
アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の僧侶です。瞑想と言う修行の果て、物事にとらわれない無所有所、考えること、考えないことにとらわれない非想非非想処の境地に至りました。
「でも何かまだ足りない」と、真の悟りを求めて行脚の果てに「苦行やってみよう」と思い立ちます。苦行は死に繋がりかねない過酷な物。他の僧侶よりも更に過酷にしますが、「やっぱ意味ないわー」と思い至ります。自分を苛め抜いても駄目、快楽で誤魔化すのも何にもならない。
「じゃーどしたらいいの!」と怒る元気もなくなったシッダルタに、スジャータと言う娘が近づきます。彼女が差し出した粥を飲んだことで、他の修行僧からは軽蔑されますが、生気を取り戻し、今度は木の下で瞑想に入るのでした。悪魔に邪魔されながらも悟りを開き、仏陀(悟りを得た者)となります。

かつての修行仲間と再会、仏教誕生

仏陀は現在サールナートと呼ばれる場所に向かいます。
そこで、かつて一緒に修行したご人の僧侶と再会。説法をしますが、「苦行辞めた奴の話なんか知るか」と言った態度。しかし実際に聞くその内容に感心し、弟子となりました。超初期の仏教が誕生した瞬間です。

質問形式がお釈迦様の基本スタイル

この五人と共に遊行に出、多くの弟子を得ることになる仏陀。ゾロスター教徒だったカッサパ三兄弟と彼らが率いる1000人の弟子を始め、他の宗教から移るように弟子が集まりました。
男尊女卑の社会の中、女性にも優しく教理を教える為、女性の信者も増えていきます。

しかし、一番大きかったのは、「対機説法」と言う、一種の質問形式による説法にあるようです。カウンセリングにも似た疑問の投げかけと、それに関する明瞭な回答が、どんな身分、性別等を越えて仏陀の得た悟りを人々に臨機応変に届けることを可能にしたわけです。

入滅時の御言葉

弟子と共に各地を回って45年もの歳月を救済に当ててきた仏陀。80歳の時その人生に終焉を迎えます。
沙羅双樹の下、弟子のアナンダに言いました。「すべては過去へ過ぎ去る。それでも修行を続けなさい」。全ては無常、変化する。それが、仏陀の得た真理の一つでした。
仏陀の死は入滅と呼ばれます。完全なる解脱(自由を得る)の後、ご遺体は弟子たちにより荼毘に付されて、遺骨は一時信仰対象になりました。

四聖諦と八正道

仏教の基本は四諦と言う真理から成ります。「諦」というのは諦めるんじゃなくて明らかな真実と言う意味です。
まず苦諦。「肉体がある以上、この世は全て苦」という非情の宣告に聞こえます。次に集諦(じったい)。執着などが苦を生むこと。つまり煩悩です。そこから煩悩を断ち切る滅諦(めったい)に至り、悟る為の実践修行、道諦(どうたい)へと移行するのが四諦、または四聖諦です。この修行法が八正道。正しく物を見る正見、そこから生まれる正しい心正思惟、正しい言葉の正語、間違った行為をしない正業、正思惟、正語、正業により贈ることができる正しい生活を示す正命、正しい努力の正精進、常に正しい心をキープする正念、全を組み、瞑想することで精神統一を行う正定の八つ。

十二因縁

苦悩の断絶に至るには、一種の方程式のようなものを知ることが肝要です。「これがあるからこれもある」「あれがないからそれもない」といったものですが、十二因縁と呼ばれる方程式は、真理を知らない無明から始まり、行、識という状態の選択によって、最終的に無明が無くなれば苦も無くなる境地に達するというものです。

まとめ

まずはお釈迦様の人間的生い立ち等についてまとめました。別の記事では炉色な伝承等について語っていきます。

お釈迦様の伝説伝承

仏教開祖のお釈迦様、またの名を仏陀。王子という恵まれた身分に生まれながら、「生まれて、病気になり、老いて死ぬ」と言う人間の苦しみから抜け出すべく出家した大聖人ですが、それだけに面白い伝説やなるほどとうなずけるエピソードもあるようです。ちなみに別名の釈迦牟尼は、「聖人のお釈迦様」という意味を持ちます。

脇から御降誕、の理由

まず、誕生からして尋常じゃありません。母であるマーヤー夫人の脇の下からお生まれになったというのが伝承。
いやさそもそも、生まれる前から聖人ぶりを発揮していました。マーヤー夫人はヴァイシャーカ月(古代インドの暦で2月頃)のある夜、6本牙を持った白い象が腹に入る夢を見て、懐妊したとされています。白い象はインドでは聖獣。生まれた時、だけでなく生まれるに至る経緯も尋常じゃなかったんです。
月満ちて里帰り出産をしようと旅に出ますが、途中のルンビーニという園でアショーカの木(無憂樹)を見つけました。「まあ素敵」とその木に咲いた花をとろうとした途端、右の脇から赤ん坊が誕生!これがのちのお釈迦様、ゴータマ・シッダルタです。

有名と言えば有名なお話ですが、「何で脇の下なの?」という疑問もあるでしょう。口からだって額からだっていいはずです。手を伸ばしたんなら掌からお生まれになるのもいいでしょう。インドの経典『リグ・ヴェーダ』の中に、「何でヴァルナ(古代インドの身分制度)なんてものがあるの?」という問答があります。それに対し、「ハハハ、いい質問だね!」と回答したのが『プルシャの歌』。
その昔、頭と手足を千も持ったプルシャという巨人がいました。神々はお祭りの時にこの巨人を解体し、月も太陽もプルシャの体の破片から生まれたという、気の毒なんだか壮大なんだかよく分からない創世神話です。人間もプルシャの体から生じたもので、聖職者たるバラモンは口、王賊に当たるクシャトリヤは腕、もしくは脇から誕生。腿からは一般市民のヴァイシャが生まれて、奴隷のシュードラが誕生したとのこと。お釈迦様ことシッダルタは王族なので脇から御降誕、ということになったようです。

天上天下唯我独尊

お釈迦様のビックリ誕生物語はこれだけにとどまりません。生まれてすぐに立ち上がり、七歩歩いて言い放ったのが、あの「天上天下唯我独尊」です。
意味は「天の上にも下にも、私より優れた者はない」ということ。両手お指で天と地を指している像も有名です。生まれてすぐに歩いてしかもビッグマウス的な発言。聖人は違います。普通の人間がやったら白い目で見られるのでやめときましょう。

出家にも布教にも、「天」が関係

先に述べた「四門出遊」ですが、実はここにすでに仏様の戦略がありました。
悩み事から解放されるべく、遠出を試みた若きシッダルタ。しかし、東西南北の門から出ようとしても各門に病人、老人、死者がいて遠出する気も失せてしまいます。最後に修行者に出会ったことで、16歳のシッダルタ少年は出家の決意を胸に秘めるのでした。ところでこの面々、ほぼ同一人物で天部(神)の化身ですね。その名は五部浄天。八部衆の一人です。
帝釈天も協力しましたが、ほぼ五部浄天が演じました。老人や病人に化けて苦しむ様を見せたわけです。アカデミー賞助演賞モノの演技で。子供が生まれたこともあって迷いましたが結局出家したのはご承知の通り。結構優柔不断だって?思慮深い方なのです。それに、出家に至るまで相当悩んだ模様。

悟りを得た後にも、天部が活躍しました。「スンゴイこと悟っちゃったけど、常人に分かるかなあ。人に言わなくてもいいんじゃないかなあ」と、またも迷います。「言わないでおこう」としますが、待ったをかけたのが梵天。宇宙の真理の化身です。インドではブラフマーという名前で人気と崇拝を集めていました。
「お前も十分苦しんだだろう?その苦しみから自分だけ抜け出すの?悟ったことを分かりやすく教えて、助けてあげたらどう」と背中を押し、「やってみるか」とその気にさせたわけです。

まずやるべきは、矢を抜くこと

お釈迦様の弟子の中に、マールンクヤプトラと言う人物がおり、やたら質問を投げかけて来ました。
「この世界は永遠にあるのでしょうか?」「仏陀は亡くなられた後も存在なさいますか?」「この世界って果てとかありますか?」「あとあれがどうで、これがこうで云々かんぬん」等々。
熱心なのか不安なのか、「答えてくれなきゃ辞めます」とまで言い出す始末。「結婚してくれなきゃ死んじゃう」という創作物の女性キャラ並みに熱心で、ちょっとうざったいです。
しかしそこはお釈迦様。ちゃんと答えました。「ホントに答え知りたいの?でもね。お前が生きているうちに全部を知ることはできないよ」気持ちのいいほどズバッとしたご回答。清々しすぎて、逆に反論できません。お釈迦様の方も、そこで「じゃ、サヨナラ」としないのです。
「一つたとえ話をしようか」と、「毒矢のたとえ」と呼ばれるたとえ話を開始します。あるところに、毒矢に射抜かれた男がいました。「その人なんて名前ですか?」「どこに住んでいるんですか?」「どんな仕事していんですか?」「そもそも何で刺されたのですか?」なんてことまでマールンクヤプトラも聞きません。しかし、毒矢に射られた人の感覚がずれていました。
「何で俺刺されたの?誰がやったの?この辺の人?矢はどのくらいの大きさ?どんな弓使ったのか調べなきゃ!」なんて言っているうちに毒が回って死んじゃいます。
お釈迦様は言いました。「お前の疑問は、本当の苦しみとは関係がないの。そんなことを考えていたら、それだけで寿命が来てしまうよ」この話の教訓は、「グダグダ言わんと、さっさと矢を抜いて楽になりなさい」ということらしいです。

葉っぱの数

菩提樹の下で瞑想中のお釈迦様の下に、ある人物がやって来ていいました。
「あなたは何でも知っている、分かる知者だそうですね。後ろの木に何枚の葉っぱがあるか分かりますか?」いつの時代にもいるのです、こういう揚げ足取りみたいな輩。
それに対し、お釈迦様は「どうしても知りたいのなら、自分で数えなさい。私にはそんな暇ないですよ」。こう言われたらぐうの音も出ません。『毒矢のたとえ』に通ずるものがありますね。

まとめ

色々と興味深い伝承がありましたが、天部が教えを広めるように言ったりするのもなるほど納得と頷ける要素は多々あります。どんな贅沢も所詮は一時の楽しみ。
しかし、そこまで世の無常を感じるようになったのは、単に王子の身分や贅沢に虚しさを感じたためではないようなのです。オドロキのお釈迦様伝説、残りは別の記事でお送りします。

「なるべくしてなった」仏教の祖たる、お釈迦様こと仏陀ですが、聖人偉人の常で伝承や伝説に尾ひれがつくのは仕方ないにせよ、ここまで盛られた方もそうそういないのではないでしょうか。

あの世で親孝行

苦行を始めとする修行の果て、遂に悟りを開いたシッダルタは、早速報告に向かいます。誰にって?母のマーヤー夫人にです。「生まれてすぐ亡くなったでしょ」。その通り。
しかし、悟った身に不可能はありません。マーヤー夫人のいる?利天(とうりてん)という天界まで行って「母上、私は悟りを得ました」とご報告。故郷に錦を飾ることは常人もできますが、さすがにあの世まで行ってご報告は聖人でないとできませんね。かの野口英世もアメリカで名を上げて母の元に帰りましたが、存命だからできたこと。偉人クラスでも、親の喜ぶ顔は生きている内じゃないと拝めないんです。
しかし、あの世まで上れたのは単に悟れたためでしょうか?

前世物語・ジャータカ

人間歯止めが効かなくなることも多々あります。
伝説もまた同じで、「お釈迦様は凄い!前世でもこんな徳の高いことしたのだよ!」といった物語が生まれました。『ジャータカ』という経典に、その物語が見られます。これは元々インドに伝わるお話に仏教の要素を加えた物で、大体が「どーよ、お釈迦様凄いっしょ?」と言った内容。とは言え描かれているのは、前世、現世、そして来世に至る因果応報。
「ああしたから、こうなった。ああしたから、こうなる」と言った物。「ふうん。でもお話でしょ?」と侮ってはいけません。仏教がどうのこうの以前に、「色々なところから物語を集める」という意味で、『千夜一夜物語』『イソップ童話』までジャータカの影響を受けているとされます。

鳩を助ける尸毘王

尸毘(しび)というのは、釈迦族同様部族の名前です。
ここを修めていた王様は、徳の高い人物でした。
お釈迦様の前世の一つです。雷の神インドラ(後の帝釈天)と火の神ウィシュヴァルカンが「こいつどんたけのモンか試すか」と、試験を始めます。神様の気まぐれに付き合わされる形になったわけですが、まずヴィシュヴァルカンは鳩に、インドラは鷲に変身しました。ヴィシュヴァルカン鳩は「助けて王様」とばかりに王の胸元に飛び込みます。インドラ鷲は「弱肉強食は自然界の決まり、法(ダルマ)でしょ。アンタその鳩を守って法に背くの?徳が高いって聞いたのだけどなあ」とカマを掛けました。
王は言います。「鳥が喋った!」と驚くこともなく。「確かにね。でもこの鳩怖がっているし、助けてほしくて来たんだよ。助けなかったら、そっちのが法とは言えないんじゃないかな」インドラ鷲は畳みかけました。恐らく大げさにため息をついて。
「あのねえ。ここでその鳩を捕まえないと俺腹減って死ぬし、妻も子供も死んじゃうんだよ?鳩一羽の為に多くの鷲を殺す気か?それこそ悪法だ。何者も、逆らっちゃいけないのが法ってものだよ」
「さーて、どうするかな?」と様子を伺うと、王は言いました。「そうだね。でもだからって、『助けて』と怯えてる者を『ハイ、殺していいよ』と差し出すのも違う気がするんだよね。ていうかさ、アンタは食べ物が欲しいんだろう?なら私が何だって用意してあげるよ」と、水牛だの鹿だのの動物の名を挙げました。それでもインドラ鷲は鼻で笑って返します。「そんなもん食わないよ。鳩が食べたいんだ。鷲ってのは鳩を食べる物なの。アンタ物事分かってるんじゃないのか?」何でしょう、このクレーマーのような言い草。なまじ正論なだけにタチ悪いです。絶対インドラ神楽しんでやっていると思わせる物があります。

ヴィシュヴァルカン鳩も「さあどうする」と見守る中、王は続けました。「分かった。何でもお前の望む通りにしてやる。この鳩を差し出す以外は」インドラ鷲が「おーおー言っちゃってまあ」と思ったか不明ですが、「じゃ、折衷案だ。お前の肉をくれよ。この鳩と同じ重さのだぞ」と答えました。
何かシェイクスピアにこんな話があった気がしますが、王は「分かった」と、刃物で自分の肉を切り取りました。しかも、秤を用意し、ちゃんと計測しながら。「えー!?マジでやるか、おい」王の覚悟を知りたくなったのかヴィシュヴァルカン鳩は自分の重さを重くしていき、遂には王の肉がなくなってしまいました。
ならばと王は自ら秤に乗ります。生命力が滅茶苦茶強いです。しかしここで、二神は正体を現しました。「いや、騙して悪かったね。お前がどれだけのものか試したかったんだよ。鳩一羽の為にここまでやるなんて、菩薩の鑑だ」と言いながら。その前に戻してあげてと思う所ですが、何と王の力で戻ってしまいました。
それも、「衆生を救いたい」精神力から来る願いの気持ちで。「いや、大した奴だわー」というのが、二神の抱いた思いだったようです。

目を与える王

似た話はまだあります。徳の高いシビ族の王様が、普通のお布施では足りなくなって自分自身をお布施しようと思い立つようになりました。
帝釈天(ヒンドゥー教のインドラ)がまたも「じゃ、試すか」と、盲目のバラモンに変身。テスト好きですね。盲人になり、「目を一つください」とねだると、「両方あげよう」と太っ腹にも限度があると言いたくなるお返事。しかもそのまま医者を呼びます。当然みんな止めますが、「もう決めた」とし、薬を塗るや、目はポロリ。
薬を塗る段階でも痛かったのが、外れると更なる痛みに襲われます。そこから先が凄まじいです。外れた目を手の上に乗せられて、「私には智慧の目がある。それは肉眼よりもずっと素晴らしい」と宣言。激痛をこらえて、バラモンに目を与えたというお話です。
バラモンが天界に帰るや、傷みは治まりましたが、自分はもう目が見えないからと何でか出家の準備。池のほとりで迷走を始めますが、帝釈天が来て、超能力を供えた目を授けました。「これってお布施のご利益!?お布施凄い!」と皆に喧伝したため、みんなこぞってお布施をし、徳を積んだとされます。

雪山童子

今で言うヒマラヤに、雪山童子という修行者がおり、苦行に明け暮れていました。
またも帝釈天が「こいつの覚悟本物かいな」とテストを開始。その内容は、羅刹という鬼に変身して雪山童子の下に現れて、偈文(げもん)の一部を暗唱します。偈文とは仏の教えを、詩のような形で記したもの。羅刹だというのに、童子は喜んで「続き教えて下さい!」となりますが、「ワシ腹減ってるんだよね」の応酬。
「お前が自分の身を差し出すっていうのなら教えてあげるよ」となります。続きを教え、「じゃ、食わせて」となると、雪山童子はそこらに教えられた偈文を遺しました。そして身を整えるや、そのまま投身自殺を図ります。「もう悔いはない」ということですが、帝釈天が受け止め、他の天と共に雪山童子にひれ伏し「あなたは真なる仏、菩薩だ」と称えたとされます。

まとめ

栴檀は双葉より芳し。優れた者は小さなころからその片鱗を見せると言いますが、前世から優れていたと語られるお釈迦様。生身であの世まで行けてしまうパワーに、仏教、宇宙その他の力の凄まじさを感じますね。
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